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03、





 つくづく自分は単純な人間だと思う。それっきり、僕は母さんの病室に足を運ぶことができなくなってしまった。

 毎日、毎日、学校と家とを機械のように往復するばかりの生活を送るようになった。

 ……ううん、銀行やスーパーには足を伸ばしていたかな。ともかく病院に行けなかった。建物さえ目にしたくなかった。志保さんの言葉を信じるなら、こうしている間にも母さんの命は刻一刻と削られていっているはずなのに。

 それでも真実に手を伸ばす勇気が出なかった。

 目の前に大きな喪失が待ち受けているのかもしれない事実を、受け止められる自信がなかった。

だって三週間だぞ。そんなもの、日々を(せわ)しなく過ごしていれば、瞬く間も同然だ──。


 朝、起きる。朝食を適当に作って食べて、中学へ登校する。稜太の声のない、晴菜との交わりもない空虚な時間を過ごして、放課後は長い家路を往く自分の影をのろのろと追い掛けて、家の仕事をして、夕食を食べてさっさと寝てしまう。

 そこには、首が痛くなるほど見上げて抱き着きたい人も、隣に並んで笑い合いたい人も、この細い腕をがむしゃらに投げ出してでも守りたい人も、誰の姿もなかった。


 みんな、みんな、いつの間にかどこかへ消えていってしまった。

 僕が安寧の中でまったり泳いでいた間に。

 “恩返し”の三文字にこだわっていた間に。




     ◆




 その次の日曜日のことだっただろうか。

 晴菜と稜太が、揃って家を訪ねてきたのは。


 チャイムに呼ばれてドアを開けに行くと、二人が唐突に立っていた。もちろん学校もない日で、僕はそれまでぼうっと本棚の中身を漁りながら、無為な時間を(むさぼ)っていたところだった。

「……よっ」

 くたびれたような線を顔に刻んだままの稜太が、笑った。「暇だろ」

「どうしたんだよ、いきなり」

「ちょっと相談したいことがあって」

 うなじを掻いた晴菜の横で、稜太は僕の返事も待たずに家に上がり込もうとする。今さら待ってと止めることもできなかった。せめて来客用のスリッパをと思って、下駄箱の中を手で探ったっけ。

「要らねぇよ、そんなの」

 稜太は言ったけれど、無理やりにでも履いてもらった。

 ──履かないで我が家に上がるのは、いつかの黒服で十分だったから。


 相談があるというのは晴菜の方だった。居間に座り込んで早々、晴菜は揃えた膝に目を落としながら、あのね、と言った。

「私()本州に渡ることになりそうなんだ」

()?」

「お前だってそうだろ」

 すかさず稜太が言い放った。……そりゃ、そうだ。そうだけど、どうしてそのことを晴菜までもが知っていたんだと思って。

「怒らないでほしいんだけど」

 晴菜は前置きをして、うなだれた。「私、昨日、勝手に三根くんのお母さんのところに行ったんだ。それで、聞いた。お母さんの病状のこと、これからのこと。三根くんが本州の親戚のところに預けられることになりそうだってこと」

 それで合点がいった。

「……別に、怒らないよ」

 僕もうなだれた。そんなことで憤る人間だと思われていたなら、哀しくて。

 晴菜たちが八丈島へやって来たのは、祖父・葉一さんが『親義』に入所するためだった。その葉一さんが亡くなった今、晴菜が八丈島にいる意味はすっかり薄くなってしまっている。本州に残してきた友達もいるし、警察署に勤める秀高さんは単身赴任として島に残ればいい。お前は向こうに帰りなさい──。そう、晴菜は両親から話をされたのだそうだ。

「その時はどっちでもいいって答えたんだけど、いざとなるとやっぱり、怖いなって思っちゃうの。何でも頼れたお祖父ちゃんもいないのに、私ひとりで向こうでやり直せる自信、なくて。それなら八丈島に残りたいって思った」

 晴菜の声は少し、震えていた。

「でも、二人が向こうに行くっていう話を聞いて、心が動いたんだ。三根くんが一緒に渡ってくれるなら、安心かな……って」

「説得しに来たってこと?」

 僕が顔を上げたのと、稜太と晴菜がともに頷いたのは、ほとんど同時だった。稜太が添えるように続けた。

「ナオだってまだ納得してないんだろ。俺と母さんがその話をした時、お前、逃げ出したじゃねえか」

「そうだけど……」

 長く顔を上げているのはきつい。重力に逆らうのをやめて、僕はまたツルのように頭をたれた。本物を見たこともなかったくせに。

 ──どうだったんだろう。

 僕は、本州への移住を受け入れられていなかったのか。

 それとも、母さんが僕に何の相談も持ちかけないまま移住を決めてしまったことが、許せなかったのか。

 今でも区別がつけられなかった。もしかしたら、そのどちらでもないのかもしれない──。強引に口角を上げて、笑みのような何かを浮かべてから、つぶやいた。

「……母さんが望むんなら、僕は、逆らわないよ」

「本当かよ」

「…………」

 答えられなかった。

 稜太も、晴菜も、僕のことをじっと見つめている気がする。視線が突き刺さる感覚にしばらく耐えていると、やがて晴菜が、口を開いた。

「三根くんは重いって感じちゃうかもしれないけど、言うね。……私、三根くんがいなかったら今ごろ、こうやって前を向けてないよ」

 どくん。

 心臓が大きな拍動を打ったのを覚えた。

「三根くんのことは今でも慕ってるつもりだよ。遊んでくれたこと、仲良く話してくれたこと、みんな今も覚えてる。きちんとショックから立ち直れば、また、前みたいに楽しい日々を送れるかもしれない。──そう信じたから立ち直れたし、三根くんがあの海を一緒に渡ってくれるなら、私も勇気を出せるって思ったの。本当だよ」

「俺だって」

 稜太も早口で言った。「お前がいるから、お前とまた仲良くできるかもしれないって思えたから……。俺が島を離れるって決めたの、ナオの母さんがお前を向こうの親戚に預けたがっているって話、聞いたからなんだぞ」

 そんなこと言われたって……。

 呆れてしまったんだろうか。二人の声は少し、大きくなった。

「そんな簡単に決められないってのは分かってるよ。だったらせめて、ナオの母さんと話、しに行こうぜ。納得がいかないなら、いくまで話し合うしかないだろ」

「お母さんだってきっと、三根くんのこと、待ってるよ」

 思わず腰が浮きそうになった。そこで母さんの名前を出すのは、ずるい。

 心が返すための言葉を探そうとしていたのかもしれない。勢い余ってうろうろと足元を漂った視界が、何となく、手に取ってから棚に戻していなかった本たちの山へと移っていった。

 ああ。

 むかしはここに並ぶ本が好きだったな。

 ここにある本が、母さんのいない世界の仲間たちだったな。

 溢れかえった懐かしい気分は、一冊の絵本のタイトルが目に入った瞬間には、消し飛んでしまっていた。


 『つるのおんがえし』だった。


「…………」


 拾い上げて、表紙を見つめた。

 稜太も、晴菜も、僕の返事を待っている。それが分かっていながら本に触れるのをやめられなかった。

 ひんやりと心地いいその表面を、そっと手のひらで撫でていたら、

「……今まで、母さんに迷惑ばっかり、かけてきた」

 自然と言葉が口をついていた。

「母さんひとりで僕を養うのは大変だっただろうし、借金にも追われてたし……。だからせめて、母さんの役に立ちたいって思って。今日まで受けてきたたくさんの“恩”、返したいって思って」

 二人は黙って聞いてくれている。

「だから頑張って家のことも手伝うようにしてきたし、病院にも通って看病し続けたかった。……そうしたら、なんでだろ。それ以外のことに、自分が生きてく意味を見出だせなくなっちゃって」

 話しているうちに、その問いは自分へと向かってぽっかりと口を開いた。ああ、そうだ。母さんへの“恩返し”が、もう思い出せないほど昔から、たったひとつの僕の生き甲斐だった。

 こんなに無気力になってしまっているのは、いずれ母さんに遠ざけられる未来が待っていると知ってしまったから。

 僕の生き甲斐を、誰あろう母さん自身に否定されてしまった気がしているからだ……。

 いま、目と鼻の先で耳を傾けてくれている二人に、求められているっていうのに。──ああ、やっぱり母さんのことを考えたら心が簡単に壊れそうになってしまう。恥ずかしくて、情けなくて、目頭が熱くなった。防ぐ間もなく涙が流れ落ちた。

「ごめん。わざわざ来てくれたのにこんなこと言って、ごめん……。だけど僕にとって、母さんはそのくらい大切な人なんだよ……。母さんのいない世界で頑張って生きていきたいなんて、思えない……」

「……私たちじゃ、ダメ、なんだね」

 晴菜の声も泣きそうだった。弱々しいその音色で気持ちがいっそう沈んで、泣きながら頷いた。

 晴菜も稜太も大事な存在だよ。だけど、足りない。それでは足りない何かがあるんだ──。

 視界の隅に入った稜太の膝が、小刻みに揺れていた。晴菜もそうだったんだろうか。外の世界で起きていることは、自分の嗚咽に掻き消されてちっとも掴めなかった。


 こんな思いをすることになるなら、“恩返し”なんか生き甲斐にするんじゃなかった。

 親孝行なんて考えなければよかった……。


 ねぇ……。誰か、教えてよ。そうなんですか……?






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