97 ー新生活ー
遠くで、自分を呼ぶ声がする。
遠いような、近いような、どこから聞こえてくるかもわからない、かすかな呼び声。
波に揺れて、さざ波が寄せる。きっとその音が大きすぎて、声が耳に届かないのだ。
ゆらゆら揺れる。波が寄せては返す。その繰り返し。
かすかな声は、誰の声だろうか。
その声が誰のものだったか、考えることもできない。
ただ、それがとても暖かく、心をほぐす力があることは、薄れた意識の中で知る由もなかった。
「失礼します。文をお持ちしました」
黒に縁取られた木の扉の先は、学校の教室二部屋ほどの広さで、その中に同じ服を着た男たちが机仕事をしていた。
扉近くの若い男が近寄るので、その男に文を渡す。
文というか、薄い板に書かれた札の塊である。なので、微妙に重い。
男はお盆に乗せられたその札の塊を手にして、軽く頷いた。
ご苦労さんとかそんな言葉はなく、その頷きを見て踵を返す。相手は既にこちらに尻を向けていて、それを横目で見て、お辞儀をしてから扉を閉めた。
「リオン、終わった?」
声を掛けられて、理音は振り向いた。
声を掛けてきたのは、黒髪の、理音とさほど身長の変わらない男の子だ。
「終わった。次、まだある?」
「まだあるよ。今日は忙しいからね」
忙しいならば逆にやる気が出る。さあやるぞと腕を大きく振って歩こうとしたら、注意をされた。
王宮とはかくも難しい場所である。
ここはエイシ国。都の名はシャビス。
その都にある王宮。そこには数多くの人々が働きに来、また数多くの人々が住まう場所である。
大きく区切って皇帝が住まう後宮と、政治を行う宮廷となるわけだが、広すぎてどこからどこまでなどは正直理音にはわからない。
わかるのは自分のいる地区は後宮であり、そこから出たら理音を知る者はまずいないと言うことだけだ。
女の姿をしていれば、フォーエンのそばにいる囮役であり、女の姿をしていなければ、誰もフォーエンの隣にいた女だとは気づかないのである。
子供たちの多くいる部屋に入り込み、理音はそこに数人いた大人から、文を渡された。お盆にそれを乗せて、場所を聞く。始めたばかりで、まだ遠くの場所へのお使いはしたことがない。前にも行ったことのある場所を教えられて、それを持ってまた部屋を出る。
メッセンジャー復活である。
男物の着物を着て、前回同様、文を渡しに動き回る。
前のように外に出てどこぞの屋敷に文を渡しに行くのではないが、充分に歩く予定である。
何せ宮廷は迷うほど広い。常に動いている仕事なので、案外大変そうではあった。
とは言え、宮廷全てをくまなく歩くわけではない。
部署によって建物が違えば場所も違うらしく、その建物ごとの管轄でメッセンジャーがいるらしい。無論、大切な文であれば直接渡しに行くのだろうが、そういった手合いの文は理音は運ばない。そこそこ大切で、そこまで重要ではない文や荷物を運ぶ予定だ。
まずは建物を覚え、人の顔を覚えて失礼のないようにすることを念頭に働かなければならない。ここで失敗すれば、あの地区に閉じ込められたままとなる。
レイセン宮。
理音の住む館のある場所の総称である。
総称って、自分が住む部屋以外ほとんど入ったことがないので、どれだけ部屋があるのか、詳しくは知らない。
庭は歩き回っているので、大体の建物の数はわかっているが、とりあえず、理音が入ることを許される場所、庭を含めて壁でぐるりと囲まれた地区全てを総称するらしい。
あの後、フォーエンと別れた後、彼がそのレイセン宮に訪れるまで、理音は前と同じく、庭にある池の見える東屋で、ぼうっと一人ただ待ちぼうけをくらった。
することもなく、暇で暇で仕方のない日々が始まったわけである。
「平和…」
この間の騒動が嘘みたいな夕暮れ空を見上げて、理音は空に大きく息を吐いた。
その場所はいつもの場所。ただしブルーシートがないので地面に座ることができず、長椅子に座り机を背にして足を池の方へと伸ばしていた。
手元に戻ってきたノートパソコンと、ツワから渡されたスマフォとタブレットの同期が終わったのを確認し、見たことのない写真を眺めた。
いくらか写真が撮られている。
タブレットで写真は撮っていないようだが、スマフォでは枚数が増えていた。タブレットでは大きすぎて、こっそりと撮りにくいのだろう。
皇帝陛下が目の前で大きな金属を掲げてきたら、部下たちが困惑する。
スマフォも誰かに使わせるとは思えない。間違いなくフォーエンが撮ったのだから、意味のある写真のはずだ。
見たことのない写真データを確認したが、撮ったものは風景や人物どちらもあり、何を目的として撮っているかはわからなかった。念のためスマフォにデータは残し、全てノートパソコンにコピーしておく。
持っていたUSBの充電器も、ノートパソコンの充電もなくなってしまい、今まで使えなかったのだが、充電器がこちらに残っていたおかげで充電することができた。さすがに壊れていたりとかはなく、自分がここにいた時のまま、カバーもしっかりついて保管されていたようだ。
あれから、フォーエンは姿を現していない。ここにいろと言われてから、もう一週間が経っていた。
内大臣が謀反を起こし、その協力者も多くいたため、宮中はまだ落ち着きを取り戻せていないらしい。
王宮も町も、多くの被害が出た今回の謀反では、残党を追うことも町や王宮を修復することも、時間がかかることだろう。
そんな話をツワから聞いているだけで、外の様子はよくわからなかった。ここから様子を見に行きたいが、抜け出すなと先に忠告を受けたので、こっそり出て行くわけにもいかない。
さすがにフォーエンである。理音が我慢できなくなるのを想定している。
つまり、それぐらいは待たせるつもりだったのだろう。王都の喧騒を簡単に終わらせられるわけがないので、時間がかかるとはわかっていたわけだが。
別れ際につけられた首の噛み付き跡はさすがに消えた。
次に会う時跡を見せて、こんだけ残ってるんだぞ!と文句を言いたかったが、できずじまいである。
そうやって、会う日を待っていたわけだが。
「また暇なんだよな」
町にいる時は仕事があったため時間も潰せたが、ここにいるとやることがない。
前にいた時と同じ、ここにいてどこにも行けず、何もない。
外を知ったからか、息苦しさが渦巻いた。
星を見ている以外にじっとしているのは性に合わない。
ツワに何か手伝えることがないかと尋ねたが、それは許しがないとできないのだと断られた。
それがなぜなのか聞かないでもわかる。ツワは理音を理音様と呼んだ。様付けで呼ばれることも、ここにいることも、やはりフォーエンの客扱いで、自分が自ら何かをやるには彼の許しが必要なのだ。
「暇だ」
イヤホンで音楽を聴きながら目を瞑ると眠ってしまうので、アプリを使って英語の勉強をすることにする。
やることがなさすぎて、勉強する羽目になるとは。
まあもし帰られたら、すぐ試験とかあり得るのでここで勉強するしかなかった。
流れてくる長文に耳を傾けて意味を考える。設問に対し答えを選んで正否が出る。
ブブー。
耳の中でブザーが鳴って説明を見直す。長文を聞きながら設問に答えるを続けて集中し始めた時、イヤホンが耳から外れた。
『ピンポーン。Question six』
外れたイヤホンから音が流れている。それを聞きたいのか、人の耳から奪ったそれを、自分の耳にはめた。
声もかけずに遠慮なく人の物を奪うその暴挙ぶり。どこの友だちだよと一人突っ込みたくなる。
どこぞの友だち、この国の皇帝陛下であるフォーエンは、遠慮なくイヤホンを奪ったまま。しかし収まりが悪いのか、ポロリと耳からイヤホンを落とした。
「それ、右耳用だから右につけないと、はまりにくいよ。こっちにしな」
左耳にはまっていたイヤホンを渡すと、フォーエンは無言でそれを手に取る。そして、理音の右耳に、持っていたイヤホンを突っ込んで、左のイヤホンを左耳に素直にはめた。
フォーエンは、こういう言葉は素直に聞くのである。
自分が知らないことをすぐに吸収するためかもしれないが、そこが真面目で可愛らしい。
しかし、偉そうなのはそのままである。
いつも通りと理音の横に机を背にして座ると、イヤホンから流れてくる英語を大人しく聞いた。
横にいる黒髪の男を横目で見て、理音は首を傾げそうになった。
何だろうな。不思議なくらいいつも通りで、つい最近まで会うことすらできなかったのが嘘のようだ。
ついでに抱きついたことすらなかったことのようである。
フォーエンは全くもっていつも通り。話せていない頃と同じく言葉を発せず、ただ隣に座って大人しくイヤホンから英語を聞く。
会えて嬉しいとか、そんなこと絶対に言われないとわかっているわけだが、驚くほどいつも通りで、元の世界に帰っていたことすら夢だったのではないかと思わずにいられない。
フォーエンはどこを見ているのか、視線は池に向いたまま、耳に集中していた。
英語聞いて面白い?
自分だけ待っていて、フォーエンはまるで自分に興味がない。
思って、うるさい、と自分で自分を叱る。
自分はそもそも囮の身である。
囮だ、囮。
そう、ここに自分が留められるのは、考えるまでもなく、囮のためだろう。
ユウリンから聞いた話では、理音をフォーエンの相手として王宮の者は認識しているのだから、囮は成功していたのだ。
現状言葉がわかってしまい、ボロが出る可能性は充分に高いのだが、ここに住めるのならば囮は続行だ。
ならば外に出られずにここにい続けなければならないのかと、隣にいる男に問いたいのだが、長文の英語を聞き入っているようである。
ねえ、まだ聞くの?
長い睫毛を頰に落とし、まるで理音の視線に気づいていないようである。
お勉強家フォーエンは、隣にいる理音を忘れたかのようだ。




