91 ー他人事ー
こちらの人々の生きる命の重さは、自分たちの生きる世界と同じように見えて、実は同じではないのだと思うのだ。
戦争に行くのに、意気揚々と門を出て行く。誇らしげなその背を、同じように誇らしげに見送る人々が、自分にとって異様で理解しえないものだった。
昔はそれが当たり前にあったのだろうけれど、それが現実となると、他人事とそうでないことの線引きが、より明確に見えてくる。
ヘキ卿の背を見送った今もまだ、自分は他人事の中にいる。
彼がこれから謀反を止めるために、敵と対峙するとわかっていても。
彼らは当たり前にその場に行かなければならない。
自分はその現実を直視していない。
これから起きることを直視できていない。だから簡単に、次の職場を探そうなどと考えてしまう。
屋敷の倉庫に、どれだけの武器が運ばれているのか、それがわかっているのに。
「前も、気づいたのにな」
王宮で戦った後のまつりを。
多くの兵が犯人の一派を追い詰めるために遠征したことを。
あれだけの人数が動くほど、この世界は緊迫しているのだと。
「平和って、すごいんだな…」
それが当たり前の世界であればいいのに。そんなことを考える余裕のある自分はやはり他人事の世界にいるのだと、そう思うのだ。
その狼煙は、わかりやすい形で現れた。
ヘキ卿と別れてから三日目。
暇だからと無理に料亭の手伝いをさせてもらい、皿洗いをしていた夕方のことだった。
今日は客が少ないとぼやいていた料理人の近くで、作られた料理の皿を丁寧に、けれど急いで運んで行く女中が、窓の外を見て足を止めた。
「ねえ、空が赤い」
それが、煙に混じった炎だと気づくのに、時間はいらない。
「火事?やだ、ちょっと近くない?」
外に出てみれば、辺りがきな臭い。
かなり勢いよく燃えているのか、前にある建物よりもずっと高い場所で、遠目だが赤い炎がちらついて見えた。
「風もあるのに、こっちに来たら大変だわ」
店の中の客たちも気づいて、皆が外に出てくる。風は確かにあって、着物を揺らしていた。
この風で、あの高さまで炎が上がっていれば、木でできた家々には楽に燃え移っていくだろう。
火を知らせる鐘の音が響き、その音に混じるように人の声も聞こえた。
夕暮れの日が沈む頃なのに、煙が流れてきているのか、空にモヤがかかってきている。風の流れで空の色が濁ってきていた。
「風、こっちに流れてくるよ。みんな、水を用意して。急いで!」
誰かの声に、店の者たちは動き出した。客もいるのに、それどころではないと料理長まで外に出てくる。
「リオンさん、あなたは部屋にいてください。こちらに燃え移るとは限らないから」
ヘキ卿の客であるため、そこまでの手伝いはしないでいいと料亭の女将が言ったが、そこで手伝わないわけにはいかない。
こちらの火事がどれだけ危険なのか、それは想像がつく。
まだ離れた場所が燃えているのに、建物に火が燃え移らないよう水の用意をするのならば、きっと流れるように燃え移ってくるのだろう。
「大丈夫です!水、運びます!」
水の入った桶を人から人、壁や屋根に向かってかけていく。
料亭は、隣の家から離れて造られている上に、庭園に囲まれた建物だ。けれど、それでも危険なのだろう。
近所の家々も、井戸の水や川の水、果ては庭園の池の水を使い始めて、家を濡らしていく。
「見て、向こうも火が!」
一人の声に、皆が振り向く。先ほど見えた火の奥に、別の火の手が見える。風下ではあるが、火の粉が舞って遠くに引火したのだろうか。
けれど、別の声が届いた。指差された方向に、また火の手がある。遠くを見れば、小さな黒い塊が空へと上がっていた。
「やだ、どうなってるの」
一人が呟く。他の者たちも、桶を持ったまま立ち竦んだ。
誰もが不安げに空を見上げた。
火の手が上がる。それが、何ヶ所もでだ。
それが何故なのか、考えなくてもわかっている。
「始まった…」
理音の呟きは、別の声でかき消された。
「皇帝が、火をつけさせたって!」
「町を一掃するって!」
「何をバカなことを」
火の手が多くなる頃に、そんな噂が簡単に流れる。口々に伝わる言葉は、風のように流れていくのだ。
ヘキ卿がフォーエンについたと気づけば、敵は別の手に変えたのかもしれない。
食料を貪り、民をないがしろにする皇帝は、とうとう民に火を放ったのだと。
道徳の薄い世界。不安があれば人のせいにしたくなる。
全て皇帝が行なっているのだと、段階に分けて民に植え付けていれば、彼らは簡単に信じ込むのだろう。
「皇帝がそこまでのバカのはずないでしょ。町が燃えたら皇帝だって損するよ。もらえる税金が減るんだから!」
どの口が。フォーエンが聞いたら呆れて殴ってきそうである。それを口にして、理音は大きく怒鳴るように言った。
「食い扶持殺すほど、皇帝はアホじゃないよ!どっかのバカ放火して歩いている!皇帝を陥れるために!放火してる奴を見つけたら、捕まえて!そいつらが謀反を起こす気なんだから!グダグダ話してる暇があったら水を撒いて!こっちだって放火されるかもしれない!」
それが人々の耳に留まったのかはわからない。理音は人から桶を奪うと、料亭の壁に水を投げるように撒いた。
「さっさと動け!」
怒鳴り声が人々を動かした。
急いで元の陣営になって、流れ作業で水を撒く。そうこうやっているうちに、やはり近くで炎が出た。それを誰かが言う前に、違う言葉が飛んでくる。
「放火しているやつがいる!」
捕まえてその口を開かせても、きっと皇帝の命令だと言うだろう。言った人間がそれを信じているかもしれない。
炎と共に人々の声が遠くから聞こえた。奇声のような、叫ぶ声が。
城の兵士が出ているのかもしれない。ハク大輔も出ているだろう。そして、ヘキ卿が指揮をとり、謀反の犯人確保に動いている。
暗闇に近づく空が、黒と赤に染まっていく。それが王宮にも見えて、理音は既に走り出していた。
「フォーエン!」
王宮でも謀反が起きるだろう。それを守るのはフォーエンの私兵で、内大臣の手がかかっているかもしれない。
ナラカが言っていた、外と中の戦い。
城の外で戦いが始まり混乱が増えていくと、城の中でも始まる。フォーエンはそれを読んで、手は打っているだろう。けれど、それで安全だとは限らない。
行って、何もならないとわかっていても、遠くでじっと待つことができなかった。
彼はまた、自分の手に血を染めて戦うのだ。
それを遠くで待つなんて、できるわけがない。




