80 ー潜入ー
「まずは屋敷内の把握か」
何せ、また随分な広さである。
正直、どこからどこまでが土地なのかもわからない。
大尉の屋敷すら広いと驚いていたが、こちらは話が違う。さすが皇族の屋敷だと言うところか。
「えーと、ここ終わったら、庭の掃除に。庭ってあの庭か。あれ全部か。え、終わんのかな、これ」
口を動かしている暇があれば手を動かした方がよさそうだ。一人に対する範囲が広範囲すぎる。
箒で全て掃いて戻って雑巾掛け、その後乾拭き。縦に走ったら、軽く百メートルの雑巾掛けである。それがいくつかの角を経て、いくつかある。
板の目に沿って掃除は基本。けれど多分、雑巾掛けで走り回ったら怒られるパターンだ。
ちらりちらりと周りを見渡し、誰もいないのを確認してからお尻を上げて走り出す。復路の途中ですら息が切れる。
「昔の人って、偉いよな…」
雑巾掛けくらい家でもやるだろうが、この距離はさすがにつらい。平安時代などのお屋敷であれば、これくらいの廊下を雑巾掛けしたのだろうが、理音にとっては初の距離だった。
息切れがする。これを毎日やれと言われたら、相当足腰が強くなりそうだった。
「そんな掃除の仕方する子は、初めて見たなあ」
雑巾掛け走り中に届いた間延びした声に、理音は足を止めた。
止めてから後ろを振り向いたが、人の姿はなかった。勢いよく走っていたので、どこでその声を通り過ぎたのかわからなかった。
廊下とは言え縁側だったため、人は通らないと思っていたのだが違うらしい。
「こっち。こっちだよ」
白い手が、部屋の窓から見えている。
顔は出さないが、着ている着物がちらちら見えた。その模様と色だけで、従者の類ではないとわかる。
嫌な予感がする。
近づくと、一部屋で肘置きにもたれかかっている男がいた。
着ている着物は、やけに細かな模様の入ったものである。けれど、何ともだらしなく着込んでいた。
袂も胸元もはだけ、帯は適当に結ばれたまま、だらりと垂らしている。
少しでも引けば簡単に緩んで奪えるだろう。着崩しすぎて酔っ払いが寝相悪く寝転んだ後のようだ。
けれど、本人は麗しくも柔らかな笑みを理音に向けた。栗色の髪をたゆらせた、線の細い優美な姿の持ち主だ。
フォーエンとは違った、穏やかそうな美男子である。なので、誰なのかすぐに気づいた。
「ヘキ卿で、いらっしゃいますか」
「そうだよ。君は新人かな?見たことのない女の子だねえ」
掃除婦の顔全て覚えているのだろうか。
名を問われて答えると、リオンかー。と笑顔を振りまかれた。
「面白い掃除の仕方してたねえ。どどどーって、何事かと思って起きちゃったよ」
「申し訳ありません。ヘキ卿がいらっしゃったとは気づかず」
起きちゃった。ってやはり寝ていたわけである。
無人の部屋、こちらはゲストルームになるため人はいないはずなのだが、そこでごろごろと眠っていたのだ。この屋敷の主人が。
「いいよ。人が来ないと思ってただけだから。部屋で寝てると怒られるからさあ」
噂に違わぬ、だらけ具合なようだ。
フォーエンと顔は似ているか、整った眉に口元、ゆるりと笑むと見惚れそうになる。だが、働きぶりまでは似ていない。
ナラカのやる気がない。の意味がよくわかった。真昼間からまともに着物を着ず、人気のない場所でごろごろしているわけなのだから。
それに、着物自体も羽織の枚数が少ないだろう。寝間着のような装いだった。
「部屋にいると奥さん来て怖いのよ。だから、こっちで寝てたんだ」
何してるんだろう。の表情を読み取ったか、ヘキ卿はやんわりと笑んで、この部屋にいた理由を教えてくれる。
どうやら恐妻家らしい。他に女が多くいると言うのだから、恐い妻にもなるだろう。その上夫は働きもせずに、ごろごろと昼寝である。妻でなくとも叱りつけたくなる。
「あ、掃除、続けて構わないよ。私のことは気にせず、さっきの掃除の仕方見せてくれる?女の子があんな風に廊下走るの見たことなくて、珍しいから」
軽く嫌味を言われているのかと思うが、本人はにこやかに肘掛にもたれて理音が走るのを待っている。
フォーエンが匙を投げるほどのやる気のなさ。それは間違いないだろう。
これが演技だとしたら。
さすがにそれはわからないが、ここにいるヘキ卿はただのんびりと理音を眺め、空を仰ぎ、再び部屋で寝転がる男だった。
「もう行っちゃうの?」
桶を持ち上げると、ヘキ卿は起き上がって残念そうに顔を傾けた。子犬が耳を垂らしているようだ。
「次の場所へ移動します」
「そう、残念。また会おうね」
会おうって。一介の掃除婦に何を言うのかである。
「奥には黙っておいておくれよ。私がここにいたことは」
奥。奥さんのことだろう。
頷いて移動して離れても、ヘキ卿はだらりと手を伸ばし、窓にもたれて顔を突っ伏したまま、こちらをずっと見ていた。
変な人。と言うか、第一印象がチャラい。その一言だった。
「あれは遊んでるわ」
それで身分があるわけだ。手を出された女子は断れないのではないのだろうか。
質が悪い。女関係ではまさしく。
しかし、あれがフォーエンの後釜を狙うのだろうか。
まだ一日目で何もわからないが、ヘキ卿が皇帝に興味があるとしたら、間違いなく更にぐうたらするためだろう。そうとしか思えない。
「で、一日目はどうだった?」
「どうって言う前に、何で部屋にいるかっつう」
一人部屋をあてがわれて、ラッキーと戻って来たら男がいる。
急いで扉を閉めて窓を開けて、左右を確認した。誰もいないのを確かめて、そっと窓を閉める。
「鍵、閉まってなかったっけ。てか、何で部屋がわかるっつう」
「そんで?」
ナラカは我が物顔でベッドに横になった。靴を脱げと言いたい。
「何もないよ。掃除して掃除掃除。屋敷はどこもぴかぴか、どこ行ってもぴかぴか。でも、掃除掃除。で空いてる部屋がやたらあって、そこでごろりと一眠りしてたヘキ卿に会った。あの人、私が掃除している間ずーっとぼーっとしてただけ。いつもあんな?」
「あとは女のとこじゃね?」
最悪である。
「これと言っては今の所何も。でもあのヘキ卿見たら、この人やる気あんのかなって、思う。あと武器とかそう言った類も、まだ何も見てない」
「探せ。それはあるはずだ。それから、ハク大輔は動いた。やはり、奴は武器を集めている」
「何か、証拠出たの?」
「出た。謀反に使うかはわからん。オウの屋敷に武器を集めている。武器は外の商家、また別の商家に頼んでいたようだ」
「ナミヤさんと一緒にいた男の人、名前わかんないけど、その人もフォーエンのこと敬ってる感じだったのに」
名を聞いていなかった。ハク大輔と思っている男。あの男はフォーエンの敵にはならなそうだったのだが。
「武器を集めている事実だけだ。何かを行うかはわからん」
武器を集めているだけでも、怪しいのは確かだろう。
ナミヤたちが周期的に集まり何かをしようとしているのは、理音が行っていた時から感じていたことだ。




