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31 ー短髪の男ー

 手を取られたまま、理音は男と迷路の道を走り続けた。


 もう息すらできない。


 足も前に動かなくなくなり、そのまま引きずられそうだと思い始めた頃、男はやっと走るのをやめた。


 倒れこみそうになる理音の手を離すと、後ろから追っ手が来ていないか、男は注意深く辺りを確認した。


 助けられた、らしい。よくわからない。

 なぜ助けられたのだろう。


 フォーエンの部下か?いや、そんな服装はしていない。どうみてもゴロツキで、むしろこの男の方が怪しかった。


「ニーアルエ」

 息切れしながら一応礼は言っておく。

 けれど、長居は無用だ。さっさと町を出てここから去りたい。


 すると男は、いきなり大笑いし始めたのだ。

 こちらを見て、まるで面白い物でも見たように笑ってくる。


 何か説明しているか、笑った理由を理音に言っているのか、そうしてもう一度、苦しそうに大笑いした。

 よくわからないが、彼の何かに触れて助けてくれたらしい。

 笑える何かをしたかと言うと、大暴れしたことであろうが、その笑いに賛同している暇はなかった。


「ごめん。私、あなたが何言ってるかわからないから。もう、行くわ」

 理音は帯を取ると、着物を脱ぎ捨てた。

 この着物は目立ちすぎる。

 盗んだ髪紐を使って髪をしっかりと縛ると、かんざしはまた胸元に入れ直した。


 これはまだ使えるものだ。


 先へ進もうとしたら、笑い続けていた男が肩を掴んできた。

 何かを言っているが、呪文は聞き取れない。首を振って手を払いのけたが、しつこく肩を掴んできた。

 だから、その手をしっかりと合わせたのだ。


 男が、お?と言う顔する。

 その瞬間、理音は男の手首を回すと、ぐるりと回転させて男を跪けた。


「助けてくれて悪いけど、あんたの相手してる暇ないのよ」

 男は痛みに呻いた。

 ぎりりと締めた手首は逆手になって、動くほど痛みが増す。


 高校の、最初のイベントで習った護身術だ。

 最近物騒だからと、婦警さんが優しく教えてくれた。


 これで相手を気絶させられるわけではないが、理音はその状態で男の刀を抜き取った。

 男は焦って両手をあげる。


「ニーアルエ」

 礼を言って、これで終わりだと示した。

 これ以上近づくなと、脅しの意味の礼だ。


 しかし、男は小さく笑った。

 それに、なぜ、寒気を感じたかはわからない。

 けれど、長くこの男とはいない方がいいと感じた。

 助けてもらって何だが、男は人を斬っている。


 後ずさって距離をあけた。この男は得体が知れない。


 男はそれを感じとってか、もう一度笑って言った。


「エシカル?」


「え?」

「…エシカル。…?」


 呪文の中にエシカルが入る。

 そうして、ついて来いと言うように、方向を変えた。

 少し走って、理音に手招きする。


 この男は、あまり安心できない。ついて行くのは危険な感じがする。

 けれど、男たちの声がまた聞こえてきて、こちらに近づいているような気がした。


 前にいる男は、早くしろと招いてくる。

 もう、迷ってはいられなかった。

 抜き取った刀を手にしたまま、男の後を走ってついて行く。

 二日連続で男に騙されるとか、考えたくないが、他に方法がない。


 傷んだ足を進めて、小道を走って、男について行く。

 男は民家の隙間を進み、それから人の家の庭を通り抜けて、垣根を登り越えた。

 近くにあった小屋の中に、馬が数頭繋がれていた。男はその馬の手綱に手をかけて慣れた風に馬の背に飛び乗った。


 乗れと手を伸ばされて一瞬ためらったが、刀を持っている手を先に出してそれを返した。

 男は不思議そうな顔をする。刀を返されるとは思わなかったらしい。


 理音は自分の力で馬の背に飛び乗ると、男は着物を引いて跨らせてくれた。

 捕まっていろ、とでも言ったか、男は馬の腹を蹴り上げて、垣根を飛んだ。


「う、わ。わっ!」

 飛び降りた衝撃で、お尻が浮いた。


 馬車より弾む体は、男にしっかりしがみついていなければ振り落とされそうになった。

 男は遠慮なしにスピードをあげる。

 道に人がいるのに、もう一度足で蹴り上げ、馬を鼓舞させると、一気に道を走り抜けた。


 こんな刺激的な一日なんて、もう十分だと思う。

 日常が、まるで夢の彼方にでもいってしまったようだ。


 それから、自分の凶暴性も認識した。

 人は窮地に落ちると、何をしでかすかわからない。

 自分でも驚くほどの暴れっぷりを披露した。

 そのせいでか、馬に乗っている間にひどく疲れて果て、男が足を止めた時には、もう気を失う寸前だった。


 眠りについたのは、そのすぐ後だった。


 森の中に入り込み、男はここで過ごすと腰を下ろした。

 もうその時には虚ろで、男に担がれながら森に入ったのを覚えている。


 呪文の一つ二つが耳に入った後、音は消えた。


 長い闇と、深いしじまに飛び込むように、意識を失った。




「イーデンタ。…」


 それはなんの言葉だったか、思い出そうとして理音は飛び起きた。


 空の白んだ、早朝である。


 森の静けさの中に動物の鳴き声が聞こえて、理音は揺れる頭を抑えて、起こしてくれた男を見やった。


 短髪の、謎の男。


「イーデンタ」

 それは、おはようだ。


 こちらの朝はとても早い。きっと四時過ぎかそこらだろう。

 町で早朝に鐘が鳴るのが、四時頃だった。


 町から離れたこの場所でその鐘が聞こえるわけがないので、きっとこの男の起きる時間は決まっているのだろう。


「アーロ、リンディヴァ、エオタ、アン、エシカル?」

 男は呪文を唱えた。


 ゆっくり言えば呪文の意味がわかると思って話しているようだったが、わかる言葉がエシカルだけと言う悲しい話だ。

 理音は、わからないと首を振るしかない。

 男は苦笑いをして、千切った肉を渡してきた。

 前に食べた、鳥のササミのようなあれだ。


 苦い思い出の一つが蘇りそうになる。


「ニーアルエ」

 それを食んで、柔らかくなるまで噛み砕く。

 喉が渇いてむせそうになったが、水は持っていた。

 理音は帯を外し始めると、男が、え?と口を開けた。


「脱ぐわけじゃないから」

 言ってもわかるまい。

 帯に絡めておいた竹筒を出して、中の水を口に含む。


 水を飲むだけで安堵できるのは何だろうか。生きている実感がするからだろうか。

 男は小さく吹き出した。納得したか頷いている。

 水を取り出したのだとわかったのだろう。

 竹筒を指差し何か言ってきたが、男は理解できていないことはわかっていると、肩をばしばし叩いて笑った。

 豪快な笑いだ。


 妙な男である。

 嫌な気配は消えて、ガラの悪い普通の若者の顔になった。

 道で会った時は、何て胡散臭い信用のならない、言い知れぬ雰囲気を持っている男なのだと思ったのだが。


 いきなり人を斬ったので、警戒しすぎただろうか。

 いや、人を斬っている時点で、得体が知れないのは変わらないのだが。


 男はまるで面白がるように、理音を見やった。

 笑った顔は本心からだろうが、どこか品定めされているみたいに思えてくる。

 食べ終わると男は立ち上がった。もう行くらしい。

 本当に、エシカルまで連れて行ってくれるのだろうか。問うても本当の答えはわからない。


 エシカル?と指差せば、同じ方向を指差した。

 今はやはり、この男と一緒に行くしかないか。

 また道に人はおらず、歩む道は一本道である。

 腕を引かれて今度は男の前に乗ると、男は颯爽と馬を走らせた。


 あ、前の方が揺れない。

 後ろだと、ぽんぽん飛び跳ねたのに。


 男が後ろから抑えてくれているからかもしれない。昨日より居心地は悪いが、乗り心地はいい。

 馬を使うと、森の中を歩いていたのが何だったのかと思うほど、早く進んだ。

 朝焼けに染まる空は赤く滲み、月を淡く映し出す。


 空だけが、ひどく美しい。


 ここに来てよかったと思えるのは、あの空だけだな。


 それから、

 あの不機嫌な王様は、まだエシカルにいるのかどうか。


 今はただ、それを信じて、進むしかなかった。

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