62 ーここー
「体調が悪いのか?」
「いえ、大丈夫です。すみません。これを」
文を渡して仕事を終えよう。理音は懐から文を出した。男はそれを受け取ったが、理音の体を浮かせると、そのまま長椅子に運んだのだ。
「少し休んでいけ。その顔色では倒れる」
頭を撫でられて休ませられて、一瞬たじろいでしまった。
「あのでも、刀を打ってるんじゃ」
「ああ、ひとまず終わった。気にするな。それより、水を出すから待ってろ」
「あ、お構いなく」
言う間に、男はさっさと行ってしまった。
理音は大きくため息をついた。案外、トラウマになっているのかもしれない。
テレビで見たようなチャンバラが始まって、兵士たちが矢に射抜かれて、それを人と人の隙間から眺めるように見ていた。
地面にたまった血溜まりと、フォーエンの服を染めた朱色の跡は、彼の命を奪うものだと思った。
「怖かったな…」
怖かった。
彼が死んでしまうかと思って。
目の前で失ってしまうのかと思った。
それが怖かっただけだ。刀を見るとそれを思い出す。
「ほら、水だ。何か食うか?」
男は急いでくれたのか、乗せたお盆に水が溢れたまま、そのまま器を渡してくれる。
「大丈夫です。すみません。ありがとうございます」
「落ち着くまでそこにいろ。俺は仕事をするから」
「え、すみません。すぐ帰ります」
男が作業場に戻ろうとするものだから、これはまずいと立ち上がる。しかし男は肩を押して、そこにいて静かにしていろと言ってきた。顔色が相当悪いようなのだ。
少し貧血っぽくなったのかもしれない。白湯を頂いて理音はホッと息をついた。
作業の邪魔をしてまった。せめて器を片付けようと、それを運ぼうと思ったのだが、勝手に入るのも失礼だろう。少し迷って、けれど運ぶだけはと思い、男が来た方へ持っていく。台所がすぐそこにあったので、さっと洗って返しておいた。
やはり人がいないようである。
大きい屋敷なのに。
大尉の文の相手は謎な人ばかりだ。しかし、人が悪いわけではない。
刀を打っている男の邪魔をするわけにはいかないので、念のため扉から覗いてみた。けれどこちらを向く様子がないので、結局礼も言わずそのまま去ることにした。
作業を止めた方が迷惑だと思ったからだ。
刀鍛冶か。もしかしたら、大尉の刀を打っているのかもしれない。
怪しい仕事、おかしな仕事。
けれど、どれも今の所は問題がない。
疑り深いのはいつからだろうか。
いや、間違いなく遊郭に売られたからであるが。
「毒されてるな」
早く元の生活に戻りたい。平和な、あの日に。
小河原と一緒に駅まで帰って、他愛のない話で笑って、照れた顔を見て。
早く、早く。
けれど、そう願う時に限って起きるのだ。
「リオン、いらっしゃい」
「すみま、せん…。文をお持ちしました」
その場の雰囲気に、後ずさりしそうになった。
二度目のナミヤの屋敷に入って、今回は気にせず門の中に入ったわけだが。入ってまずかったのではないかと後悔した。
男たちが集まっている。しかも真剣な話をしているようだった。
屋敷の中で血気盛んに叫んでいるな。とは思ったのだ。声をかけてもそれに夢中なのか、誰かが出てくることはなく、ならば仕方ないと門の中へと入った。
屋敷内にも人はおらず、入り込んだ中庭で多くの男たちがナミヤを前に大声を上げて意志を固めていたようなのだ。
そこに入り込んでしまった。
理音に気づいた男が声を上げると、一気に視線がこちらへ向いた。
何かたぎらせた勢いをそのままぶつけられたようで、咄嗟に拳を握った。そしてシャーペンの位置を脳内で確認した。
「声を、かけたんですけど」
「構わないよ」
ナミヤは爽やかに笑顔で返してくれたが、後ろの男たちの表情はそんな生易しい面構えではない。
あ、これはさっさと帰ろう。
独特の雰囲気を感じて、ここは速やかに戻ろうとすぐに踵を返す。ナミヤはそれを察してだろうか、男たちをそのままにして理音の背を追ってきた。
「リオン、悪かったね。気にしないでくれる」
「いえ、お邪魔しまして。失礼します」
ほとんど逃げるように屋敷を飛び出した。門をくぐり出て、小走りで走り去る。
何を叫んでいたか、思い出せそうにない。
けれど、彼らには不穏な雰囲気があった。ナミヤの柔らかい笑顔で消そうとしても、その血気を消すことはできない。
「何だろ、あれ」
まるで、どこかに討ち入るような。
そのための意思確認のように、集会でも行なっていたような。
気になるところだが、それを問うわけにはいかない。さっさと退散してよかったのだろう。
足早に角を曲がろうとすると、理音は前からやって来た男とすれ違った。
「あれ、お前」
「え?」
小走りで男の横を過ぎた瞬間。掴まれた腕に理音は仰け反った。
「え?」
どこかで見た顔だ。
知っている顔で、けれどその顔がどこで会った顔なのかわかっていても、何が何だかわからなかった。
「何でこんなとこいるんだ。皇帝の女をやってたのに」
皇帝の女。
そんな語弊に気づいたのは後のことだが、この男は知っている顔で、男が何を言っているかなんて、その時は全く耳に入らなかった。
そんなことより、頭が混乱している。
エシカルで誘拐された時に会った、短髪の男。
「お前、こんなところで何をしている?今出てきた家、オウの屋敷だろう。皇帝の命令で草の真似か?」
草?引っかかる言葉である、それに、
「何てな。話せないお前に聞いても。だがお前何でわざわざ男の格好?何かの命令でも…と、またな、娘」
「え、ま、待って!」
男は来た方向へいきなり走り出した。理音が追おうとして足を踏み出すと、後ろ手を掴まれてそれを阻まれる。
「リオン、あの男は何!」
掴んでいたのはナミヤだ。
何で、と思う前に、短髪の男を目線で追った。けれど既にその姿はなく、どこに行ったかもわからなくなっていた。
「おいで、リオン。あの男はダメだ」
「え?あの」
ナミヤは見たことのない厳しい顔をしている。形相というほどではないにしても、柔らかな笑顔はどこにもなく、ひどく重苦しい雰囲気をまとうのだ。
それ自体も混乱することなのだが、それよりもずっと混乱することが起きている。
あの短髪の男がここにいる。
この世界に、この時代に、この時間に。
それの意味だ。
ここにいた時間は二ヶ月ちょっと、それが元の世界で約三時間。
だからこそ時間の経過を考えれば、この世界は自分の時間よりもずっと早く進んでいるはずだった。その計算で考えていた。
けれど、あの短髪の男はここにいるのである。
つまり、
「あれ、」
「リオン?どうしたの?あの男に何かされた!?」
頰につたうのが何なのかわかっている。けれど、それを止めることができない。
この世界に来たのならば望んだことだ。
会いたい。
ただ、それだけ。




