転
暗い。雨でも振りだしそうな分厚い雲に覆われた空は、夕陽の光も射し込まない。
午後六時。
虫の声も聞こえない。どこか異様な雰囲気だった。
祖母の姿が見えない。この広い家に、私一人だけのような錯覚を覚える。
「おばあちゃん……?今日の晩御飯、まだ?」
私はそう言って台所を覗くが、祖母の姿はない。居間も覗いてみたが、姿はなかった。
いつも快活で元気な祖母が呼びかけに答えないのは、どこかで倒れているからだろうか。そう考えると怖くてしかたがなかった。
私はワンピースの裾を握り締めて祖母の居場所を考える。
昨夜のこともあり、一人でいるのが怖かった。だから祖母にも出掛けるときは声をかけて欲しいと伝えてあり、極力一人にならないように気を付けていた。
(いない……)
居間、台所、トイレ、縁側、私室……家中を見て回ったが、やはり祖母の姿はない。
「おばあちゃ……」
もう一度家の中を確認しようとした時だった。居間に、祖母の姿があった。古箪笥の方を向いてお茶を啜っている。
「おばあちゃん!」
私は祖母に近づいた。が、違和感に足を止める。
振り向いた祖母は、能面のような笑みを浮かべて、こちらを見た。眼球や口内が真っ黒に見える。
ま る で
人 で は な い
よ う な
祖母ではない。声もなくただじっとこちらを見てくる『なにか』から逃げるように、私は居間から離れた。
「おばあちゃん!おばあちゃん!!」
広い家の中を走るうち、座敷に出た。普段は客間として使われ、奥には仏間がある広い畳の部屋。
今は、仏間の襖が開いていた。
「おばっ……!」
その、仏間の中に、『それ』はいた。
私は咄嗟に口を塞ぐ。『それ』に見つかってはいけない気がした。
暗い仏間に浮かび上がる巨大な痩躯。赤黒いワンピースのようなものを着ており、胴が異様に長い。上半身を地面と平行に曲げて両手をだらりと下に垂れ下げ、四つん這いのような姿勢のまま顔を上げて移動している。音もなく重力も感じさせない、滑るような緩慢な動きで何かを探すように仏間を見回っている。
私はゆっくりと静かに、座敷にある箪笥の影へ身を隠した。体が恐怖に震えているのがわかる。両手で口を塞ぎ、必死で息を殺しながら横目で仏間の様子を窺う。
が。
私の顔のすぐ横に、巨大な女の影があった。
じっとこちらを窺うように、大きな顔が私の方を向いていた。二、三十センチの距離に、『それ』はいた。
灰色の肌と、どこまでも続く虚空のように真っ黒な眼窩。
開きっぱなしの、老婆のように何本も歯の抜けたどす黒い口。
黒い蜘蛛の糸のような、絡まってぐちゃぐちゃの長く汚い髪の毛。
冷たい手で心臓を捕まれたように息が止まり、思考が停止した。息を吸うことすら忘れ、私は動くことができずに女の顔を凝視した。
息を吸う音は聞こえず、無表情の女の顔は絵のようにすら思えた。しかし、カビの腐ったような湿っぽい臭いが私の鼻に届き、これが現実であると知らせる。
どうすることもできず、恐怖に涙が出そうになる。死が、すぐそこまで迫ってきている。
カポンッ
不意に、音がした。恐らくは庭の方からだろう、空っぽのバケツに水が跳ねる音。
それを皮切りに、ボタボタと大粒の雨が降りだした。今までの静寂を掻き消すかのような音の洪水。
黒い女は緩慢な動きで周囲を見渡し、惚けたように縁側へ移動していった。
「……っは、はあ」
女の姿が完全に見えなくなって漸く、私は息を吐き出した。ごくりと唾を飲み込み、周囲を確認する。
(おばあちゃんは、一体どうしたの?あれはおばあちゃん?あの化け物は何?どうしてこの家にあんなのがいるの!?)
疑問は尽きず、頭が混乱している。
「とにかく、この家から出ないと……」
『なにか』……化け物がいる家に居たくなかった。私は用心深く窓の外に目をやる。雨は激しく、滝のように降り続いている。一メートル先も見えないほどだ。
私は玄関へ急いだ。こんな雨でも、風はそこまで強くなさそうだ。傘をさせば近くの店まで行けるかもしれない。
そう思いつつ玄関に着いた時だった。
「アー……」
祖母 の ようなもの、が いた。真っ黒な口を開けて、私を見上げている。背が、ずいぶん小さい。小学校低学年の女の子のように、私の服の裾を掴んでいる。
「ひっ!?」
思わず、私はその手を払って玄関の戸にしがみつくように引き戸を開けた。
「っ、イヤ!!」
軒先には、女がいた。静かに佇んでいる。女の後ろでは、豪雨が降り続いている。
私は、女から逃げるように家の中へ戻った。
ひたすらがむしゃらに走って、走って、走って、仏間に辿り着き、その襖を、閉めた。