Ⅸ.贄の死
―――「白羽の矢が立つ」とは、この事を云うのだろう
ドッ。
八十神の放った白き矢はオオナムチの左胸を貫く。
オオナムチは口から血を噴いて、からからに乾いた地面に叩きつけられた。
「キーーーーーーーーッ!!」
兎の姿をした白人は同種以外には悲鳴にしか聴こえないその声でオオナムチの名を叫んだ。
「仕舞った・・・・・・!!」
―――続いて、矢を引いた兄神の声が響く。
「生贄が」
「大蛇に捧ぐ者が」
白人が居た堪れない様にその場を忙しなく動き回り、あらゆる角度からオオナムチの姿を見る。
併しどの角度から見ても、矢は心臓部に真直ぐ突き刺さり、オオナムチは眼を見開いた侭、一言も発する事無くぴくりとも動かない。
「・・・・・・」
白人は温もりを失うのを否定したいが様にオオナムチの胸に耳を近づけ、心音を何度も確認した。傷口から漏れ出る血や柔かい頬には確かに体温の温かさが在る。
「死んだ・・・・・・」
白人よりも手に掛けた八十神の方が混乱に陥っていた。併し、その中に己の保身の言葉はあれど弟の身を案じる台詞は欠片も無い・・・
「莫迦者。大蛇への供物に手を掛けるとは何だや!」
「そげな心算は無がかった・・・・・・!某は・・・・・・!」
「どげさもね・・・・、之で大蛇を欺く術が無くなって仕舞うた・・・之で女子が喰われれば、八十神の責任わや」
「婚姻も破棄でよ!?」
「長兄に何と報告するだや・・・・・・」
・・・・・・? そんな折、ぽつっ、ぽつっ、と彼等の頭上に水滴が落ちてきた。
八十神は掌を夫夫頭上に翳し
「・・・・・・雨だや」
その正体が雨粒である事を確認した。
雨粒は白人にも平等に注がれていたが、その兎はその些細な雨粒には気づく事無く貪る様に死んだ稚児の亡骸を舐めている。
雨足は瞬く間に酷くなり、地面についた雨粒の点は数秒もせぬ内に濃い土色に塗り変えられる。
次第に攻撃的になり身体に叩きつけてくる雨に、八十神は義理の弟の亡骸を措いて踵を返した。早く斐伊川を越えて、出雲の実家へ帰らなければならない。
こんな県境の山中に居ても、八上姫との見合いはもう旨くはいかないだろう。
併し八十神達は斐伊川を越える事は出来なかった。
「・・・・・・?」
ガラガラ・・・と何かが崩れ、叉ドードーと押し寄せて来る様な音が聞えて八十神は背後を振り返った。
ミシミシと川原の土には罅が入り、其処にも雨の水が浸透する。
罅の先端は更に八俣に裂け、八つの首へと変貌した。
水面に鱗が浮び上がり、土手は更に裂けて決壊が始る。手足が出来、其に水が行き渡ると、まるで屏風から抜け出て来たかの様に巨大な龍が出現した。
「な・・・・・・!?」
龍は雄雄しく咆え、熱い息を八十神に向かって吹き掛ける。
すると、疫病にでも罹ったかの様に冷め遣らぬ熱と湿気を放って彼等は禍となって消えて仕舞った。
兄達を無くした八十神の残党は絶叫に近い悲鳴を上げ、斐伊川に向かって奔り出した。
龍は其を見逃す筈も無く、樹や崖さえも削り取ってうねうねと蛇行し追い駆ける。
仕舞いはオオナムチと白人を取り残し、報復の舞台を島根東部へと移して往った。
「・・・・・・」
白人はオオナムチを労った。
オオナムチの開かれた侭の眼球に容赦無く雨が入って来て、まるで泣いている様だった。
白人は一瞬だけ変身し、八上姫の幼き姿をとった。白人の頬にもすぐに雨粒が零れ落ち、泣いている様に見えた。併し、俯いて目許が白い前髪に隠れているので、本当に泣いているのかは判らない。
「オオナムチ・・・・・・」
・・・・・・白人は、オオナムチの紫色の唇に接吻をした。
―――龍が去った後でも雨は益益酷くなる許で、いつまで経っても止む気配を見せない。稚児の遺体はすっかり血の気が抜け、形代の如く白くなっていた。
因幡の白兎の姿はもう其処には無い。
ずん・・・
急に空気が重くなった気がして、奇稲田は顔を上げて周囲を見廻した。霧が濃くなっている。もとい、暗雲立ち込める禍の量が増えた。
「・・・・・・」
「――――誰かが、往にしな」
さくっ・・・。天狗の格好をしたサナト=クラマがすんなりとした身のこなしで奇稲田の横に並ぶ。外人の様なその貌立ちを、不躾に横から警戒の眼で見上げると
「・・・ああ」
無愛想に答えた。
「―――御前は本物らしいな」
一瞬にして山闇に雑ざりしあの禍は死の穢れである。其を判別できる奴は少ない。奇稲田は目を瞑り、再び開くと冷めた様に映す灰緑の瞳が様相を変える事無く前を見ているのを見、
「・・・・・・何故弔わない」
とクラマを責めた。
「後に我が金星(黄泉)にて出逢う」
! 奇稲田は一瞬、からかわれているのかと思ったが、此奴が死を司る裁判官ならば寧ろ自然と出てくる言葉だ。現世での別れ以前に生命を天秤に掛けた考え方をするであろう。嘘では誤魔化せない物腰だ。
「生贄同士の慰安文化か」
寧ろ此方が仮面を剥される様な心持になって、奇稲田は少し感情的になった。
「違う。死した者は之迄過したこの世界から唯独り離れる事となるのだ。寂しかろう。その者の為の今生に生きる者からの餞だ」
クラマはしっくり来ない様子であったが、しみじみとそう呟くとまつげを下ろして眼の周りを縁どらせた。
「“別離”か・・・・・・」
―――白いまつげ。奇稲田は調子が崩れた様にクラマを見た。
常世と現世を往来する外人は別れの感覚さえも薄いのか。
「―――素晴しき文化也」
クラマはそう云って微かに口角を上げた。
「金星には然様な文化は在らぬ。心を通わせる文化など―――併し、別離を惜しむ感情は有る故。・・・我にも、金星に置いた妻と子が在らん」
奇稲田はあんぐりと口を開けた。
「御前は本物なのだろうな」
奇稲田が元々気を許さない性格が更に疑心暗鬼になって数十間離れた処に居る素戔嗚スサノヲ)の処へ来る。奇稲田は坂を走って上って息一つ乱さないにも拘らず素戔嗚は坂を下って息が切れているという逆転現象が起っている。
「はぁ・・・っ?何だよイキナリ・・・・・・」
素戔嗚、今や一度は裁かれた事に縁り、禍で創った身軽にして呉れた羽根を失って極端に体力が落ちている。
更に云えば、今放出された禍に中って、本来以上に身体が重いのだ。
「よかった・・・!御前は本当に嘘を吐いていない。甘ちゃんで坊ちゃんで体力も無ければ智慧も無い男の風上にも置けない餓鬼だ!」
「てめぇ・・・!わざわざ助けて呉れてる神さまを勝手に措いて行ったと思えば勝手に戻って来て何ほざいてやがる!」
・・・勿論、喧嘩腰にもなる筈である。之は奇稲田が完全に悪い。併しその先喧嘩には、到ら・・・なかった。
「ははっ。よいのだ別に。餓鬼の云う事など怖くはない。聞いたか餓鬼よ。あの異人は妻子持ちだぞ。負けた・・・私は十九。御前の齢は幾つだ・・・・・・!?」
素戔嗚は顔を真赤にした。知っていた様な表情である。そうか、だから前話にて出会うなり自分にプロポーズしてきた訳か。クラマに負けたくないが為に。
「はっは。そうかそうか。御前にも可愛いところはあるのだな!」
「急に来て在り得ない詰らないコト捲し立ててじゃねェよ!狂言に決ってんだろ・・・」
「なれば、我奇稲田より齢下也」
素戔嗚と奇稲田が在り得ない仲の良さで横に並んで振り返る。仲良く似た様な表情をしてさえいた。頬が引きつっている。
奇稲田が如何に実年齢より大人びていても、否、大人びているからこそ、越えてはいけない一線があるのだと想う。
クラマは奇稲田よりも遙かに大人びた笑みを坂の下から見上げて浮べた。
「―――我、齢十六也。其処素戔嗚と同じ齢よ」
――――二人は固まった。之程、カミング‐アウトがタブー視される神仏も他にはいなかろう。
「赦サヌ!!赦サヌゾ!!」
血と禍と死の穢れに山が支配される。土から独特の臭いが涌き出し、雲の流れが速くなり空が一気に暗くなった。
「!」
先程の“死”とは比にならぬ禍の莫大な放出量に、当人達は怖かったやも知れぬ和やかな雰囲気は一変した。
「・・・・・・」
奇稲田が初めて表情を強張らせる。
・・・・・・。流石のクラマも周辺を窺う様に視線を外へと向けた。禍の量も凄まじいが、其だけでは無い何かが在る。
――――まるで、邪悪な気と対になって同じ位の割合、清浄な気も伴って流れている様な・・・・・・
―――正と邪を切り離せない。禍の力が強大である分、神聖な何かも比例して大きく感じ、身が竦む。奇稲田の巫力は比にもならない。まさか、この神聖な気が――――?
(この気・・・・・・)
クラマでさえも目つきを険しくする莫大な霊力を前に、素戔嗚は二柱とは全く異なった捉え方でこの場に単に佇んでいた。何も恐れなど懐かない。
(この感覚・・・・・・)
寧ろ懐かしい。
素戔嗚自身の霊力は、一目見て奇稲田に餓鬼と口で弄ばれる程度なので然程大きくはない。併し、考えように依ってはこの極端に潔癖な気に、彼は馴染みが有った。