12、
生まれてこの方、こんなに母さんが楽しそうに日々を生きている姿なんて、見たことがない。
毎朝のように隣り合って家を出て、中学校と老人ホームへ向かう分かれ道で手を振る母さんを一瞥して、それから自分の歩く方向を真っ直ぐに見つめて。──そんな時、ふと、不思議な心持ちに陥ることがある。
それまで頑張ってきた“恩返し”もとい親孝行だけれど、もしかすると、もう必要ないんじゃないかって。母さんは僕が家事や手伝いをすることによってではなくて、自力で笑顔の糧を得ているんじゃないだろうかって。
そう、思うようになった。
──『だからナオくんも、無理しないでいいわ』
むかし受け取った言葉が心に突き刺さって、それで僕はいつも我に返る。そうだ、僕は母さんのためだけに“恩返し”をしているんじゃないんだ、って。“恩返し”を重ねることが僕の明日の目標であり続けたから、僕は前を向いて歩んでこられたんだ。
本当に、そうなのだろうか。僕には分からなかった。
学校での僕を無愛想にしていた要因の一つは、そんな疑問の端に生まれた不安や不満だったのかもしれなかった。誰かに説明を求めたら『反抗期』の一言で片付けられてしまいそうで、それが何となく不愉快で、誰にも話すことはなかったんだけれど。
いつも通りのやり取りが上級生との間に交わされて、やれやれと思いながら席につけば、隣の席の稜太は大概いつも、そのまた向こうの人といつも仲良さげに話している。社交的な稜太には友達が多かったけど、昔から曰く付きの僕には、そんな気軽な友達なんて無理な話で。
老人ホーム『親義』には、わざわざ本州から空路でやって来て入所する人もけっこう多いらしい。あそこに預けられてる人たちも、僕みたいに世間から隔絶された人間なんだろうか。江戸の昔にまで遡れば、八丈島、流刑地だったらしいしな……。
そんなことにまで考えが及んでしまった僕は、やっぱり不謹慎なやつだったのだろうか。
◆
老人ホーム『親義』は、八丈島空港の滑走路の延長上に立つ、平屋の大きな大きな家のような建物だった。
地図を眺めながら歩いていると、すぐにそこは見つかった。事務室を覗いた僕は、気づいて手を振った母さんに呼応して一礼した。
「よく来たね」
そう言って出てきた母さんに連れられるように、他にも何人かの職員の人が出て来て迎えてくれる。そのほとんどが男性だ。へえ、彼が──。中一にしてはしっかりして見えるじゃないか──。色んな声が頭上で交わされて、どちらを向けばいいのか僕には分からなかった。とにかくちやほやされていることは理解できて、それがかえって恥ずかしくてうつむいてしまった。
母さんの胸には『介護職員 三根実乃里』の文字の入ったネームプレート。艶を放つ黒のネームプレートは、母さんの存在を目に見える形で肯定する味方のようで、妙に恰好がよかったな。
まだ新築の薫りの漂うその建物には、当時、すでに二十人ほどの高齢者が入居していたらしい。本州の方からの入所希望者は増える一方なのだそうで、需要拡大を見越して拡張用の敷地まで取ってあるほどだった。そして、不思議に思えるほどに職員の男性率が高く感じられたのは、この施設がそういう人材をわざわざ日本中から招聘していたからなのだそうだ。
介護の現場では男性の立場はそれほどよくないのだと、いつかニュースで耳にしたことがあるような。だからこそ、他と違った経歴を持つ母さんへの偏見も小さかったのだろうか。
──『おお、実乃里さんか。いつも世話になっとるね』
──『あなた、最近また顔色がよくなってきたんじゃないの? 夜遅くまでご苦労様だけど、あなたもしっかり食べて、寝なさいな』
──『いえいえ、お気遣いなく。これが私たちの仕事ですよ』
母さんは口々に呼ばれては仕事に向かい、話し、笑っていた。和気藹々と会話を楽しみながらそんな中で働いている母さんの姿は、まるでアイドルも同然だった。端から見ているだけの僕でさえ、ちょっぴり羨ましくなるくらい、輝いていた。
僕もたくさんの入所者の人たちの顔を拝んだ。折しも数日前、本州の新宿というところから新たに入ってきた人がいて、そのお爺さんとは色んな話をしたなぁ。ちょうど母さんが担当になっていて、僕のことも事前に聞かされていたみたいで。
──『毎日、お母さんがいなくて心細いこともあるだろうが、頑張りなさい』
なんて励まされて、誉められたっけ。
どうしてみんなこんなに優しく甘やかしてくれるのだろう。こんなに優しい空間で働いていられる母さんが、素直に、羨ましかったよ。
立ち去るタイミングを見つける気も起きないまま、それからも何となく二時間くらい滞在して、陽もずいぶん傾いてきた頃になってようやく、そろそろ帰ろうかなと思い立った。母さんにも仕事上がりの時間が来ていたので、それを待って一緒に帰ることにした。
少し潤いのある影が、乾いたアスファルトの上に二つ。
帰る道々、母さんは夕食時のように、色んな話をしてくれた。
今日、僕の眼前で母さんと一緒に働いていた、他の職員さんの話。入所者の人の話。実物を目の当たりにしてみると、聞いている側の僕にも実感が湧きやすくて、いつも以上に色んな相槌を打ったような気がする。
僕が話したあのお爺さんは、本州ではとてもお金持ちだったんだそうだ。息子夫婦が異動で八丈島へ渡って来るのに合わせて、『親義』に入所することになったらしい。道理で言葉に言い得ぬ重みを感じたはずだと思った。
「お孫さんがいてね、ナオくんと同い年らしいのよ。底土中に転入することになってるらしいの」
母さんは何かを期待するような目つきで僕を見た。「ナオくんはまだ会ってないの?」
「転校生の話さえ聞いてないや」
頭の後ろで手を組んで、つぶやいた。中学での生活に関心が持てなすぎて、先生の話を聞き流してしまっただけだったのかもしれないけれど。
あのお爺さんの、孫か。
どうせ、じきにみんなの影響を受けて、僕のことを遠ざけるようになるんだろうな。誤解が解けるまでにはいったい何ヵ月かかるだろう。
母さんは嘆息した。
「そんな浮かない顔しないの。お爺さんからもきっと、ナオくんの前評判が伝わってるわ」
「そうだといいな」
嘯いて、笑った。母さんも笑った。いつもと同じような相槌の調子が戻ってきているのを感じた。
そう。
これで、いつも通りだったんだ。
話題を切り換えたそうになると、母さんは決まって早口になる。そんなところまで。
「それで、そのお爺さんが言うにはね──」
母さんの言葉は、不意に止まった。
僕は母さんの視線が固まった先を見た。数十メートル先に、我が家が見えていた。
そして、その真ん前に、黒い上下のスーツを身に纏った背の高い男が立っていた。
「あ…………」
怯えた声を上げたのは、母さんだった。僕は声さえ出せなかった。僕も、母さんも、目を真ん丸にして男を見つめていた。
今さら説明されるまでもなかった。あいつだ……!
黒服は突っ立つ僕らに気づくや、ずかずかと遠慮のない足の運びでこっちへ向かって来た。ポケットに手も突っ込んで、完全に見下したような出で立ちで。
「おやおやぁ? 三根さん、まぁた夜逃げでも企てたのかと思いましたよ。可愛いお子さんまで連れて、どこへ行ってたんです? あ、職場ですかね? 念のために場所、教えて貰えませんかね?」
「…………」
母さんは口をぱくぱくさせたまま、黒服を茫然と見つめている。
狭間に立つ僕もまた、同じだったと思う。
男はずいと母さんの前に顔を押し出した。口調が、変わった。
「最後に来たときは“四年経ったら返す”っつったけどよ。二年が経った時点でこの有り様じゃ、返すなんてとても出来るようには思えねぇな。どういうつもりなのか説明してみな」
「つ、つい一月前、正社員になれたばかりで……」
「あぁん? そいつは一年で一千万貯められるほど厚待遇な職場なのか? そんな理想郷があんなら俺らにも紹介してくんな」
「い、一年できちんと、きちんとお返しします──」
「舐めんのもいい加減にしろよ、おらぁ!」
男の蹴った石が、路面を跳ねて僕の足元を駆け抜けていった。音が、散る。吹き抜けた風が頬を叩く。
ふっと我に返って、僕はその石が跳んでいった先を見た。今にも泣き出しそうに顔を歪めていた母さんの姿が、瞬く間に視神経に侵入して、脳天を一気に貫いた。
母さんが、笑っていない。