起
けたたましいセミの鳴き声と、風に草葉の揺れる音。
周りには山しかない、日照りの強い田舎の村。
夏。
私は例年通り祖母の家にやって来た。
古い日本家屋。しかし怖さはない。風通しのいい、避暑地として申し分のない立地。祖母の畑仕事を手伝うだけで三食宿付き、こんなにいい話はない。ただ、田舎特有の隣家までの距離の長さと人気のなさからくる寂しさが残念だ。
私は小学生の頃から夏休みの間、祖母の家にお手伝いとして泊まりに来ている。もちろん顔を見せにっていう理由もあるけど。
「やっほーおばあちゃん、夏祈が来たよ~!」
勝手知ったる何とやらで玄関の引き戸を全開にして上がり込む。返事がないところをみると、今は畑にいるのだろうか。
私は居間に荷物を置いて縁側に出ようとした。
「あれ、何これ」
前に来た時、こんなものあっただろうか。私は戸棚の奥に仕舞われているそれを手に取った。赤色で、和柄の布が張られた古い本。白い花模様が日に焼けたようにじんわりと茶色に変色している。大きさは手のひらに収まるような正方形。それほど厚みはなく、ちょうど小さい子の読む絵本のようにも見える。題名は、
「?」
引っくり返して裏表紙や背表紙を見てみるが、題名は書かれていない。本の表紙を捲ってみるが、そこにも題名は書かれていなかった。
いや。
ぱらぱらとページを捲ってみるが、どこにも文字は書かれていなかった。字の無い絵本ということか。
私は最初のページに戻って、じっくりとその絵を眺めてみた。子供がクレヨンで描いたような、幼さと若干のホラー感を感じさせる。
描かれているのは太陽といくつかの家。家は藁葺き屋根で、背景に山が描かれている。村だろうか。
次のページにも太陽と家が描かれていた。地面にひび割れたような線が何本も描き足されている以外は、前の絵と同じだった。
しばらくは代わり映えのしない絵が続き、土地はどんどん干からびていくように見えた。
ついに、絵が変わった。着物を着た人々が、しきりに何かに対して祈りを捧げている。雨乞いだろうか。
次のページには一杯に黒い女の影のようなものが描かれていた。足はなく、長い髪は扇状に広がり、胴が異様に長く地面から伸びていて、大きすぎる双眸と大きな口が白抜きになっている。
女がこちらに向かって片手を振っている。背景には何も描かれていない。
村に雨が降っている。
雷が鳴り、豪雨になったようだ。ページ全体が薄墨を溶かしたような灰色に覆われている。
空が晴れていた。家が何軒か無くなり、大きな水溜まりができている。
かんかんに照り注ぐ太陽の下で、胴の長い女が笑っている。
だんだんと
黒 い 女 が
手 を 伸 ば し な が ら
こ ちら に 近 づ い て くる
「夏祈、来たね」
「きゃっ!」
肩を叩かれ、驚いて悲鳴が出た。心臓がバクバクと鳴っている。この本の黒い女が、確実な恐怖を伴って私の肩を叩いたように思えた。
「どうしたの、そんに驚いてぇ」
いつ帰ってきたのだろう、麦わら帽子を被った祖母が訛りのある口調で問いかけてくる。祖母の顔を見ると何だか安心してしまって、肩の力が抜けた。
「おばあちゃん、この本前からあったっけ」
「うん?どうだったかね。ずいぶん古いもの、出してきたね」
「そこの棚に入ってたよ」
「ありゃ、思い出した。わたしが小さい時にばあちゃんに貰ったやつだ。何だか怖い内容で、どこかに無くしたと思ってたけども。うちにあったんだねぇ」
「おばあちゃんは最後まで見たの?」
「いんや、一回しか開かなかった気がするしねぇ」
私は何気なく最後のページを開いてみた。
「ッッ!ひ……」
思わず、絵本を取り落とす。
「どしたね、夏祈!?」
最後のページには、見開き一杯に
目が。
黒い背景に
白目と 真っ黒な瞳孔が
さも生きている 人間 の もののように
リアル で
おびただしい数
そのすべてが
こちらを凝視しているような
言い知れぬ
不 安 感
を
感じた