08、
「──今日はいっぱい遊んだなぁ」
崖の下から吹き上げる風を浴びながら、晴菜は幸せそうな声色でつぶやいていた。
僕らが最後に立ち寄ったのは、八丈一周道路の沿道に位置する名古の展望台だった。南東に向かって無限に開けた太平洋の景色は、旅の終わりの時刻にもなると、夕暮れの空の中へと水平線が徐々に溶け込みつつあった。
黙って僕も隣に立った。笑った顔のまま、晴菜がトーンダウンした。
「ごめんね。無理に誘っちゃって」
「ううん。僕も、楽しかったから」
「本当?」
「本当」
たぶん。
『安心する』という感情を抱いたことなら何度もあったけれど、『楽しい』という感覚に触れる機会はあまりにも久しぶりで。だからそれが本物なのか、僕には分からなかったけれど。
でも、僕なりに晴菜の好意に応えられたのなら、それは素直に嬉しいと思えたんだ。
「私ね」
晴菜はくるりと回れ右をして、背中から柵に寄りかかった。
「こうやって、鳥打くんの隣にいない三根くんと話してみたかったんだ」
「稜太の隣に……?」
うん、と首を振った。その瞳が僕を捉えて、離すまいと引き留めるように大きくなった。
「三根くんって、鳥打くんとすっごく仲良いじゃない。だから鳥打くんがそばにいると、私の姿はきっと霞んじゃって、ちゃんと見てもらえていないんだろうなって思って」
僕を見つめる晴菜の目線が、温かい。
否──熱い。
心なしか肌寒い風の中ではそれはとても際立っていて、僕は少し、慌てそうになった。
同時に、やっぱり、とも思った。
母さんは今日のことをデートと呼んでいたけれど。きっと、晴菜の意識の中でもそのつもりだったんだと。いつまでも鈍感なふりを許してはもらえないのだと。
「三根くんがお母さんを庇って悪い人に飛びかかったのを見た時、私、すごくかっこいいなって思った。自分のことも省みずに、誰かのためを思ってああいう行動のできる人が羨ましかったし、そういう人に近くにいてほしいって思った。……あの日から私の気持ち、少しも変わってないんだよ」
伏し目がちになりながら、それでも晴菜は訴える。
僕は、動けない。
晴菜の瞳が逃してくれない。
どうしよう。どうしたらいいんだろう。こういう時、何を思って何をすればいいのか、僕には経験がないし……。迷う暇を与えてくれる気はないのか、晴菜は深呼吸を挟んで、言った。
「私────」
ポケットの中の携帯が不意に鳴り出したのは、その時だった。
電話のようだった。晴菜が気まずい顔のまま、黙ってしまう。
しめた、これで落ち着くための時間を稼げる──。僕はすぐさま携帯を取り出した。八丈島中央病院の番号だった。
「もしもし」
「三根尚人くんですか」
いやに口調が緊迫していた。「そうですけど」
「お母さまが倒れて救急搬送されました。確認したいことがありますので、今すぐ病院に来ていただけませんか」
危うく携帯を取り落としてしまいそうになった。
◆
本数の少ない町営バスの到着を待つことはできない。たまたま通りかかったタクシーをどうにか捕まえて、八丈島中央病院に駆け付けた。
母さんはちょうど目を覚ましたところだった。
小岩戸と名乗った担当のお医者さんが、事情を説明してくれた。母さんは『親義』での仕事中に意識を失って倒れ、夕方になって救急車でこの病院へ担ぎ込まれてきたんだという。すでに山は越えている状態だけれど、様子見のためにも最低で数週間は入院する必要があるらしかった。
「症状と容態からして、恐らくですが脳卒中を発症したものと思われます。お母さまに既往症は?」
「……たぶん、ないです」
うつむきながら答えた。答えた内容に自信を持てなかったのと、悔しくて仕方なかったのとで。
原因は医者の先生にもまだ分からないみたいだった。入院中は休職して、しっかりと病気に向き合う体勢を整えねばならないと言われた。──つまり事実上、僕ら三根家の収入は絶たれ、当面は僕だけがあの家に寝泊まりすることになるということ。
僕の入院の時の縁もあって、担当看護師に志保さんが宛がわれたのだけは、不幸中の幸いと言えただろうか。
母さんは哀しそうに微笑んでいたな。
「ごめんね、ナオくん。こんなことになっちゃって……」
「母さんが謝ることじゃないよ」
膝を強く握りしめながら、僕は言い返した。僕に言える言葉はそのくらいだった。
母さんの腕には点滴の管が繋がれ、純白のベッドの中に横たわるその姿は何だかひどく小さくて。怪我で入院していた頃、僕もこんな風に見えていたのかな。
悔しかった。
もっと早く、駆け付けてあげたかった。
もしも前兆に気付けていたなら、母さんが倒れることもなかったんだろうか。僕はやっぱり無力だ。どうしようもなく、無力だ。
晴菜は病室の隅で所在なげに佇んでいた。その晴菜にも、母さんは声をかけていた。
「あなたも、ごめんね。せっかくの楽しい時間を妨げちゃったね」
「そんな。……私のことは、気にしないでください」
晴菜も無理をして浮かべたような笑顔のまま、答えていたっけ。
今度は、病気か。
ようやく母さんを悩ませてきた難題が片付いたばかりだったというのに。
今度はとうとう、病気か……。
晴菜と二人、とぼとぼと家路を辿った。暗い夜道を街灯がおぼろに照らしていて、アスファルトを踏みしめる靴音がいやに大きく響くほど、静かだった。
僕は話した。僕と母さんに起こった、今までの出来事のあらましを。僕が“恩返し”と称して、家事や手伝いに励み続けてきたことを。母さんが笑っていられる日々を守ることが、今も昔も僕の生き甲斐なんだということを。
晴菜は邪魔をしたり茶々を入れることもなく、僕の話に耳を傾けてくれた。
「僕は、いいんだ。独りで過ごそうと思えば過ごせるから」
石ころを蹴りながら、言った。「でも、母さんは僕とは違う。僕には母さんや稜太みたいに見舞いに来てくれる人がいたけど、母さんにはそういう人、いないと思う。僕が行ってあげなきゃ、母さんは病室の中で独りぼっちになる」
「……お見舞い、行くの?」
「毎日、行く」
言い切った。そっか、と晴菜は下を向いた。
脳卒中は頭の病気だ。病気に対して僕ができることなんてきっとないんだろうけれど、せめて話し相手になれたら、気晴らしの材料になれたなら、母さんの行く末も少しはよくなってくれるんじゃないか──。
それが、僕の目指す第二の“恩返し”のカタチだった。
「どう思う?」
尋ねると、晴菜は僕を見た。どこか寂しそうな瞳の放った視線が僕を貫いて、うん、と晴菜は笑った。
「三根くんはやっぱり優しいね」
肯定の意見だったのだと思うことにした。