05、
あの喧嘩の日、晴菜はなぜ、危険を省みることもなく僕や稜太のことを守ってくれたんだろう。
ある日の夕方、八丈島中央病院へ向かう道の途上で、思い切って尋ねてみた。そんなこと? とでも言わんばかりの顔をして、晴菜は笑った。
「私、鳥打くんを守ろうとしたんじゃないよ」
「え…………」
「私が守りたかったのは三根くんだよ。あとは単純に、暴力を見ていられなかったってだけ」
言葉を失った僕を横目に、晴菜は頭の後ろで手を組んで、高い空を渡る電線を見た。カラスたちの鳴く声に、声が、重なった。
「悪いことは看過しちゃいけないって、お父さんからよくよく言い聞かせられてきたから」
──てっきりハッタリをかましたのかと思っていたけれど、晴菜のお父さんが警察官だというのは事実だったらしい。お父さんこと樫立秀高さんは、八丈島警察署に勤務する警視庁所属の警部で、以前にいた都心の警察署では犯罪捜査の第一線で活躍していたのだそうだ。……この島にそんな物騒な事件は多くないんじゃないかと指摘すると、晴菜はとてつもなく不満そうな顔になった。
思えば、黒服のことを通報してくれたのも晴菜だった。晴菜の正義感と勇気を育んでくれたのは、他でもない。お父さんだったのだ。
「鳥打くんのことがずっと羨ましかった。私だって、三根くんに頼りにされたい。側にいたい。……こんな理由で助けたんじゃ、ダメ、だったかな」
「…………」
「あの時、ちゃんと最後まで言うことができなかったけど」
晴菜は僕の数歩前まで出てきて、くるりと向き直った。「私、まだ三根くんのこと、大切に思ってるからね」
そうして、にっこりと微笑んだ。
「大切って……」
僕が言葉を返せないでいると、ほら急ぐよ急ぐよ、って晴菜が袖を引っ張る。慌てて僕も走り出した。
今のはきっと、晴菜なりに言葉を選んでくれたんだろうな。
夕暮れ色の道を駆けながら考えた。……本物の言葉を僕から聞き出すことは、たぶん、できないと思った。
稜太の心の傷は予想以上に深かったようだった。結局、不登校の期間は延長されることになったと、母さん経由で聞かされた。
稜太が学校に来なくなって、味方をしてくれる人は僕の周りからいなくなってしまったと思っていた。
思い返せば、学校には晴菜がいる。守ってくれるかどうかはともかく、話しかけてきてくれて、ひとりぼっちにしないでくれる。病室に行けば母さんがいて、僕の生きる意味を再確認させてくれる。
そうだ。
僕には“恩返し”をすべき相手がいる。
母さんがいる。
いつも僕を守ろうとしてくれていた、稜太がいる。
或いは、いつも僕を気にかけてくれている、晴菜がいる。
凹んでしまうことばかりの日々でも、僕はみんなのためにも前を向き続けなきゃならない。育てた甲斐のある、守った甲斐のある、気をかけた甲斐のある人間にならなきゃいけない。
そうだよね。
家や学校で孤独な時間に襲われても、苦しくても、そんな言葉で僕は自分を繰り返し繰り返し、鼓舞した。
少なくとも、母さんの容態が決定的に悪くなる日が来るまでは、鼓舞できる。
そんな自負がどこかで芽生えていた。
◆
晴菜が、学校を休んだ。
『樫立さんは身内の事情で欠席するそうです』──出席確認の場で、先生はさして興味もなさそうに説明していた。
そう広くない教室の中に、主のいない席が二つ。
晴菜が休むなんて珍しいことだった。いつもあんなに迷惑に思っていたくせに、こうして稜太に加えて晴菜までいなくなってしまうと、普段の何倍も心細い。その日、僕は一日中、教室の中から存在感をなるべく消すようにして立ち回った。変なことでクラスメートに目をつけられたくなかった。
──『ね、昨日の宿題めっちゃ難しくなかった?』
──『今夜のあの番組、楽しみだよね! え、知らないの? 五チャンだよ五チャン!』
机に手をついて賑やかさを振り撒いてくれた晴菜の姿が、今日は、ない。
身内の事情か。もともと、本州から移り住んできた子だしな……。もやもやと曇る心を抱えながら、なんだかんだで放課後になると僕はいつものように、病院へ向かった。
病室に晴菜が現れたのは、その直後だった。
晴菜の目は真っ赤だった。
「ど、どうしたんだよ」
おろおろしながら出迎えた僕を前に、晴菜は自分の腕を強く顔に押し付けた。そうして目元の涙を押しやってしまうと、僕と、母さんとを、交互に見比べた。
「……お祖父ちゃんが、死んじゃった」
「葉一さんが!?」
母さんが上半身を起こした。
目元には腕の跡がくっきりと残っていた。掠れた声でえずきながら、晴菜は真下を指差した。
「朝早く、容態が急変して病院に運ばれて、ついさっき……っ」
それで、晴菜は学校に来なかったのか。朝一番から病院に詰めていたんだ。──鈍感な自分をあんなに呪ったのは、きっと稜太が殴られているのを目にして以来のことだったと思う。
母さんは蝋人形のように青ざめていた。
「ホームではあんなにお元気だったのに……」
「私の話、なんでも聞いてくれる、優しいお祖父ちゃんだった、のに」
晴菜の嗚咽が病室に満ちていく。「私、お祖父ちゃんがいたから、今まで、頑張って来られたのに……。私……わたし……っ」
晴菜は泣ける場所を求めてここへ来たのだと、その時になってやっと思い至った。至ったのに、とっさに何をしてあげればいいのか分からなくて、僕はそこに立ち尽くすばかりだった。
おいで、と母さんが手を伸ばした。晴菜はくずおれるように母さんのベッドに寄りかかって、声を圧し殺すようにして啜り泣き始めた。その頭を、肩を、背中を、母さんは黙って擦り続けた。
母さんも目を閉じていた。
僕は、何分が経っても、そこに立ち尽くすことしかできなかった。
晴菜たちが八丈島に転居してきたのは、もとをただせば葉一さんが『親義』に入所するためだったのだという。超高齢社会の到来と言われる中、本州では──とりわけ人口密集地の東京では老人ホームの数は圧倒的に不足していて、樫立家は手ごろな施設を見つけることがなかなかできず、遠い八丈島の施設に頼らざるを得なかった。
都合のいいタイミングで、八丈島警察署の中に定年退職者が出て空白が生まれた。そこで晴菜のお父さんが本州の警察署から異動、葉一さんは無事『親義』へ入ることが決まった。
樫立家が丸ごと八丈島へ行く必要があったのは、晴菜が葉一さんにものすごく懐いていたからだった。離れたくない、離れるくらいなら私も八丈島へ行くと晴菜が泣いて頼み込んだ結果、一家全員がこうして島に移住することになったんだ。
そのくらい、晴菜にとって葉一さんの存在は大きかった。
喪失の損害もそれだけ大きかったに違いない。
少しして、やって来たお父さんに連れられ、晴菜はぐったりとした足つきで病室を出ていった。
僕らはその背中を黙って見送った。最後まで、とうとう励ましの一言さえもかけてあげることが叶わなかった。
「……葉一さんは、幸せだっただろうね」
母さんが、ぽつりとこぼした。
「どうして?」
「ああやって、最後まで誰かの中で大きな役割を背負い続けながら、亡くなっていったんだもの。それってすごく、幸せなことよ」
そうなのかな。
真っ暗になった窓の中には、僕の顔と母さんの後頭部とが、黒い色になって反射していた。母さんの肩が、動いた。
「──私が死んだら」
か細い声だった。
「泣いてくれる人、どのくらい、いるのかしら」
「何言ってんだよ」
びっくりして側に行くと、母さんは困ったように眉を傾けて、微笑むばかりだった。