15、
そうやって、二年、三年と経ってゆくと、僕のことをお化け屋敷の住人などと中傷する子は減っていって、代わりに段々と周りに親しい存在ができるようになった。
できるようになるとあっという間だった。小学校は幼稚園や保育園の頃と違って、オトナとコドモの距離が少し離れるからだろうか。何となく校庭を一緒に走っていれば仲良くなれる、そんな純粋さが、僕に人生で初めての同年代の友達をもたらしてくれた。もちろん筆頭は稜太だ。
「学校終わったらみんなで底土の公民館で遊ぶんだ! ナオも来いよな!」
とか、
「せっかく晴れてるし、海岸まで行こうぜ! 釣り竿が落ちてるの見つけたんだ!」
とか。
成長するにつれ、僕たちの遊び場は次第に学校の外へ広がっていく。公園や海水浴場、空港、遺跡、山や森や入り江──。自然の豊かな八丈島では、ゲーム機がなくとも目の前がすぐにフィールドゲームの舞台だった。青々と輝く海や山は、その中を蠢く数多の人間とは違って、初めから何の差別もなしに僕たちを受け入れてくれる。
しょせん広くはない島の中だけど、家に帰る時間も少しずつ遅くなっていった。そうでなくとも母さんの帰宅も遅かったから、僕にとって何かが変わることはなかったんだ。それに、晩ご飯の時にみんなとの遊びのことを話せば、母さんも一緒に愉快そうな顔をしてくれる。
それが嬉しくて、楽しくて、友達の輪の中に入っていくことへの抵抗感を僕も段々と失っていった。
この頃には、僕らの生活にはもうひとつ、小さな変化が起きていた。
母さんに、休日ができたんだ。
転職して新たな仕事に就いたら、そこでは休日がもらえるようになったんだそうだ。。当時の言葉をよく覚えてはいないけれど、母さんには『みんなが来る場所の掃除をするの』と教えてもらった。それが八丈町役場の清掃係のことだったのだと僕が知るのは、もう少しだけ、後のことになる。
休日になると母さんは、僕を連れて色んな場所に連れていってくれた。大きな地熱発電所を外から見上げたり、断崖の岬から思いっきり叫んだり、山登りをしたり、まだ遠出のできなかった低学年の僕を毎週のように楽しませてくれたっけ。
毎日、朝早く母さんと一緒に家を出て、小学校に向かう。
放課後は友達と遊んで、日が暮れたら帰る。その一時間後くらいに母さんが帰宅して、晩ご飯を作ってくれる。夜は二人で本を読みながら、一緒の布団で眠りについた。
ぼろくて狭くて、とても他人なんて呼べないような家だったけれど、そんなことを気にする必要はなかった。同じ人間が二人も存在しないように、僕にとってそこは他に二つとない、かけがえのない自分の帰る場所だったから。
いつまでもこの家があるものと、いつまでもこんな日々が続くものと、何の疑いもなしに信じていた。
◆
それは、小学三年生に進級してしばらく経った、ある日のことだったと思う。
何気なく家に帰ると、玄関先に母さんの靴があった。珍しく母さんが先に戻っていたようだった。ありえないことではなかったのでさほど気にも留めないまま、普段のように靴を脱いで上がろうとした。
そこで気付いたんだ。見慣れない黒の革靴が一組、母さんの靴の隣に乱雑に転がっていたことに。
誰──?
その疑問はすぐに解けた。持ち主は上下とも真っ黒の服を着た、サングラスの出で立ちの男だった。
こっそり扉をくぐって中に入り、物陰から覗いていると、母さんは居間でその黒服に怒られていた。内容の見当発叶った。“タンポ”とか“サイム”とか、使われている単語はどれをとっても難解で、おまけに男の声色はひどく太くて恐ろしくて、なんだか盗み聞きしている僕まで言葉に殴られている気分だったのを覚えている。
──『何度でもまた来るからな』
しまいに男は言い捨てて、廊下に突っ立ったままの僕には気付かなかったかのように大股で立ち去っていった。
怒られている時に母さんの見せたつらそうな表情ばかりが、僕の瞳にはしつこく焼き付いていた。どうして、母さんはあんな顔をしなければならなかったんだろう。どうしていつものように笑っていることはできなかったんだろう──。
「ねえ、あいつだれ? だれなの?」
何べん問い掛けても、母さんはその日、とうとう黒服の話をしてはくれなかった。
その日をだいたい境にするように、僕の家の周りの人たちが、妙によそよそしくなり始めた。
僕が前を通っても、以前みたいに挨拶なんかしてくれない。みんなで集まってこちらを遠目に眺めては、ひそひそ話に興じている。子ども心にも愉快なものではなかった。
そうかと思えば、学校でもクラスメートの子たちが遊んでくれなくなった。誘いに乗ろうとしても『ちょっと……』って断られる。そればかりか目さえ合わせてくれない。我慢がならなくなってわけを聞くと、誰もが口を揃えた。
──『……お母さんやお父さんに、遊ぶなって言われてるから』
年相応の見識しか持ち合わせていなかった僕にも、容易に見当がついた。
他に思い当たる節はない。僕とみんなを引き裂こうとしているのは、きっと、あの男だ──。
その推察はじきに真実になった。黒服の事件が起きてから、一週間後。一緒に帰る道の途上で、稜太が事の次第を話してくれたんだ。
「オレの母さんが、もうナオと遊んじゃダメって言ってきてさ」
「なんで……?」
稜太の顔は、渋かった。「あそこには悪い人が来ているからきっと危ない家よって、母さんが前に話してた」
「悪い人……」
反復するまでもなかった。黒服のことに違いなかった。
思えば、あれはオトナの事情がコドモの世界に侵入を企てつつあった、まさにその瞬間だったのだろう。黒服の正体も、あまつさえ母さんが怒られた経緯も知らない僕には何も答えようがなくて、稜太には『そっか』としか言えなかった。それっきり気まずい空気になったまま、その日は遊ぶこともなく別れてしまったっけ。
母さんが帰ってくるまでの間、家の中で僕は独りぼっち。孤独な静寂の海に身を横たえて、必死に考えた。
母さんは今も昔と同じように働いている。ただ、口数が減った。笑顔もあまり見せてくれなくなっていた。僕からすれば、それはひどく叱られて悄気ている時の僕とそっくりで。
母さんだって、僕と同じ人間だもの。叱られれば悲しくなるのは当たり前だ。
だったら母さんは今、どんな気持ちで毎日を生きているのだろう?
もしもそれが本当なら、励ましてあげたいと思った。母さんには元気なままで、明るいままでいて欲しかった。そのためにできることがあるなら、僕がしなきゃいけない──なんて、義務感が僕を貫いた。焦りを覚えた。でも、具体的に何をすればいいのか、どんなことが喜ばれるのか、当てがあるわけでもなかった。
答えを求めて泳いだ目が、ふと、居間の本棚に引っ掛かって止まった。
ずらりと並んだ背表紙たちの中に、『つるのおんがえし』の文字が浮かんで見えた。
そうだ。
僕は、母さんの恩の中で生きている。
罠から救ってもらったツルのように、母さんが汗水を流して働いて受け取ったお金で、僕は生きている。
ツルは羽根を犠牲に機織りをすることで恩返しを果たした。だったら、僕には何ができるだろう。何をすれば母さんは喜んでくれる?
必死になって考えて、考えて、辺りを見回して。
そこに答えがいくらでも転がっていることに気付くのに、少しの時間が必要だった。