06、
それは昼休みの出来事だった。昼食を一緒に食べる相手のいない僕には稜太が付き合ってくれていたんだけれど、その稜太がいっこうに、姿を見せてくれなくて。
どこに行ったんだろう。
教室の中を見渡しても姿はない。廊下に出て、ちらりと奥の方を覗くと、誰かの怒鳴り声が立て続けに聞こえてきた。
喧嘩だろうか。近づかなくとも雰囲気でそうと分かった。
口を突っ込むことはできそうもない。そんなことをすれば、僕の方がただでは済まなくなる。……それでも見過ごすことはできなくて、恐る恐る、そちらの方へ近づいてみた。直角に曲がった壁の手前からこっそり顔を出すと、そこで起きている事態をちょうど目の当たりにすることができた。
稜太が、いた。
馬乗りになられた稜太が、何人もの生徒に殴られていた。
「稜太!?」
思わず叫んでしまった。しまった、と思った時にはすでに遅く、そこにいた数人の柄の悪そうな生徒たちは一斉に僕の方を見た。
下敷きになっている稜太が、無言で何かを叫んだ。
その顔には無数の痣、痣、痣、痣──。
「何だ、てめぇ」
ゆらりと足を踏み出した一人が、僕の方に向かって歩いてくる。「首突っ込むんじゃねぇよ。何様だよ」
「稜太を……」
必死に震えを隠しながら、僕はまっすぐにその肩を、顔を、睨んだ。
落ち着け。落ち着くんだ。こんなやつ、母さんを追い回していたあの黒服に比べれば……!
稜太が掠れた声で怒鳴った。「やめろ、ナオ……。こいつらならお前なんて……っ」
うるせぇ、と誰かが喚いた。僕の耳にも鮮明に届くほどの音を立てて、稜太は左頬を殴られた。鼻から、いや口から散った血が、視界を飛んで──。
「稜太を放せ────っ!」
気付いた時には飛びかかっていた。瞬間、腹に重いパンチを食らって、膝から崩れ落ちそうになった。それでも構わずに床を蹴って、頭から体当たりを噛ました。どすんと重たい音がして、僕は相手もろとも固い床に突っ込んだ。
「ナオっ!」
「この野郎!」
怒鳴り声が耳元で炸裂した。鈍い痛みが、身体のあちこちに突き刺さる。かと思うと、暴れて振り回した足が何かを捉えて、どんと床に転ぶ音が響いた。転げ回る苦痛の中で雄叫びを上げた。
いつか母さんは言った。どんな理由があろうが、暴力は許されることじゃないって。
そうだ。そんなに誰かを叩きのめしたいなら僕を使え。稜太を痛い目に遭わせるのだけは、許さない──!
「やめなよっ!」
刹那、聞き覚えのある女子の大声が廊下を満たした。
不良たちの手が止まった。今の声は、晴菜……? 引っくり返った視界の向こうに、肩を怒らせて立つ晴菜の姿が映った。
「それ以上やったら──」
晴菜の声には静かな憤りが燃えていた。「全員、拘置所送りにしてやるから」
「はァ? 拘置所だぁ?」
僕らに暴行を加える手を止め、やつらは血走った目を晴菜に向ける。
やめろ、晴菜。お前がここで出てきたってどうにも……。僕の絶え絶えの叫びを黙殺し、晴菜は一歩、進み出た。
「言っとくけど、私のお父さん、八丈島警察署の偉い人だからね。樫立刑事って誰ですかって近所の交番で聞いてみなよ。……あんたたちなんか、何度だって牢屋の中に送れるんだから」
低い、凄みのある声だった。初耳だったのは僕らも同じだった。警察署? 刑事──?
“警察”の語が出た途端、分が悪くなったのを察知したのか、不良たちは次々にその場から立ち去っていった。痛みをこらえて、慌てて稜太のもとに駆け寄る。
「稜太! しっかりしろ!」
稜太は曖昧に頷くばかりだった。頬を流れる鼻血が痛々しかった。
ああ……なんで、どうして、こんなことに。
「保健室、連れていこう」
しゃがみこんだ晴菜の言葉が、僕の思考をなだめて冷静にしてくれるまで、僕はその場に倒れた稜太の前から動くことができなかった。
保健室で養護の先生の治療を受け、ようやく落ち着きを取り戻した稜太は、僕に事の次第を話してくれた。
ここ一ヶ月ほど、僕の何も知らないところで、稜太はいじめを受けていたというんだ。
原因はサッカー部での地位の低下にあるのだと言っていた。中学に上がれば、小学校の時には交わらなかった他所の学区の生徒たちとも触れ合う機会が増える。坂上小の学区では随一の実力を誇っていたサッカー少年の稜太が、他校の部員たちを前にした今は、すっかりその優位性を失ってしまっているのだと。
僕のことを庇おうとするたび、それまでならば自分の実力を傘にして他人の言葉を撥ね退けられていたのが、この頃はすっかり通用しなくなってきてしまったのだと。
「俺だけが一強なんてことにならなくなると、舐められたり、見下される機会も、笑っちまうくらい増えてきてさ……」
保健室のベッドに腰掛けたまま、稜太は泣き崩れてしまった。「初めて自分がいじめられて、いじめられてるやつの苦しみとか痛み、自分でもよく分かった……。ナオ、お前、つらかったんだな……。苦しかったんだな……っ」
「稜太…………」
「ごめん、ナオ……。俺……もう、ナオのこと、守ってやれねえよ……っ……」
僕が何を言おうとしても、稜太は泣き止んではくれなかった。結局、僕まで涙をこらえられなくなって、二人で泣いた。先生が心配して止めてくれるまで、ずっと、ずっと。
僕のせいだ。
僕のせいで、稜太はいじめられた。
僕のことなんか庇ってくれようとするから、痛みを味わう羽目になった。僕が受け止められるだけの力を持っていなかったから、いじめられていることを白状することさえできなかった。
僕のせいで……。
その後、事態を聞き付けてやって来た担任の先生が事情を聴取。稜太がいじめられていたことは、その日のうちに志保さんの耳にも伝わった。
ぼろぼろになった稜太は、志保さんの判断で数日間、学校を休むことになった。
僕は大切な、力強い味方を、失った。
◆
「──そっか」
稜太の話を聞くと、母さんは天井を見上げ、そっと目を閉じた。「あの子が……」
その後に続いたであろう言葉を予想して、僕はまた、泣きそうになった。膝に押し当てた腕が、めきめきと音を立てていた。
稜太が学校から姿を消して、三日。昼食を食べる時も、勉強する時も、僕は案の定ひとりぼっちで、何だか懐かしい感覚に浸っていた。どうして懐かしさなんか覚えたのだろう。それまではいつも、いつでも、稜太が僕のそばにいてくれていたのに。
母さんは肩を小さくする僕の頭に手を置いて、優しく撫でてくれた。
「ナオくんが悲しみすぎることはないのよ」
「でも……」
「それよりも、いつか稜太くんが底土中に戻ってきた時、あの子を今度は守ってあげられるようになりたいね」
やっぱり、駄目だ。母さんの前では僕は弱くなってしまう……。涙がぼろっとこぼれて力が抜けて、僕は撫でられるままに首を縦に振った。
そうだよね。
今までの僕は、稜太に守られるばかりだった。恩を受けるばかりだった。もらった恩はいつか返さなければいけない。母さんにもそうであったように。
強く、ならなきゃ……。
僕の後ろをついてきて、それまで黙って病室の隅に腰かけていた晴菜が、口を開いた。
「おばさん」
「どうしたの?」
「三根くんはもう“守る”ってこと、できてると思います。あの日、暴力を受けてた鳥打くんに手を差し伸べようとしていたの、私、見てました」
母さんの手付きが、もっと優しくなった。
「なんだ。じゃあ、自信を失うことなんてないじゃない」
うつむいて腕で頬を拭う姿勢のまま、僕は、顔を上げることができなかった。
こういう時、晴菜の言葉は少しもありがたく響かない。どうしてついて来たんだよと悪態をつきそうになって、慌てて口を噤んだ。
稜太がいなくなって以来、晴菜は毎日、僕と一緒に病室に通うようになっていた。
たぶん、僕の心が母さんや稜太にばかり向いているのを知った上での、晴菜なりの協力姿勢の見せ方だったんだろうな。何となく怖くて尋ねられない僕に変わって、母さんの容態を聞いたり、『親義』で見聞きした話をしたりしてくれていた。葉一さんの調子もあまり芳しくなかったようで、病気の話をしている間の晴菜はいつもよりも表情が暗かったように思う。
それでも、懐かしい職場の話を聞ける時間は母さんにとって幸せみたいで、母さんは孫の話に耳を傾けるお婆さんのように、しきりにうんうんって頷いていたっけ。
母さんは志保さんとも仲がいい。下手をすれば、家の中から出てこられない稜太の近況も、志保さんに直接聞くことのできる母さんの方が詳しいのかもしれなかった。