16、
時の経つのに従って、僕は小学生になった。
七千人の人口を抱える八丈島には幾つもの地区があって、それぞれに個別の小学校が設置されている。
島の中央より東、標高七百メートルの威容を誇る三原山の足元に広がる坂上地区に、僕らの家は立っていた。最寄りの小学校は八丈町立坂上小学校だ。生徒数はおよそ百八十人。わざわざ遠方の学校を選ぶ意味もなかったので、僕は毎日、坂上小へ足を運ぶことになった。
最初のうちは心細くて仕方なかった。保育園では友達がそんなにいなかったし、そのコミュニティをほとんどそのまま引き継いだ小学校でも、気兼ねなく遊べるような存在は必然的に少なくなる。
──『ナオってなんであんまりみんなと仲良くしないの?』
なんて、いつかの折に面と向かって言われた時は、さすがの僕もちょっぴり傷付いたな。悲しくて半泣きになっていたら、ごめんごめんって相手の子に謝られたっけ。
でも、学校が終わればすぐに家に帰って、本を読みながら母さんを待つという保育園以来の習慣が抜けきっていないことは、僕自身にも自覚はあったと思う。
だってその方が楽しかったのだから。
どんな友達と話しているより、遊んでいるより、本や母さんのそばにいる方がずっと、ずっと楽しかったから。
鼻を啜る僕を前に、その子はぽつりとつぶやいていたな。『おれ、ナオともっと遊びたいだけなんだけどな……』って。
サッカーが大好きで活発な少年だったその子の名前は、鳥打稜太。──それが、その後も何年にもわたって僕と関わることになる、大切な友達との出会いの瞬間だったのだと、あの時の僕はまだ気付いてはいなかったはずだ。
八丈島は南の島だ。二十三区と同じ東京都の仲間でも、本州とは気候がまるで違う。特に嵐の被害が大きくて、伊豆諸島の他の島では遥か昔、風雨が強くなると島に接岸できなくなることもあったらしい。
当然、台風が来ようものなら学校は休みになる。不謹慎だけれど、僕にはそれが嬉しかった。そんな日にはスーパーマーケットも暖簾を下ろすから、母さんが一日中、家にいる。
あの日もそうだった。小学二年生の時に襲来した、台風十五号。
『急速に勢力を増しつつある台風十五号は、現在、本州の南岸に沿うように太平洋上を進みつつあり……』
テレビを点ければそんなことばかり繰り返している日だった。朝から家中の雨戸を閉めて回っている母さんを、僕は居間に座り込んで本を読みながら眺めていた。その日の昼過ぎに島が暴風域に入るというので学校は休み、スーパーマーケットも閉店になったみたいだった。
嵐の日の母さんは、表情も浮かない。
「さすがにこんな風じゃ、行けないか……」
小さく開いた雨戸の隙間から外を伺っては、ため息をつく母さんの気持ちが、僕にはちっとも分からなかった。
だって、働かなくていいじゃないか。働くのって大変で、嫌なことなのだと、満足に知りもしないのに僕はすっかり決めつけていた。僕にとっての学校生活のようなものだと。
ひとしきり外を眺めたあと、母さんは雨戸を閉めきって戻ってくる。──その時、思いきって聞いてみたんだ。
「母さんはなんでそんなに楽しそうじゃないの?」
「台風が楽しい人なんているかしら」
「僕は楽しみ」
母さんは途端に表情を曇らせた。「……そんなに学校、行きたくない?」
黙って、頷いた。だって事実だったのだから無理もない。
どうせ学校に行ってもひとりぼっちだし、本を読んでいる方が好きだし。
母さんは何も言わなかった。代わりに僕の隣に腰かけて、読み終えて置いてあった本を手に取ったっけ。そこに、僕は小声で疑問符を重ねた。
「母さんはお家にいるより、お仕事に行きたいの?」
記憶が正しければ、母さんは僕の質問には答えてくれなかったように思う。ただ、台風情報で一色のテレビを前にして、リモコンを両手で握り締めるばかりだった。
「……台風が来るとね、思い出すのよ。ナオくんのお父さんのこと」
寂しそうな声色だったな。
台風十五号は島に大きな被害を出していった。町立八丈島中央病院に搬送された怪我人が数人、それから何軒もの家で屋根材が飛んだりしたらしい。よその島はもっと悲惨で、より台風の中心に近かった伊豆大島や新島では死者まで出たそうだ。
我が家もダメージを免れなかった。トタンの一部が破れてしまって、それが道に散乱した。
古びた倉庫の屋根のものだったから迷惑はしなかったんだけれど、そのままにしておくわけにもいかない。仕事に向かう前、母さんに申し訳なさそうな声でお願いされた。──『ごめんね。早く帰ってきたら、あのトタンどうにかしておいてもらってもいいかしら』
大事な母さんの頼みだもん、やらないわけにはいかない。そんなわけで下校後、僕はランドセルを家の中に放り出して、アスファルトの上に散らばったトタンを集めにかかった。ほとんど人通りのない道でも、破片が減るたび路面が見違えるように綺麗になっていくのが見てとれて、懸命にそれを拾っていると。
ふと、視界にひとりの足が現れた。
「……何やってんの?」
稜太の声と、足だった。
びっくりして尻餅をつきそうになった。まさか見られていたなんて──。顔を赤くしながら、僕はうつむいた。
「……屋根、剥がれたから、集めてただけ」
善行を積んでいるはずなのに、他人に見られただけでこんなに恥ずかしくなるのはなぜだろう。早く、どこかへ行ってくれないかな。
そんな秘かな祈りも虚しく、稜太はいつまで経ってもそこを動こうとしなかった。
そればかりか、不意にランドセルを下ろしたかと思うと、僕の隣に座り込んで作業に加わろうとする。
「い、いいよいいよっ」
「二人でやる方が早いだろ」
てきぱきと錆びた破片を拾い集めながら、稜太は止めようとした僕の言葉を遮った。結局、強い言葉で断ることなんてできるはずもなく、僕も黙ってその台詞に甘えることになった。
……それから三十分くらい、二人して道の上をきれいにしただろうか。
拾いながら、稜太は話してくれた。稜太の家はこの近くにあって、実は保育園の頃から僕のことを知っていたこと。稜太のお母さんは病院に勤める看護師さんで、いつも遅くならないと帰ってきてくれないこと。
「家に帰ってもつまんないんだもん。だったらずっと外にいて、遊びたいし」
稜太は何度も僕を見た。「せっかく家が近いんだしさー、遊ぼうよ。ナオん家だってお母さん、あんまりいないんだろ」
そんな事情とはちっとも知らなくて、なんだか今まで悪いことをしていたような気がして。
本を読むのと、稜太と仲良くするのと。どんな風に天秤にかけたのかは分からないけれど、少なくともその時の僕は素直に言えたんだ。「うん」って。
なぜ仲良くしないのかと問われて、悲しみを覚えたくらいだもの。本を読むのがいくら楽しくても、夢中になれても、やっぱり寂しいことは寂しかったのかもしれない。
「やった!」って稜太は喜んでくれたっけ。その日は破片を拾い集めたところで解散したんだけれど、次の日からさっそく、稜太は学校が終わると僕を遊びに誘ってくれるようになった。まさにあっという間の有言実行だった。
それが僕にとって、初めてまともに『友達』と呼べる人のできた瞬間だった。
……今でも、そう思っている。