10、
僕の怪我は思ったよりも重かったみたいだった。経過観察も含めておよそ一ヶ月、僕は八丈島中央病院に足止めにされることになった。
一ヶ月が過ぎる頃には、夏休みだってとっくに始まっている。
「……大事な登校期間を削られるのは悲しいとか、お前は思ってなさそうだよな」
見舞いに来てくれた稜太は、ベッドで文庫本を読む僕に向かって苦笑していたっけ。僕は頷いた。むしろ、夏休みに入ればクラスメートたちと顔を合わせなくて済むから、かえって嬉しいくらいだった。
「稜太は楽しみ?」
「そんなでもないな。どうせ他校との試合でつぶれるだろうから」
それじゃ、稜太と話せる機会も減ってしまうんだな……。少しがっかりしたのは、稜太には秘密にしておくことにしたんだっけ。
初めての病院暮らしは悪いものではなかった。黙っていても勝手に食事が出てくるし、掃除だって行き届いているし、空調にしたって完璧だ。担当の看護師さんはちょっぴり目付きが怖いけれど、びっくりするほど丁寧に接してくれる。“恩返し”のつもりで家事にばたばた奔走していた今までの自分を忘れてしまいはしないかと、いつも心配になるくらいに。
稜太と遊べないのは悲しいけれど、母さんの作ってくれるご飯を味わえないのは寂しいけれど、今はここに足止めにされても仕方ないと思えた。……自業自得だものな。
そういえば、その日の帰り際。
「──お前、うちの母さんに何かしたのか?」
稜太はずいぶんと意味深な言葉を置いていった。
何のことか分からずに聞き返しても、笑うばかりで答えてくれなかった。
◆
一ヶ月の間に、信じられないような出来事がいくつも起きた。
初めてその話をしてくれた時、母さんは見たこともないほど興奮気味だった。いつか『親義』で僕と話してくれた、母さんが担当を引き受けているあのお爺さんが、元は弁護士だったのだと言われたというんだ。
樫立葉一さんという名の人だった。その正体は、借金問題をはじめとする個人向けの案件に精通していた弁護士で、現職時には東京でもそれなりに名の知れ渡った人だったらしい。しかも当時のコネクションを持っていて──。
「事務所を引き継いだ現役の弁護士さんを紹介してくれるそうなの。今度、債務整理に入ることになったわ」
母さんが息を荒くするのも無理はなかった。僕だって初めは何を言っているのか分からなくて、口を無意味にぱくぱくさせるばかりだった。
債務整理。
つまり、母さんたちの借金が、減る。
母さんが背負わされてきた苦労が、その分だけ減る。
「そっか……」
嬉しいような、ちょっと凹むような、複雑な気持ちが言葉にこもった。僕はちっとも母さんの役に立てなかったのに、真の意味で母さんの助けになれる人はそんなに近くにいたんだね。
僕は、何のために、死に物狂いで男へ立ち向かおうとしたんだろう。
黙っていると、僕の感慨を察知したかのように母さんは両の肩を掴んで、──いきなり抱き締めてきた。
「か、母さん、っ」
「ナオくんのお陰よ」
母さんの声は柔らかかった。「ナオくんがあの時、男の人につかみかかったのを、通りかかった樫立さんのお孫さんがたまたま見ていたんですって。それで通報して、警察が来てくれた。私たちが脅されているのも見ていて、それで樫立さんに頼み込んでくれたんだって……」
そんな……。
絶句してしまった。そんな偶然って、本当にあり得ていいものなのか。
唖然とするばかりの僕を、それでも母さんは長い間、ずっと、抱き締め続けた。
樫立晴菜。
母さんの債務整理のきっかけを作ってくれた老弁護士の孫は、そんな名前の子だという。
その数日後、彼女が僕らのクラスに転校してきたことを稜太から聞かされるまで、僕はどうしてもそれらの話を現実味を帯びたモノとして聞くことができなかった。……さすがに無理もなかったと思う。
夏休みも真っ只中の八月、ようやく黒服の男に負わされた怪我を回復させ、僕は晴れて八丈島中央病院を退院することになった。
その間に、黒服の男は逮捕された。八丈警察署から連絡があって、どうやら僕との一件があって以後、暴行の容疑であいつの行方を追ってくれていたようだった。本名は、今根五郎。悪質な詐欺グループの一員であったことの裏が取れ、母さん以外にも被害者が現れ、つい先日、逃走先の本州で逮捕に至ったらしかった。
もう、僕らの日常に、あの黒服が乱入してくることはなくなったんだ。
けれど、あいつが僕らへの中傷の原因を作り、余計な波風を島の人たちの間にさんざん立てていった事実は、変わらない。
「もっと早く捕まえてくれたら、母さんだって職場で苦しめられること、なかったのに……」
久々の太陽に目を細めながら、愚痴った。八丈島の夏は暑い。病院のエアコンは快適だったなぁ、なんてついつい思ってしまう。
そんなことないわよと母さんは微笑んだ。
「あれがきっかけで、私も『親義』に就職できたんだもの。それに、債務整理だって始められた」
「だけど……」
「それより、ナオくん。今夜はちょっと外食しない?」
『外食』の行き先はレストランではなかった。我が家から徒歩数分もかからないところに建っている、稜太の住む家──鳥打家だ。
なんでこんなところに。
訳も聞かされないまま、母さんに手を引かれて中へ入った。中で待っていたのは稜太と、稜太のお母さんだ。鳥打志保さんというらしい。
思わず心臓を口から吐き出しそうになった。──なぜって、入院中の僕を担当していたあの看護師さんが、そこに立っていたから。
「あなたには一度、きちんと謝りたいと思っていたの」
夕食の席で、稜太のお母さん──志保さんは神妙な顔つきで僕に頭を下げた。「あなたとあなたのお母さんがどんな苦労をしてきたのか、私、ちっとも知らなかった。あなたと関わらないように稜太に言っていたのは、間違いだったと思う。……ごめんなさい」
「僕は…………」
箸を手に取ることもできないまま、僕は掠れた声で応じた。母さんと、稜太と、志保さんと、鳥打家で夕食。外食と言っていたのはこのことだった。
僕は、いいんだ。母さんのためなら何だって頑張れたし、稜太もいてくれたから、あのきつい時期も乗り越えてこられた。
僕よりもつらい目に遭ってきた母さんにこそ、謝ってほしかった。
すると母さんが取り成すように口を挟んだ。
「私たちはもう何度も会って話をしているの。だから気にしないでいいんだよ」
「い、いつの間に?」
「ナオくんが入院して、少しした頃からかしら」
そんなに早くから……。
聞けば、志保さんが僕らの抱える事情を知ったのは、目を覚ました僕と母さんの話を廊下で立ち聞きしてしまったからだったんだという。その夜のうちに志保さんは母さんのところに電話、自分のしてきたことを詫び、母さんはその謝罪を受け入れたんだそうだ。
それだけじゃない。借金のこととか、僕のこととか、今まで誰にも相談することのできなかった話を、母さんは志保さんにしているのだといった。母さんにとって志保さんはいじめてくる相手どころか、相談相手にさえなっていた。
僕が志保さんのことを許せばすべてが円満のうちに終わるような段階にまで、とっくの昔に来ていたことになる。
「許しても許さなくてもいいんだぜ」
稜太は他人事とばかりに舌鼓を打ちながら、笑っていたなぁ。
「俺だったら許したくないもん。あいつと関わるな、なんて名指しで言われたら誰だって腹立つよ。……それでもナオが許せるっていうなら、許してくれるっていうなら、そうしたらいいと思うな」
志保さんの目は潤んでいた。目付きが怖いんじゃなくて、もともと少し眼力の鋭い人なだけだったんだと、その時になって気付かされた。
落ち着いてみないと見えてこないものが、この世界にはたくさんある。
思えば、そういうものばかり目の当たりにし続けてきた、この一ヶ月だった。
母さんの顔は本当に穏やかで、そこには少し前までの苦労や苦悩の滲んだしわは見当たらなくて。──それを見てようやく、はっきりと、僕の口にすべき言葉は決まった。
許すという判断を、決めたんだ。
その日から、志保さんは時折、僕や母さんを夕食の席に呼んでくれるようになった。
今は母さんの理解者になってくれた志保さんと、たったひとり僕の理解者で居続けてくれた稜太と、一緒に。四人で囲む食卓には僕の知らない賑やかさがあって、それは悔しいくらい楽しくて。安心できる場所で。
夏休みが終わったら、こういうことをする機会もなくなってしまうのかな。そんなら二学期なんか来ないでほしい。ずっと、ずっと、夏休みのままがいい。
箸を手に顔をほころばせる母さんの姿を隣で眺めるたび、この心の休みのような期間が少しでも長く続くことを、願った。