13、
「──おい」
野太い声が、その日も背中の向こうから僕を呼び止める。
中学に上がって少しした、ある日のことだっただろうか。もうすっかり日常茶飯事になっていたから、具体的な日付は思い出せないや。
振り返るまでもなく、その声の正体が誰なのかを僕は知っていた。心の底から嫌だなと思いながら、小さな声で返事をしたんだったっけ。
「……何ですか」
案の定、それは以前からしつこく僕のことを嗤ってくる、あの上級生たちだった。小学校を卒業し、町立底土中学校に上がった今でも、学区が変わるわけではなかったから当時の人間関係も持ち上がりになる。
「お前んとこの母ちゃんさ、最近役場で見かけねーんだけど」
「そうですか」
素っ気なく返しながら、胸の奥に痛みにも似た何かが走った。こいつら、やっぱり母さんのことを見に行ってやがったんだな。怒りとやるせなさが、胸の奥で弾ける。どうしてこんな連中にまで敬語を使わなければいけないのだろう、と。
黙っていると、
「なぁ、教えろよ」
ずいと一人が迫ってくる。
駄目だ、こいつらには絶対に教えない。固く唇を結んだ僕の肩を、もう一人が馴れ馴れしく掴んでくる。
「いいじゃんかよぉ、お前の母ちゃんも絡んでくれる奴が少なくて寂しいだろうしさ」
「僕も知りません」
「適当な事言うなよなー、俺たち友達だろぉ?」
「違います、からっ」
「あぁ?」
「そのくらいにしろよな」
突然、そこに割って入ってきた声があった。
稜太だった。日焼けした手の先にサッカーボールの入った袋をぶら下げて、稜太は獲物の価値をはかる狩人のようにじっと目を細めた。
ここ二年くらいで一気に身体の育った稜太は、かなり大人の体格になっていた。こうして間に入れば、その背丈は上級生よりもさらに高い。上級生たちの顔が、悔しそうに歪んだ。
「また来るからな」
そう言って、奴らは自分の教室へと退散していった。残された僕に、稜太は心配そうに尋ねてくれる。
「大丈夫か?」
「うん」
その気遣いに心の底から感謝しつつ、僕は頷いた。大丈夫だ。もう慣れているから。
こんなものが僕の日常だった。
ほとんどいじめとも言えるような僕への強い当たりが始まってから、もうじき四年。その頃にもなるとみんなも飽きてきたのか、僕は空気のような存在として扱われるくらいで済むようになってきていた。さっきの人たちのように僕をマザコン呼ばわりするのも、今は、少数派になってきている。
それでもやっぱり、つらいものはつらいから。
「あいつらも成長しねぇな」
稜太はため息をついて、廊下を見上げた。
小学校の頃から一気にサッカーの才能を開花させ、スポーツ万能だったこの頃の稜太はみんなの英雄と化していた。僕にとっては心強い味方だった。
僕はその時、苦笑いしたんだったっけ。
「……まぁ、マザコンって言われても、仕方ないし」
「けどお前、細いんだからな。正面からぶつかろうとするのも大概にしといた方がいいぞ」
「分かってるよ。……ありがとう、稜太」
なんてことない、っていう仕草のつもりだったんだろうか。稜太は軽く手を振って、僕の隣を立ち去っていった。
知らないわけがない。だけど死んでも言うもんか、母さんの仕事場なんて。──先輩連中たちの逃げた先を睨むたび、ひっそりと拳を固めたものだ。
どんなに脅されようとも、虚仮にされようとも、僕の決意は絶対に揺るぎはしない自信があった。
なぜって。
中学に入ってすぐ、またも職場が変わったことを母さんから聞いていたからだ。
今度の待遇は、正社員だった。母さんの人生の中でも初めての出来事だったみたいで、仕事が決まるや否や僕を思いっきり抱き締めてきた。きっと、そのくらい嬉しいことだったんだ。
新たな勤め先は、日本全国の例に漏れず高齢化の進んでいる八丈島に、最近になって建設された介護付有料老人ホーム『フェアリーホーム親義』。名前が長いので僕は終始『親義』って呼んでいたな。
賃金も職も比べ物にならないほど安定している、初めての正社員待遇。せっかく手に入れた仕事を、余計なクレームや陰口のせいで手放してほしくない。そのためにも母さんの快適に働ける環境は、死に物狂いで守ってあげなくちゃ──。
それが決心の源だった。
僕にとって母さんへの“恩返し”は、まだ終わってはいなかった。
『今日ね、新しく入所してきたお爺さんのお世話をしてきたのよ』
『お婆さんの手って、柔らかいけど、すごくあったかいのよね。人が生きているってこういうことなんだなって感じるわ』
『やっぱり都会と違って、島のお年寄りは元気ね。階段も難なく登っちゃうし。エスカレーターなんてこっちじゃ滅多にないものね』
母さんは大抵、夕食時になると饒舌になって、その日『親義』であったことを話してくれた。疲れたって言いながら、そのまま横になったりすることもあった。
家事のほとんど全てを引き受けながら、僕はそんな話の全てに耳を傾けた。家のことを難なくこなせるようになって、少しは母さんに楽な思いをしてもらえているだろうか。そうであったなら嬉しいんだけれど。
都会の事情は知らなくても、僕が黙って話を聞いてさえいれば母さんは幸せそうで。これも“恩返し”の一つなのかな──なんて考えながら、色んな相槌を打っていたっけ。
僕にとって“恩返し”、いや、親孝行が当たり前の営みになって、ずいぶん年月が経っていた。母さんの顔にはすっかり笑みが染み着いて、それはまさしく順風満帆の日常だった。
ひとり満足を覚えていた僕に、母さんはある時、ふとしたように尋ねた。
「ナオくんもうちの施設、来てみない?」
「僕が?」
「息子がいるんですって話をしたら、入所者さんたちが顔を見たいって言って下さってね。暇な時でいいから一度、顔を見せてあげてほしいのよ。どう、ナオくんは」
「そんな、入所者でもない僕がノコノコ入っていってもいいもんなの?」
「もちろんよ。刑務所じゃないんだから」
ねっ、と母さんは微笑んだ。「きっと喜んでもらえると思うの。あそこに住む人たちはみんな、気軽に外を出歩くこともできないから」
そこまで言われると僕だって断れない。ついでに母さんの働くところも見てみたいし──。好奇心が背中を押して、僕は頷いた。
「うん、行きたいな」
僕が行きたいと言えば母さんは喜んでくれるだろうという打算もあったことを、否定はしないけれど。
思った通り、母さんは喜んで「おいでなさい」って言ってくれた。初めての職場訪問は、その三日後に決まった。




