04、
単なる偶然だったんだろうか。
その日を境に、母さんの調子は急激に悪くなっていった。日中、何度も意識を失ったり、痙攣を起こすようになった。
それはたいてい僕が面会に来ている以外の時間で、僕が症状の悪化を自分の目で見てしまうことはほとんどなかったんだけれど。それでも、分かる。頬の肉が減っていくから。しわが増えていくから。母さんは僕の見られないところで確実に、日を追うごとに、痩けていっていたのだろう。
僕の方も大概だったかもしれなかった。葉一さんが亡くなってからというもの、晴菜は登校してもずっとうなだれたまま、誰かに話しかけられてもぼんやりと言葉を返すだけの絡繰り人形みたいな存在になってしまっていた。相変わらず、稜太は学校には来てくれない。誰にも声をかけられず、ひとりぼっちで黒板を見つめるばかりの日々が、ふたたび、僕の日常になった。
何かと目の敵にされては殴られ、蹴られ、いじめの対象にされていた頃と比べれば、これでもまだましなのだろうか。──とてもじゃないけど、そんな風には思えなかった。
ただ、
ただ、
無力で。
虚しくて。
──『今日はどんなことがあったの?』
ベッドの脇で黙って座っていると、母さんは優しく尋ねてくれる。その瞬間、僕の頭には何の出来事も浮かんでは来なくて、いつも気付かされるんだ。
思い出せない。覚えていないんだ。母さんのいない、稜太のいない、晴菜のいない時間なんて、覚えていられていないんだ──。
それでも、母さんの病室に通い続けた。
日々がどれだけ味気なくても、しんどくても、病院に向かって歩いている時だけは足や手に確かな熱を感じられた。前に向かっているんだって自覚することができた。
母さんの眠る病室に行き、そこで静かな時間を過ごすことでしか、生きている感覚を得ることができなかった。
そんな日々が、しばらく続いた。
◆
その日、久しぶりに、志保さんが僕を鳥打家の食卓へ呼んでくれた。
──『稜太も会いたいって言ってるの。それと、話したいことがあってね。……どうかしら』
稜太が、僕に。
電話口で言われた時には疑いたくなってしまった。稜太にとって僕は、自分が傷付く原因になってしまった存在なのに、そんな……。
けれど志保さんの気持ちを無下にはできなくて、結局、僕は鳥打家に出向くことになってしまった。
出迎えた稜太の目はどこか虚ろだった。それでも僕の姿を見とめると、引きつってしまった頬を弛め、笑ってくれた。
「元気じゃなさそうだな」
「……稜太こそ、だろ」
答えた声は弦を引っ掻いたみたいな音色だった。さ、座って──。志保さんの出してくれた椅子に腰かけても、強張った身体は少しもほぐれてくれなかった。
食べながら、いくらか最近の話をした。すっかり不登校生になってしまった稜太は、本屋さんで買った教材で勉強をすることで、どうにか学校との学習深度のギャップを埋めようとしていた。病院でも心の薬の処方を受けていて、このままどうにもならなければ通信制への切り替えも考えることになるかもしれないらしかった。
鳥打家は、本州への転居を考えているそうだった。島を離れて向こうへ渡り、環境を大きく変えてしまえば、もしかすると状態が好転するかもしれないって。
「こっちにはご先祖の墓もあるし、家もあるし、本当はそう簡単にとはいかないんだけど……」
志保さんの目は真剣だったな。「島に残ることでこの子にかけてしまう負担に比べれば、何でもないって思うの。覚悟は、してるわ」
そうですか、って答えたんだったかな。よく覚えていないや。
僕にしてみれば、稜太が本州に渡ってしまえばいよいよ遠くなっちゃうな、会えなくなるんだな、という事情の方が大きくて。
同じことを思っていたのか、志保さんが話をしている間、稜太はずっとうつむいて机を睨んでいた。
「……もう、ほとんど決定なんですね」
嗄れた声で僕が訊くと、志保さんは頷いた。それから、食器を置いて、なぜか姿勢を改めた。何だか分からず僕も真似をして背筋を伸ばすと、
「あなたのお母さんから、話してほしいって頼まれていることがあるの」
そう、言われた。
「え」
「あなたのお母さんの容態のことは、あなた自身もよく知ってると思う。脳卒中で倒れて以来、身体の方も日付が進むごとに衰弱しているし、何より脳へのダメージが思っていたより大きかったみたいでね……。昨日、小岩戸先生から、かなり厳しめの予測を言い渡されたのよ」
冗談の口調には聞こえなかった。「あなたのお母さんの命は、もってあと二ヶ月。短ければ……三週間程度かもしれないって」
何も、考えられなかった。
頭の中が真っ白になるって、こういう感覚だったんだ。考えようとしても頭が動かない。押し付けられた現実に耳が傾かないんだ。
三週間────。
それってどれくらい?
長いんだっけ? 短いんだっけ?
志保さんは僕が話についていけなくなっていることには気付いていないようだった。
「それで、あなたのお母さんから、あの人の意識がはっきりしている今のうちに、本州の東京にいる親戚のところへあなたを預けたいっていう相談をされた。福祉施設に入れられてもきっと上手くいかない、稜太くんと一緒に行けるなら安心だ……って、言われたわ」
「──嘘だ」
反射的に割り込んでしまっていた。「嘘だ。そんなの、そんなこと母さんが言うわけない」
そうだよ、言うわけがない。稜太たちに加えて僕まで本州なんかに行ってしまえば、母さんはあの病室で本当に孤独になる。そんなこと、母さんが望むわけない。願うわけない!
志保さんは唇を噛んでいた。
「……本当よ。自分の口から直接伝えるのが、きっと躊躇われただけで」
「聞いてないです」
「だから──」
「母さんは僕にそんなこと、話してくれなかった!」
たまらず立ち上がっていた。無理だ、無理だ、聞けない、聞きたくない……!
稜太や志保さんの呼び止める声がする。背中に飛び掛かる言葉たちを無視して、リビングを走り出てしまった。玄関で靴を引っ掛けて、そのまま扉を開け放った。
何かがおかしいと思っていた。そんな嘘のために、僕をここへ呼んだのか。
信じたくない。
聞きたくない。
どうして。どうして母さんはそんな大事なこと、僕に直接話してくれなかったんだ。そんなに弱いと思われてたっていうのか。僕はそんなに頼りなくて、情けない息子にしか見えなかったのか──。
めちゃくちゃな感情が次々に爆発して、その勢いのまま闇雲に町の外れまで来てしまった。息が切れて、夜空の高みへそびえる三原山を左に見上げて、涙がどっと、溢れた。潮風がまとわりついて、塩っぽい味が身体を満たした。
頼りなく見えていたよな。
情けなく見えていたよな。
……そんなこと、自分自身がよくよくわきまえていたはずだったのに。
だけど、ごめん、母さん。今の僕にはどうしても、その提案は受け付けられないよ……。
母さんの病室に通うことだけが生き甲斐だったのに。母さんをひとりぼっちにしない、何があっても寄り添い続けることが、僕にできる精一杯の“恩返し”だと信じていたのに。
泣き虫で弱虫だった幼い頃の僕を抱きしめて、大丈夫、ここは安心だよって教えてくれた母さんの恩を、僕はまだ、返せていないのに……!
泣きながら、家に帰った。
道はよく記憶していない。