Ⅷ.暴れ馬の如き姫・奇稲田(クシナダ)
思兼の速歩は本当に速い。滅多に走る事の無い男だが、之位瞬歩なのなら走る必要も無いと思う。
気にするならば、彼が益益浮れない表情をしている事よりもその瞬歩で帰宅したという面を視る方が彼の感情に関しては正しい答えを導き出せるだろう。尤も、小心で顔に出すのにも慎重になるのに出ているという事は、内心蒼白情態なのだろうが。
「・・・如何したの?」
彼の机に頬杖をついてのんびり帰りを待っていた宇受賣は、予想し得ぬ慌しさに驚いて顔を上げた。・・・返すと云って持って往った本が、背表紙から音を立てて無造作に置かれる。
「・・・・・・!」
宇受賣は只ならなさを感じ、其切立った侭で両手を机に着き考え込んで仕舞う思兼を見つめていた。・・・以前にも、この様な事があった気がする。
宇受賣も思兼もまだ子供だった頃の―――・・・
「宇受賣」
思兼は咄嗟に宇受賣を呼んだが、明らかにその後続けようとしていた言ノ葉を呑み込んだ。
手力男に頼む様に、彼女に肉体労働を恃もうとしていたみたいだが、代りに
「・・・之から私が術を使って、天岩戸時のあのメンバーを再び集める。君は私と行動を共にして呉れ給え。私が術を終える迄は、この部屋から出ない事を所望する」
と、之以上急く気持ちが先走らないよう歯止めを掛ける様に云った。
思兼が積極的に術を使う事は余り無い。霊力の浪費になるし、・・・トランス状態というものを信用していないのだろう。併し、今回は其に恃らざるを得ぬ時・・・・・・詰り、動かない方が良い時と彼は判断した。
「・・・ええ」
・・・・・・宇受賣は慎重に返事をした。
「其と」
思兼はつけ加え、其以上の情報を敢て訊かない宇受賣にのみ真実を告げた。気分転換の偶の息抜きが、妙案どころかとんでもない扉を開いていた。
「今後の天ツ神の動きにはより敏感に、されど知らぬ振りして―――着目していて欲しい。恐らく裏切者が出る」
「・・・・・・」
奇稲田はドアを開けるや否や、素戔嗚を見下ろすと
「・・・母さま」
クラマと素戔嗚の存在なんて見事に全面スルーして母・手名椎の許へひらりとかわして寄った。・・・・・男の神達、出る言葉も無し。
「・・・・・・な・・」
クラマは落ち込んだ侭上昇できない。素戔嗚も漸く何かしらの声が出てくる様になったと思うと
「ごめんなさいね、御二人共」
手名椎が申し訳無さそうに云いつつとどめを刺した。
「うちの奇稲田の悪いクセでね、自分の目線より小さな人達は視えていなくて」
ほほほ・・・この母在りきのこの娘である。そりゃあ奇稲田はスラリと背が高く、そのうえ男役を演じればとても映えそうな凛々しい相貌であり、まさに麗人であった。身長に至っては成長途中の素戔嗚よりも幾らか超えている。
・・・にしてもだ。幾らまだ伸びる余地が有ると謂っても、身長の事で女性に莫迦にされるとなるは男にとって最大の屈辱である。元々プライドが高い故他を下に見ていた素戔嗚は、その“男としてのプライド”を踏み躙られたも同然だった。
男で加勢してくれる筈の奇稲田の父・足名椎はいやぁ・・・あはは。と玄関先で頭を掻いて曖昧に笑っている。絶っっ対にこのイエは嬶天下の家庭だ。
「・・・餓鬼」
奇稲田が呟く。その一言でクラマの背筋は凍りつき、素戔嗚の背は逆にかちかち山となった。
「・・・んだと?」
「この娘ったらこの通りとてもシビアな性格で・・・口説き落せるかしらねえ」
手名椎がまるで他人事の様に形式だけ右から左に首を傾ける。足名椎も若干不本意そう乍らも玄関先から彼女と向かって左から右に首を揺らしていた。奇稲田は不意に口許が弛んだのか笑みを漏らす。
「口説き落す?其は先程の求婚の話の続きかな?・・・冗談でしょう、母さま」
はっはっは、と仕舞いには豪快な声を上げて哂った。凡そ女らしくもない。併し上品さがあった。
「餓鬼は早い処母の許へ御帰り。乳を吸うのは己が母だけで充分だろう?」
素戔嗚とクラマはつい顔を紅くした。相当喰えない女である。素戔嗚を餓鬼扱い・・・
素戔嗚程度の禍を纏う者など大した相手ではないという自信の表れか。
「・・・・・・凄まじき娘をば嫁に選びしな、素戔嗚」
クラマが素戔嗚を窺いながら小さな声で云った。奇稲田はぴくりと反応する。だが素戔嗚の心頭は最早結婚どころでは無く、存在を無視された事とその理由が自分を格下に見られたからである事、そして子供扱いをされた事に心底から屈辱の炎を燃やしていた。
何れも、素戔嗚が之迄受けた事の無い待遇である。
「・・・・・・このアマ・・・・・・!!」
「・・・母さま、この様な餓鬼の相手をするなど奇稲田には役不足で御座います。之では訓練にもなりませぬゆえ」
シュッ,と原色のビラビラとした袖から石矛が出てきて、奇稲田は振り向きざまにクラマを薙いだ。
眉間にスッと切れ目が入り、兜巾が真っ二つに破れる。
「!」
「奇稲田・・・・・・!」
露わにされた第三の眼が動揺に渦を巻き、邪気が一気に放出され視える者には周囲が暗黒色に染まる。
奇稲田には其が視えていた。
「大蛇の都合のいい隠れ蓑になったと勘違いされては困る」
禍が際限無く本来の居場処ではない現世に流出し、あの世ともこの世ともつかぬ空間となる。
そう遣って造られた異次元的世界は時代が現代に変移っても継続しており、のちの人々は之を霊山と呼んだ。
「・・・・・・御前は何者だ?」
厖大な量のこの禍を、素戔嗚は之迄見た事が無かった。
「斬られても生身は平気そうだな・・・若しくは一寸で視切ったか。其方の餓鬼が求婚というのも嘘だろう。私に用があるは・・・御前だ」
「奇稲田、早まらないで頂戴」
手名椎が誤解を解こうと必死になる。だが、生れてからずっと生命の危険に晒されきた奇稲田は簡単に心を許さない。
「何故私の味方をするとこの者達が言い出すのか奇稲田には皆目見当もつきませぬ。大蛇と似た気を放つ禍を持つ者め」
「何じゃ、おろちじゃと!?」
足名椎が断片的に聞いただけで生れて初めて聞いた言葉であるかの様に愕く。素戔嗚がうっせぇ、じじい。と手名椎に対する頭の上がらなさとは正反対に辛く当る。奇稲田の肩を手を上に伸ばして引っ掴むと
「オイこの大女。でかい事がどれだけお偉い事か知らんが、調子に乗るのも大概にしろよ。何だって俺がこんなでこっぱち仙人の下に位置づけられてんだよ?あぁ?」
と、彼女以上にクラマを愚弄した。クラマ、
「・・・・・・」
・・・・・・何も言えず。
ぱしっ、と奇稲田が素戔嗚の手を払う。
「なっ・・・・・・」
「触れるな。穢れる」
・・・・・・!! 素戔嗚の怒りの炎が再び燃え上がった。余りにも餓鬼だ不潔だと奇稲田が吐くので
「・・・・・・クラマさん、スサちゃんってそんっなに不潔なのかしら・・・・・・?」
「・・・不潔故、故郷追われたも同義也・・・素戔嗚は、汝等が思ひている程綺麗な存在ではあらぬ」
「そっ・・・そんな不潔な人間に奇稲田は遣りとぅない」
「・・・オイ其処の金星人。ある事無い事ほざいてんじゃねぇぞ」
老夫婦に非常に親身になって逆に誑かす外面ばかり良い古墳時代のヴィーナスに素戔嗚はキレる。お前は何処ぞの結婚詐欺師か。
「金星人・・・・・・?」
奇稲田が攻撃的な態度を止めて不可思議そうに首を傾げる。古墳時代の結婚詐欺師・クラマは兜巾を拾い
「然様也。我、護法魔王尊。金星より参りし裁判官也」
・・・そう云って、何も道具を使わずに切れた兜巾を修復し、再び己が額に巻いた。
「・・・之が兜巾、十二因縁が放射なれば之第三が眼の邪気を抑える物でありけり。之が眼は判決の際必須。即ち、正邪両方の世界をば知らなば、正邪を判定する事さえ出来ぬ」
手名椎と足名椎はクラマの第三の眼が視えぬ為よく解らない様な眼で見ているが、奇稲田は多少潔癖な視線を清濁呑む第三の視線に当てられ、釘づけとなっている。
「邪を知らば、誰しも多少なりとも邪に囲まるる。幽霊と同じ道理故」
クラマは素戔嗚の肩を持って背後から引き寄せる。素戔嗚は思わず顎を引き少し身体を強張らせた。
「之が素戔嗚、高天原たる永遠たる清浄世界の住人也。最も綺麗な世界を知る神乍ら、神をも知らぬ禍の気も知る。清浄で謂えば我より断然上であり、汝と同じく大蛇の禍をば嫌う。・・・我飽く迄裁く事しか出来ねど、之が神は之が山を清浄に戻す事できゆ。生れの環境の所為なれど、之が男に賭けてみれば如何や」
「おい、クラマ」
・・・奇稲田は迷っていた。金星人なんて聞いた事も無いし、九州の民と出会った事も無い。だが、各々の生れが違う事はすぐに判る。云われてみてから気づいたが、確かに素戔嗚とか云う者は邪気を感じれど其以上に清らかさを感じた。否、清らか故に邪気が際立つと謂うべきか・・・
澄み切った川ほど、濁れば余計に目立つものだ。
そう考えると、クラマとか云う者の邪気は相対的に更に強くなる。
而も、奴の言い種から察するに、その邪気の持主は奴自身ではなく第三の眼にある。
すると奴自身は何をしているのかと云うと、第三の眼をコントロール、制御していると考えるのが普通だ。
負の力が大きければ大きい程、今度は其を更に上回る正の心が無ければ制御は利かない。奇稲田はそう考えた。
蛇(邪)の道は蛇(邪)と云うし、今ほど最悪な状況もあるまい・・・奇稲田は素戔嗚とクラマを交互に見つめる。
「・・・何だ、この女・・・・・・」
素戔嗚が自ら嫁にすると云った相手に対して嫌悪の感情を剥き出しにする。
奇稲田は彼を変らず子供を相手にしている様な眼で見た。
「くれぐれも足を引っ張らない様に。私は別に御前達に気を許している訳じゃない」
「・・・はっ!俺だってそんな安い男じゃねぇし。あんたこそ、己惚れたその瞳で自爆とかすんなよ?迷惑だからな」
「・・・では向かおうぞ。大蛇が現るは今日か明日・・・・・・幾らか“準備”が必要也」
第一印象は最悪・・・併し互いに其位我が強い方が、全てを鵜呑みにしないので親としては安心である。
手名椎は笑顔で彼等を見送った。