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07、





 僕の新たな日々が始まった。

 ──なんて言っても、そんなに大きな変化があったわけではなかった。放課後になれば誰とも交わらずに学校を出る、そこの部分に変わりはなかったから。

 ただ、そのあとの行き先が、家から病院に移っただけ。

 八丈島中央病院の面会時間は午後一時から七時までと決まっている。その時間を目一杯に使って、母さんの隣で時間を費やすようになった。机を借りて宿題や勉強に取り組んだり、母さんの話し相手になったり。

 時には稜太や晴菜が一緒についてくることもあった。稜太の場合は僕に宿題の答えをたかることがほとんどだったけれど、晴菜はお祖父さん──葉一さん経由で『親義』の近況を話してくれたりして、母さんにとっても喜ばれていたっけ。

 晴菜の言うには、母さんのことは『親義』のスタッフや入所者たちからもとても心配されていて、早く復帰してほしいという声が絶えないらしい。

「本当だったら嬉しいわね」

 それが母さんの口癖だった。本当ですよって晴菜が口を尖らせると、今度は何度も何度も時間をかけて、繰り返し頷いていたな。


 母さんを襲った病気の正体は、脳梗塞だった。意識を喪失したのは急性の脳血管障害のためで、今も脳の中には大きなダメージが残っていると告げられた。

 脳梗塞は再発の可能性が大きい病気なんだと聞く。だから、ある程度まで症状が落ち着いても、再発予防のために投薬を続けて様子を見ることが大切だという。もちろん、まだ発現していないだけで、何らかの後遺症を負っている可能性も否定できなかった。

 先生としては僕に話す予定はなかったみたいなんだけれど、母さんが話してほしいと依頼した。

『私のためを思って頑張ってくれているあの子に、事実を隠していたくはないんです』

 ──そう、言っていたそうだ。


 初めての独り暮らしは大変だった。僕が引き受けていた家事の量、自分ではそこそこ多いとばかり思っていたけれど、実際には全体の半分ほどしかカバーしていなかったのだと改めて気付かされた。

 とりわけ大きかったのは、なんと言っても食事の問題だ。

──『お前、痩せてきてないか』

 稜太に学校でそんな言葉をかけられたこともあった。『ちゃんと飯は食べてんだろうな?』

──『……実は、そんなに』

 嘘はつけなくて、白状した。面会時間いっぱいまで病院に残っているせいもあって、夕食はついつい抜いてしまうことが多かった。昼は学校の給食があるし、朝は適当にパンやご飯を食べれば済むんだけれど。

 仕方ないやつだなぁ、とばかりに稜太は(かぶり)を振った。

──『俺の母さんが、また夕食にナオを呼んであげなさいって言ってんだ。何も食べないくらいなら、うちに来いよな』

──『いいの……?』

──『二人より三人の方が、俺だって楽しいもの』

 ……稜太の言葉に甘えて、その日から僕は時々、鳥打家の食卓にお邪魔するようになった。誘ってくれるだけのことはあって、志保さんはいつもたくさんの料理を用意しては、いくらでも食べていきなさいってもてなしてくれる。

 正直なところ、晩ご飯が食べられなかったのはしんどかったんだ。

 これがなかったら僕は、本当に栄養失調になっていたかもしれない。

 学校と病院と家を往復する毎日を送る僕を、稜太も、志保さんも、晴菜も支えてくれる。味方の少ない僕でも母さんへの“恩返し”を続けていられているのは、他でもない。みんなのお陰だった。そのことを、当時の僕はどれほど自覚できていたのだろう。




     ◆




 母さんの容態は、一ヶ月以上が経っても回復傾向になっていかなかった。

 めまい、失調、意識障害。母さんの身体に顕れた症状はおおむねその三つで、なのにちっとも減らなかったのだそうだ。特に失調については、立ち上がって何かをしようとするたびに、ふらついて動きが覚束なくなってしまうほどだったという。

 それがどれほど重い症状なのか、僕は知らない。

 母さんがどれほど苦しんでいるのかも、想像することしかできない。

 ただ──『親義』で倒れたのが単なる発端に過ぎなかったのだということだけは、こんな僕でも確かに言えるんだろうと思った。




 ある夜、いつものように呼ばれて行った鳥打家の食卓で、母さんのことに話題が及んだ。


「小岩戸先生の見立てでは、原因はストレス過多にあるらしいのよね」

 志保さんは箸を置いて、髪をいじりながらつぶやいた。「ストレスには血管を収縮する作用があると言われてるの。脳梗塞っていう病気は、脳の中の動脈が詰まってしまって血が流れなくなって起こるものなのよ。だから、原因としてストレスの存在は無視できないわけ」

 医者の見立てでは、か──。お茶の入ったグラスを取り上げながら、僕は嘆息した。僕が見立てたって同じ結論に帰着しそうだった。

 病は気からという言葉がある。

 母さんが多量のストレスにさらされる機会なんか、いくらでもあったのにな……。

「あのままだと、どうなるんですか」

 怖くなって、尋ねた。志保さんはうつむいた。

「悪くすると、命に関わるかもしれない。きちんと血が供給されないと、脳って簡単に壊れてしまうから」

 僕に思い付く返事はなかった。

 いつも夕食時にはしきりに喋りたがる稜太が、その日は不思議と静かに箸を口元へ運んでいた。……いや、その日だけではなかったかもしれない。近頃、稜太は妙に口数が少ないし、疲れきったような顔をしていることが多い気がしていた。部活が忙しかったのだろうか。サッカー部の事情には疎かったから、勝手にそんな想像をしていた。

 しん、と静まり返った食卓には、テレビの流す番組の音がやけに甲高く響いた。志保さんがまた、つぶやいた。

「……あの人の場合は、過労と心労だろうなって思うわ。ひとりで子どもを育て続けるのって、口で言えるほど簡単なことじゃない。必要なのは手の数だけじゃないのよね。お金も、時間も、何もかもが足りなくなる」

 顔を上げられなくて、僕はじっと膝に目を落とした。

 そう……だよな。

「せめて話だけでも聞いて、気持ちの負担を減らしてあげられたらね……」

 志保さんが言った途端。

 がたん、と大きな音を立てて、稜太が立ち上がった。

「稜太?」

「よくもそんな他人事みたいに言えたもんだよな」

 稜太らしくない声色だった。志保さんを睨み付けた稜太を、僕も、志保さんも、驚いて丸くなった目で見つめた。

「もとを正せば母さんたちのせいだろ。ナオの母さんを痛め付けたのは、俺たちの親なんだぞ。覚えがないなんて言わせねぇからな」

「稜太────」

「ナオもナオだよ。ここにいるのはお前を村八分にしようとした人間だぞ」

 稜太は机を叩いた。どん、と食器が跳ねた。

「何が心労だよ、その心労は誰が負わせたんだよ! 俺がたまたまナオの側に居続けたから悪者になってないだけで、そうでなきゃ母さんだって立派な共犯者だ!」

「やめろって!」

 慌てて立ち上がって稜太の肩を掴んだ。そのまま、ゆっくりと元の席に座らせる。

 どうしちゃったんだ。

 普段の稜太ならこんな風に激昂したりはしない。こんなに気を荒げるのは、僕が何かをされている時だけだ──。

「…………」

 大人しくなったあとも、稜太は最後の最後まで志保さんを睨むことをやめなかった。志保さんはすっかり戸惑ってしまったように、それからは稜太に向かって一言も発することはなかった。……少なくとも、僕が自分の家へ帰るまで。




 母さんのこともさることながら、今の僕には稜太のことも気になってしまう。

 本当に、何もないんだろうか。そんなはずはない。口に出せないだけで、稜太は紛れもなく何かを抱え込んでいたはずで。

 不安という名の重石(おもし)を背負いながら帰宅した、次の日。学校で事件は起こった。







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