プロローグ
惨憺、と呼ぶ他ない光景であった。数えるのもおっくうな獣の群れが、大蛇の死骸にたかるように並んでいる。
しかし貪られていたのは大蛇ではなく、人の群れであった。数百はいたであろうか。美々しく飾られた馬車の上には、死肉のおこぼれにあずかろうと、無数の大鴉がとまっている。
近くに川か沼でもあるのか、牙蛙の姿が目立つ。大型の馬車よりさらに二回りは巨大な両生類は、船を泊めるもやい綱ほどもある舌で獲物を引き込み、牙で縫いとめた後、胃を裏返して口中で消化する。
大規模な旅団だけあって護衛の騎士も多いが、皮下に毒液を有するこの魔獣にはなすすべもなかった。切りつけても内臓に届かず毒に眼を潰され、槍で突こうにも間合いは向こうが遥かに長い。
生きたまま溶かされる苦痛と恐怖。絶叫はさらなる捕食者を呼び寄せ、あたりは悪魔が催すという魔女の饗宴の様相である。
一際大きな馬車があった。白亜の車体が横倒しになっている。
中の乗員を守るため、壁も分厚い。灰色狼が飛びかかり、牙を爪を突き立てるが、かすり傷が心なしつく程度。すぐさま騎士の一刀で内臓をこぼし、絶命する。
しかし絶望的な状況は、騎士たちの奮闘を押し流してゆく。もとより地の果て、大森林の中。消化といえば、獣の胃袋の前に、彼らはこの森に喰らわれていたのだ。
特に目を引く銀光は、前線の真中で剣を振る若い男のものである。防御力を高めるために鋼板を波打たせた鎧。金だけでは購えないものだ。その細工の細かさから、かなりの高位にいると分かる。
「殿下!ここはもういけません!どうか脱出を」
「黙れ!仮にも妹を、婦女を見捨てて尻をまくれるものかよ!扉はまだ開かんのか!」
「だめです!構造が歪んで、壊さないことには、グわっ!」
どこからか跳んだ大森蜥蜴が、騎士の首を食いちぎる。牙蛙も大森蜥蜴も、闘技場で一匹あたり三人の闘士にかからせる怪物だ。それがざっと見渡すだけで二十は下らない。
牙蛙が丸太のような後肢を膨らませ、跳躍。落下地点にいた一団は、人も獣も押し潰される。
森の奥からは巨大な手が、枝をへし折りながら現れる。トロールのものだ。
名剣も使えばいつか折れる。殿下と呼ばれた青年騎士の剣が、中ほどから砕けて落ちた。
こらえきれず、樹枝に切り取られた天を仰いで吠える。
「神よ!我を、我らが王国を見捨てたもうたか!」
頭を傾けたために、わずかに空いた装甲の隙に、狼の牙が埋まった。
薄暗い。ベッドの中にしては触れるもの全てが固く、身体で痛まない所が見当たらない。
「マリー。どこじゃ。体が痛い」
普段なら名前の半分も呼ばない内に飛んでくる侍女が、いくら呼んでも来ない。
「ポリーヌ。ポリーヌはおらぬか。バルバラ。カトリーヌ」
「はい。はい。姫様。カトリーヌはここにおります」
答えがあった。少女はほっと息をつく。悪夢にいるような不安がいくぶん和らいだ。立ち上がろうと手を前に出して、何か柔らかいものを掴んだ。握ってみると、人肌よりやや冷たい。
「ひっ」
弾かれたように手を離したのは、その正体が侍女の亡骸であったと気づいたため。薄暗いのはいっそ救いだったろう。侍女ポリーヌの細い首は、くたりとへたれていた。
「カトリーヌ!ポリーヌめが、ポリーヌの首が」
「ああ、ポリーヌはそこでしたか。申し訳ございません。姫様。馬車の侍女で残ったのはわたくし一人のようです。ですが姫様がご無事で、何よりでございます」
カトリーヌが事も無げに答える。否、事実侍女が全員生き残ったところで、姫の身に何かあればそれは終わりなのだ。
室内は天地がひっくり返ったような有り様であった。馬車の中とは思えない、豪奢な調度の数々が、瓦礫のように散らばっている。
「馬車……。そうじゃ、ここは、大森林であったの。……そうじゃ!隊はどうなったのだ!?カルロスお兄様は!?」
「分かりません。馬車が横倒しになったのは確かのようですが……」
突如地面が揺れた。強弓でも射通せないはずの屋根が、継ぎ目から引き剥がされるように割れ、外の光が差し込む。
破口から満月のような金色の眼が覗く。哺乳類のものとは違う、生気の薄い瞳孔。牙蛙の口から腐臭が垂れ流される。
二人が声をあげられなかったのは、その勇気のためではなく、恐怖のあまり文字通り絶句したからであった。
腐敗ガスと血の異臭で意識が遠くなる。オルドラン王国の姫、ソラリスが最後に見たのは、森の奥で瞬いた一つ目の光と、大波のように噴きあがる体液。