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02、



 居間の電話が、不意に鳴り始めた。

 僕が受け答えのできる状態にないのを(おもんばか)ってくれたのかな。立ち上がった稜太が、受話器を取り上げた。はい、そうです、──聞こえてくれる声はどこか湿っていた。

 かと思うと、その湿り気は瞬く間に蒸発して消え失せた。

「本当ですか!?」

 僕は顔を上げた。晴菜も上げていた。夕方の薄暗い部屋の奥、電話の脇に立つ稜太が、僕らを振り返っていた。

「ナオの母さんが危篤だって。病院がすぐ来いって言ってる!」

 僕は青ざめた。母さんが、危篤? 聞き間違いか?

「行かなきゃ!」

 腕で強く顔を拭い、晴菜も立ち上がった。聞き間違いなんかではなかったのだ。

 僕は、立てなかった。力が、足に入らない。ふらついてしまってバランスを取れなくて、立ち上がる姿勢さえ作れなかった。

 受話器を置いた稜太が、駆け寄ってきた。二人に見下ろされた僕は、どんな顔をしていればいいのか分からなくて、唇を噛みしめた。

 稜太が手を差し伸べた。

「行くぞ、ナオ」

「…………」

「樫立、そっち握れ。連れていくぞ」

 首を振った晴菜が右手を、稜太が左手を掴んだ。手付きにも言葉にもまるで躊躇(ためら)いはなかった。ま、待ってよ、そんな無理に──。抵抗できないまま玄関まで引っ張られ、目の前に靴を出された。

「舐めんなよ」

 稜太の口調は怒ったように強かった。「生き甲斐でも生きる意味でもなくしてみろよ。俺たちがこうやって引っ張って、新しい生き甲斐のところへ連れてってやるから」

「三根くんに生きていてくれなきゃ、私たちだって困るんだから!」

 晴菜が続けた。稜太にほとんど羽交い締めにされながら、晴菜に靴を履かされた。惨めな気持ちが湧き上がる前に、出立の準備は整ってしまった。

 行こう、と稜太が号令をかけ、僕たちは日暮れの町へと走り出た。




 思えば。

 本州送りの未来を突き付けられた僕よりも。

 最短三週間の余命を突き付けられた母さんの方が、何倍も深い絶望を覚えていたんだろうにな。


 行く手に八丈富士がぼうと浮かんでいた。振り返れば三原山が見えた。母さんの勤め先だったスーパーの横を駆け抜け、並ぶ屋根の向こうに底土中や坂上小の建物を見、爆音を奏でながら空を突っ切ってゆく本州行きの旅客機を見送りながら、街灯の下を僕たちは走った。息が苦しくなっても、気持ちが燃え落ちそうになっても、稜太と晴菜の手が僕に止まることを許さなかった。

 本当に、最後の最後まで、僕を引っ張り続けてくれた。

 やがて行く手に八丈島中央病院の建物が見え始め、それは見る見るうちに近付いてきた。シルエットに懐かしさを覚える間もなく駆け込んで、そこでようやく二人が両手を解放した。廊下を走り抜け、階段を一気に上がると、受付のところで志保さんが待ってくれていた。

「今、集中治療室にいるわ! ついてきて!」

 案内されるがままに院内を進み、『ICU』という文字の入ったドアを抜けると。

 人工呼吸器を付け、何本もの管に繋がれた母さんが、真っ白なベッドの上に横たわっていた。

「母さん!」

 夢中で叫んで、走り寄った。母さんは僕の方を向いて、今にも風に吹かれて消えてしまいそうなほど弱く、小さく、えくぼを作った。

 こんな姿になって……!

「つい先ほど、どうにか意識を取り戻しましてな。ひとまず窮地は脱したかと思います」

 傍らに立っていた白衣の人物が、心電図の装置に手をかけながら言った。主治医の小岩戸先生だった。

「ですがやはり時間の問題でしょう。先はそれほど、永くないかもしれない」

 そんな。そんな……。

 もっと早く、こうして病院に来る習慣を再開させていればよかったのかな。強情にならずに母さんの話を聞きに来ればよかったのかな──。僕は半ば呆然としたまま、横たわる母さんの上へと視線を落とした。

 母さん。

 ごめん。

 そう伝えたいのに、言葉にならなかった。黙っていても伝わらないと知っているはずなのに、伝わらなかった悲しみを知っていたはずなのに。


 母さんは、右の腕をよろよろと伸ばした。

 そうして僕の手を捉え、ぎゅっと握りしめた。


「来てくれて……ありがとう」

 微かな声を耳が捕まえた。涙が膨らむのを感じながら、僕はうん、うんって、何度も頷いた。それを確かめてから、母さんはまた、続けた。

「移住のこと……直接……話せなくて……ごめんね」

 なんで、いきなりその話題に。呼吸が詰まってしまった。母さんは覚束ない声で、なおも続けようとしていた。

「でもね……私がいなくなってしまってからでは……遅いの……。あなたが独りになってしまわないために……生きる場所を用意するために……今……決めておかなければいけないのよ……」

「……母さん……」

 僕は涙を腕に押し付けた。

 自分が苦しんでいる最中なのに、重体に陥ったばかりだというのに、親不孝な僕のことばかり気にしようとする。こんな時くらい、自分の身体を労ってよ。自分の心を労ってよ。僕なんか後回しにしてくれよ……。

 僕の腕を握る手に、力がこもった。母さんは人工呼吸器の中で、唇を結んで、それから開いた。

「分かってるわ……。でもね、(わたし)は……息子(ナオくん)のこと、いつも、いつまでも、心配し続ける定めなの……。そういう、生き物なの……」




 その時。

 母さんや、みんなと過ごしたそれまでの日々の風景が、胸の内に大きく開いた暗闇を幻灯のように彩って、流れて、消えた。


 いくら真剣な眼差しで『恩返しがしたい』と訴えても、あまり真面目に受け取ってくれることのなかった母さん。

 命を顧みようともせずに黒服に掴みかかった僕を張り手で戒めて、泣きながら謝って抱きしめた、母さん。

 借金のことも父さんの遭難のことも、自分の苦しいことは何一つとしてさらけ出してくれなかったくせに、僕への気遣いだけは欠かすことのなかった、母さん。

 その言葉に矛盾は見つけられなかった。僕はいつも母さんの手で守られ、目をかけられ、心配をかけられてきた。どんなに“恩返し”に腐心しようとも、守る側と守られる側の立ち位置を逆転させることはついに叶わなかった。それまでの日々を生き延びてきた自分自身が、母さんの口にしたことを嫌でも証明してしまうのだと、僕は、気付いてしまった。

 そうだよね。

 そうなんだね。

 信じられなくて、ごめん。

 母さんの動機は初めから決まっていたんだね。僕がいくら足掻いても、もう……その定めが動じることはないんだね。


 こんな僕にもできることがあるとしたら、握られたその手を握り返すことだけだった。涙が弾けて、腕に滲む。母さんにもその感覚は届いたんだろうか。

「……ね。言ったでしょう? 私はもう……ナオくんから色んなもの、受け取ってる。……ナオくんが幸せに 生きられるように、背中を押してあげるのが……私の、最後の……役目だから」

「……わかった」

 ようやく、言えた。

 分かった。僕、親戚のところへ行くよ。母さんが望むからじゃない。その決断が、母さんを安心させることに繋がってくれるなら。

 稜太や晴菜と一緒に、この島を……離れるよ。

 だけど、だからって、母さんをひとりぼっちになんかさせない。ベッドの隣にしゃがんで、母さんの目をまっすぐに見つめた。充血した母さんの目が、潤んだ瞳が、僕を見返した。

「母さんがここにいられなくなってしまったら、行く。それまでは、何ヵ月経っても、何年経っても、ここにいる」

 息を飲む音がした。

 構わないよね。稜太、晴菜、志保さん、先生。どのみち母さんの命の尽きるまでの時間は、もう限られてしまっているんだから。

 約束は守るよ。

 どれだけ認めてもらえなくても、頑として受け入れずに“恩返し”を続けてきた。まるで天邪鬼のようだった僕が、最期に守る、約束だ。

「……うん」

 母さんは、微笑んでくれた。

 その目が力を失ったように、ゆっくりと閉じていった。慌てて顔を上げたけれど、バイタルサインを確認した先生が、大丈夫ですと言葉を添えてくれた。「まだ、大丈夫」

 母さんの鼓動の在処を示す心電図の同期音が、先生の言葉をしっかりと裏付けてくれていた。

 『ありがとう』じゃなくて、『うん』と応じてくれた──。母さんの手をそっと離して、立ち上がった。稜太が寄ってきて支えてくれた。二人を振り返り、志保さんを見上げて、僕は胸の中に宿る決意の姿を確かめた。




 母さん。


 ありがとう。


 僕はもう、逃げないよ。







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