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 八丈島は東京南方の沖合およそ二百八十キロに浮かぶ、伊豆諸島と呼ばれる列島の一つだ。狭そうな名前の島だけれど、ともに並ぶ伊豆諸島の島々の中では指折りのサイズを誇る。普通ならひとつだけのはずの山が、島内に二つもそびえているくらい。

 大型の八丈本島と脇の八丈小島で構成されていて、寄り添うその様はまるで親子のようでもある。気候は沖縄と同じ亜熱帯に分類されている。太平洋の蒼と、主峰・八丈富士の翠、そしてハイビスカスの丹が、この島を彩る三原色だ。

 両島を治める八丈町の人口は七千人強。本州の羽田空港からの直行便や東海汽船のフェリーが立ち寄り、伊豆諸島と小笠原諸島を合わせた中でもこの島の町は最大級らしい。あちこちに沸く温泉や、あたたかい空気の中で紡がれた名産織物・黄八丈と、観光資源にも恵まれている。小さな島の割に道行く人が多いと、昔から薄々と感じていた。

 警察署、病院、バス、スーパーマーケット、ホテル。本州にも負けないくらいの施設の充実さを誇るこの島が、かけがえのない僕の生まれ故郷だった。




 自分の住む島のそんな話など知るはずもなかった、まだ保育園児だった頃のことから、僕の記憶はおぼろに始まる。


 当時、母さんは毎日毎日、近所のスーパーマーケットで朝から晩まで働いて、ようやく日銭を稼いで家に帰ってくる日々を送っていた。

 かつてはただの本州人に過ぎなかった母さんには、島の人間の伝手(つて)は何一つとしてなかったようだ。もちろん親戚だって住んではいない。手に職を持たない余所者にとって、働き口になりうるのはパートタイム勤務の職場くらいで、島内でそんな働き方ができるのはスーパーマーケットくらいのものだったのだろう。

 島内にスーパーマーケットは五軒しかない。自然、そこで働く母さんの姿はご近所さんに何度も目撃されていて、母さんは好奇と不審の目で見られていたようだった。それは保育園に通っていた息子の僕にも伝播して、あの頃から何だか周りの友達からも遠巻きにされていたような気がする。

 住んでいる場所も悪かったんだろうな。住まう人の亡くなった、ぼろい空き家を借りての仮住まいだったんだから。

 島の南東、三原山という山のふもとに建つ、木造平屋の古びた一軒家が、僕の帰る場所だった。しばらく人の住んでいない時期があって、近所の子供たちからはお化け屋敷呼ばわりされていたこともあったと聞く。僕らが奇異の目で見られたのも仕方のないことだったんだと思う。

 前の住民の置き土産だったのか、そんな家でも本だけはずいぶん豊富に揃っていて、僕にとって唯一の友達といえば、絵本だった。時間が来れば、母さんを待たずにさっさと走って帰って、部屋に入って絵本を開く。この年齢にしてすでに、僕はいわゆる鍵っ子だった。




 『つるのおんがえし』という童話を知っていると思う。

 あの本に出会ったのも、そんな具合に僕が絵本にはまっていたときのことだった。


 片っ端から絵本をあさっていて、本棚の隅にあったこの本を初めて見つけた時、記憶が確かなら僕はまだ年長だったと思う。

 捕まっていたのを救われたツルが、助けてくれた老夫婦に恩返しの織物を織る。あの有名な物語に初めて遭遇した僕は、まるで食い入るみたいにその絵本を読んだ。部屋の時計が時報を打ったのにさえ気付かなかったくらい、夢中になって。

 こんな細い鳥がいるんだ、などと思ったものだった。まともに手すら生えていないはずの鳥が、人に化けてまで返そうとする──。『おん』というのはそんなに大切なものなのかと。

 しばらくして、母さんが帰ってきた。

「ただいま」

 くたびれた声が玄関土間に響くのが、母さんの帰宅の合図。僕はいつも駆けて行って母さんを出迎えた。もちろん、読みかけの本はしっかりと抱えたまま。

「おかえりっ」

「今日はなにをよんでたの?」

「これ」

 タイトルを尋ねられるまでがいつもの流れだ。『つるのおんがえし』を掲げてみせると、そう、と母さんは普段通りに微笑んでくれた。あの日も変わらず、優しい笑みだった。途端に『おん』の意味なんかどうでもよくなって、夢中になって母さんを見上げた。

「どんなお話なの?」

「えっとね、たすけられたツルががんばってツルのはねをおって、ふくをおるはなし!」

「そうなの。良かったわねぇ」

「ねぇねぇ。ぼくも“おんがえし”したい! ふくおって、母さんにあげるんだ!」

 母さんにしがみついて僕は訴えた。よっぽど影響を受けていたんだろうねと、後になって何度も母さんに笑われたし、僕自身もよく覚えている。抱きついた母さんの服の柔らかさ。声変わりを迎える前の、あの高い声。

 母さんは一瞬、面食らったかのように目を丸くしたけれど、やがて静かに言ったっけ。

「そうね。もう少ししたら、してもらおうかしら」

「いまがいいー」

「うーん……。じゃあ、絵本読んでもらおうかな?」

 うん、と答えた。そんなことでいいなら僕でもできると思った。それを見て母さんも、カバンを肩から下ろした。

「ちょっと待っててね。服、着替えてくるわ」

 そのまま母さんの足音は奥へと消え、僕と、カバンとが、玄関先に取り残された。いつも出勤するたびに母さんの持っていくカバンは、近くで見るとなんだかぼろぼろで、服より新しいカバンをあげた方が喜ばれるかな──なんて考えたっけ。あの年頃なりに必死に考えを巡らせていたことは覚えている。


「…………」


 母さんの戻ってくるのを待つ間、僕はまじまじと、絵本の表紙を眺めていた。

 目に入ったのは絵ではなくて、『おんがえし』の五文字だった。“つる”という鳥をあまりよく知らなかったせいかもしれない。残念ながら八丈島にそんな鳥は来ない。

「おんがえし……」

 まだ回りきらない舌で、二回、三回と反芻した。

 どことなく引っかかりのある、不思議な響きの言葉だった。

 冒頭の柔らかな音ばかりが気に入って、戻ってきた母さんに変な顔をされるまでの間、まるで取り憑かれたようにその五文字を唱え続けていたような気がする。




 その日、僕がその物語のどんな点に思い入り、どんな感想を懐いたのか、なぜ『おんがえし』をしたいと思ったのか、きっと本当のところはもう覚えてはいないのだろう。

 けれど、これだけは疑いようがないはずだと思うんだ。

 あの瞬間をもって、『おんがえし』が僕の中で生涯、忘れることのできない言葉になったんだということは。






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