11、
僕は黒服を見上げた。──違う、睨んだ。明確な敵意を込めて。
許さない。
お前は母さんを泣かした。怖がらせた。大事な母さんから、笑顔を奪い去った犯人だ。四年前もそう、そして今回もそうだ。今までの母さんを不幸にしてきたのは、ぜんぶ、お前だ!
怒りが膨張して弾けた。許さない。どんな事情があろうと、僕の前では絶対に許さない……!
立ち塞がる僕を前に、黒服は口を歪めた。
「んだよ、お前。邪魔だよ」
身構えた時には遅かった。言い放つや、黒服は僕を思い切り蹴り飛ばした。
母さんの声にならない悲鳴が響いた時には、たちまち僕の身体は吹き飛んで、アスファルトの上を三メートルほども転がった。その勢いで、理性がもっと彼方まで吹き飛んでいた。僕は立ち上がるや否や、体重を乗せた拳で殴りかかって、黒服の腹をモロに仕留めた。ずん、と重たい音が腕の先で轟いた。
「ヤロウ!」
黒服が反撃に出た。鋭いパンチが頬を掠めて右肩を薙ぎ、思いっきり後ろに倒される。後頭部に走った痛みを無視して、すぐにまた起き上がった僕は、足に飛びかかって全力で噛み付いた。
「くっそ、ガキがッ──!」
黒服の上げる呻き声の向こうで、数メートル先にへたり込んだ母さんが蒼白な顔で僕らを見つめている。
その表情を一目でも見れば、僕の闘志は消えかけても立ちどころに燃え上がる。
許さない。
許さない。
許さない許さない許さない許さない許さないっ!
「死ね!」
僕はめちゃくちゃに怒鳴った。
「母さんを傷付ける奴は、悲しい目に遭わせる奴は、みんなみんな死ね────ッ!」
……僕の記憶はその辺りで一度、途切れている。
記憶の焼き付けが再開されたのは、その日の夜のことだっただろうか。とにかく時間が経った後だった。
気がつけば、そこは白亜の壁に囲まれた病院の一室で、僕は名前も正体も知らないたくさんの医療器具に取り囲まれていた。腕を持ち上げようとすると、それらがカチャカチャと不快そうな音を立てて、ベッドの脇に置かれた椅子に座っていた人が、はっとしたように僕を見た。
母さんだった。
「あれ……僕……」
掠れた声で呟くと、僕を眺める母さんの表情には笑みが差して、かと思うと崩れそうになった。
「良かった……。ちゃんと、喋れるのね……」
声が、震えていた。
母さんは僕がここにいる経緯を語ってくれた。取っ組み合いの挙げ句、額を殴られた僕は後頭部から地面に突っ込み、そのまま昏倒してしまったのだという。すぐに母さんに迫ろうとした黒服の前に、呼んでもいなかったはずの警察官が突然、割り込んだ。
──『何をしてる! やめなさい!』
青色の制服を見るなり、黒服は悔しそうに八丈島空港の方へ逃げ去って行ったそうだ。『一年後に用意できてなかったら、こっちも手段に出るからな』とか何とか、捨て台詞を吐きながら。詳しくは母さんも覚えていないらしい。
意識を失った僕は救急車を呼ばれ、島の中でも一番大きな町立八丈島中央病院へと連れてこられた。そうして、今に至る。
そうか。僕は戦うことができたんだな。
こんなひ弱な身体でも、結果的に僕は、あいつを追い返せたんだ。
ね、そうだよね。母さん。
嬉しくって、心の底でじわりと温もりが広がって、僕は母さんに笑いかけた。
──その時だった。母さんの左手が、勢いよく頬に命中した。
「痛っ──!」
あんまりびっくりしていて、痛みを感じることも叶わなかった。訳の分からなかった僕は、腫れゆく頬を手で押さえて、ぼうっと母さんを見上げるしかなかった。
母さん……?
なんで……?
「どうしてあんな事をしたの!?」
母さんは激昂していた。
「どんな事情があっても暴力だけはいけないの! 手を挙げたその瞬間、その人は『悪者』になって、もうどんな交渉も説得も無駄になっちゃうのよっ! それなのに、ナオくんは……ナオくんは……っ!」
息を荒げ、母さんは僕を睨んでいた。その顔に溶け込んでいた感情の種類は何だっただろう。怒りか、悲しみか、それとも。……じきにその答えは見つかった。
「バカ……っ……」
とどめの一撃が振り下ろされた、その時。僕は確かに、母さんの胸の周りを漂っている強い悲しみを嗅ぎ取った。
どうして。
どうしてだよ。
母さんの敵を排除したのに、どうして母さんがそんな顔をするの──。
そんな疑問が浮かんだけれど、すぐにそれは霧となって消失した。どんな美しい理由を並べ立てようとも、そこに横たわっているのはただ、僕が母さんを悲しませたという、厳然たる事実だけだった。
そんなつもりじゃ、なかったのに。
僕、ただ母さんを、守りたくて……。
母さんを睨み返す瞳の縁から、こらえていた涙がつうと溢れた。
そうなるともう、歯止めが利かなくなった。ショックと絶望と落胆の淵に沈み行きながら、僕は泣きじゃくった。もしも願えるなら、今すぐに時間を巻き戻してほしい──。むせびながら、心の底からそう願った。
母さんは何も言わずに、うなだれた。そして首を振ると、震える声で呟いた。
「……違う、ナオくんは悪くないの。何も説明しなかった、私が悪かったんだ……。ごめんね、ナオくん……」
半分くらいしか聞き取ることのできなかった僕の顔から、涙が姿を消すことはなかった。首を垂れた母さんの目からも、たちまち水が零れ落ちた。
狭い病室にはいつしか、二人分の啜り泣きの声だけが虚しく共鳴していた。
昨日までの希望の日々は、楽しかった時間は、僕のせいで全て……台無しになった。
◆
僕は父さんの顔を知らない。
家に遺影はなかったし、写真立てが置いてあることもなかった。
昔を偲ぶことのできるものを置いていては、未練を捨てられない──。聞きたくても聞けなかったけれど、母さんは、そんなことを思っていたんだろうか。
父さんと母さんは本州で出会い、結婚した人たちだった。
ところが、お金のやりくりがうまくいかずに借金を乱発。返済が間に合わなくなり、ついに危ないところからお金を借りるに至ってしまった。
それが、悪夢の始まりだった。
借入先の増えるのに従って、返せない借金の額面もネズミ算式に増加。取り立て屋の催促は日増しに恐喝へと様変わりしてゆき、必ず返すと約束した父さんと母さんは、逃げるように八丈島へ航ってきた。この時、すでに僕を身ごもっていた母さんは働くことが叶わず、父さんは島の漁協に掛け合い、どうにか漁師として生計を立て始めるようになる。八丈島は漁業の島でもあって、キンメダイの一本釣り漁をはじめとする沿岸漁業が島の大きな収入源のひとつだった。
初めは胡散臭げに思われてちっとも仕事にならなかったそうだ。それでも一生懸命に働いていると、ようやく周りの人たちの信頼も得られるようになり、段々と収入も安定してきた。
そんな矢先のことだった。乗船していた一本釣り漁船『南光丸』が、漁からの帰路に嵐に遭遇。海難事故を起こし、父さんは呆気なく太平洋に飲まれ、命を落としてしまった。
最終的に七人もの死者を出したこの事故は、盛んに報道したメディアによって『南光丸沈没事故』と呼ばれるようになる。──僕が生まれてから、たった一年後の出来事だった。
あの黒服の男は、父さんと母さんの積み上げてきてしまった借金を取り立てに来た人物だったんだ。
男がどういう組織に属しているのか、母さんは何となく知っていたみたいだ。だから波風を立てたくなくて、あくまで低姿勢で取り立ての延期を求め続けてきた。なのに、そんなこととは知らなかった僕が、怒りに任せて黒服を殴り飛ばしてしまった。
おまけにこうして返り討ちに遭った挙げ句、入院治療費という余計な出費まで発生させた。
僕がやったのは、そういうことだった。
母さんの血の滲むような努力と忍耐を、ほんの一瞬の正義感で、無為に……。