30 ー行動ー
ここで、警戒心は最高にしておかなければならないだろう。
警戒を怠ったが最後、想像に難くない。
トイレには誰もおらず、少しだけその警戒心を緩める。
先ほど手に入れた竹筒の中身は、やはり香辛料のようだった。それを全て捨てようと思ったが、一応取っておく。
しわくちゃの葉っぱを取り出して、そこに香辛料を入れた。
それから竹筒の中を、手洗いの水で綺麗に洗う。
水を入れて数回振り、水が出てこないのを確認した。これならば使えるだろう。
一度入れた水を取り出して、綺麗な水を入れ直す。
一日の摂取量にも程遠いほど小さな入れ物だが、少しでも水があると思えば安心できた。
それを帯の中に入れて結んだ。背中に位置しているが、羽織を羽織れば気づかれない。
とりあえず水の確保ができた。
あとは逃げ道である。
今いる一階は、通ってきた道がほとんど大広間に接していた。
大きな旅館の宴会場のように、廊下と部屋が仕切りで分けられるようになっているのだ。
その前の廊下を過ぎても、番台のような受付と待合室のような部屋が一つあるだけで、出入り口は一つだけのようだった。
客が入る入り口だろう。あそこを抜けるのはまず無理だった。
そうすれば二階。
自分が入ってきた道を、戻るのが得策だろうか。
二階は店に入るまでに建物の廊下が長く続く。あれを走って逃げて出られるだろうか。
「何とも言えないな…」
結局、服は着直さないと、やはり逃げきれないだろう。
今のように中に着ておいて、脱ぐのが妥当だろうか。逃げる途中に脱げられればだが。
逃げられる?
ふと、自分の心の中で反復した。
逃げねばならない。
こんな場所に、いつまでもいる気は無い。
いつまでもここにいて、何になる。
ならば逃げる手段を考えて、死ぬ物狂いで逃げた方がましであろう。
扉を勢いよく開けて男を仰け反らせると、無遠慮にその前をさっさと進んだ。
個別になるのは避けたい。男が舌打ちをしたので、敢えてやったことは正しかったはずだ。
そうして広間に戻って、できるだけ客から顔の見られない場所に座った。
座ったが、どの角度からも見られないと言うのは無理があった。
部屋は広く、ある程度の角度ならば、どうしても誰かしらに見られてしまうのだから。
せめて近くで見られないように、後ろの方で大人しくしているしかない。
しかし、まだ昼をすぎたところである。真昼間からこのような場所に現れる男たちも相当である。
道行く人間は確かに少ないのだが、それでも人通りはあった。ただの物珍しさからの興味だけか、見ていくだけで通り過ぎるばかりなのだが。
それはありがたいのだが、ただここでじっとしているだけと言うのもかなり暇で、疲労がたまる。ある種の緊張感もあって、握っていたかんざしが汗で濡れた。
使う時に汗で滑らしてもな。
胸元に挟めておいて、落ちないだろうか。
しっかりとつめて、落ちないように確認する。そしてすぐに取り出せるように、少しだけ飾りを出した。
盗んだとか言われるだろうか。帯に挿してもいいかもしれない。
背中か、脇か、それはどこでもいい。取りやすいところで、いくつか挿しておくのがいいだろう。
夕方近くになると女を買う男が出てくるのだと、一人、二人、呼ばれた女が二階に消えた。
ああいうのは時間制だろう。その間は自由になれるはずだ。男を何とかすればだが。
一人の女の子が男に指差された。先ほど後ろの方で、人の影に隠れていた女の子だ。
嫌がる彼女を男が連れていく。
泣き叫んで、嫌がって、引きずられるように連れられていくのだ。
ああ、あれは嫌だな。
助けに誰もいけない、ただ見ぬふりをする。
誰もが同じ目に合うのだと、よそを向く。
嘲笑う者も、嫌なものを見るかのように目を背ける者も、どちらにしても同じだ。
どうせ助けない。
女の子は助けを乞うているだろう。
しかし、きっと誰も耳を傾けない。
聞かないふりをして、その姿すら見ない者もいた。
自分も同じだ。
助けられない。
助けようにも、どうすればいいのかわからない。
どうやって助けられるか、わからない。
だから、皆と同じく顔を背けるしかなかった。
ないはずだ。
明日は我が身。自分だってそのうちああなる。
「正義感なんて、ないからな…」
そう思っていたのに、気づいたら走っていた。
女の子を担いでいた男の背から、思いっきり体重をかけて突き飛ばす。
理音は勢いよく転び、女の子ももんどり打って倒れたが、男は顔から地面にぶつかった。
急いで起き上がって、ついで背中に飛び込んで、男の背を踏みつけると、倒れていた女の子を引っ張った。
後ろから男たちがやってくる。
それに棚をなぎ倒して遮ると、向かってきた男を側にあった花瓶でぶっ叩いた。
勢いよく割れた花瓶は細かく砕かれて散乱し、足元に転がる。
こちらは靴で、これぐらい踏んでも何もない。ただ、女の子が悲鳴をあげた。
あんたが逃げてどうする。
弱々しい女の子。
怯えて泣いて、うずくまってしまう。
「動きなさいよ!ここにいたくないんでしょ!」
花瓶なんていくつもあるのだから、それを投げるくらい気概を見せてみればいい。こんな理不尽なところにいるなんて、不快でしかない。
理音を殴った女が、叫んで男たちに指示をしている。
狙うなら女の方だった。
投げた花瓶は勢いよく飛んで、女の顔に直撃した。
倒れた女を助けることなく、男たちは向かって来る。葉っぱに包んであった香辛料をぶちまけて目潰しにすると、その隙を見逃すかと、一番大きな花瓶を投げつけた。
最後に投げた花瓶は、男を越えて女たちがいる柵へと飛んだ。そこで花瓶が弾けるように割れると、道行く男たちも何事かと集まってきた。
手元に花瓶はもうなかった。女たちがくつろいでいた机を投げようと手にすると、突然肩に衝撃が走って、地面に滑り込んだ。
誰かから蹴られたようだった。
髪を引っ張られ無理に立たされる。だから立ち上がって、頭突きをかました。
男の鼻がひしゃげて血まみれになったが、こちらだって激痛だ。
痛みに星が飛びそうになって、悶えそうになる。
別の男が手を伸ばしてきた。それを机で叩きつけて、一気に走った。
女の子を助けるはずだったのに。
自分の羽織を、前から来る男たちに投げつけて、そのまま体当たりすると、転げた男たちを跨いで走り抜けた。
失敗した。
計画的に逃げるつもりだったのに。しかも、あの子を助けることもできていない。
横道に逸れて走り抜けて、息も絶え絶えで走り続けた。
心臓が止まりそうになる。
一本ダッシュなんて、文化部である自分が得意なわけないのに。
とにかくダッシュして、迷路の町を走り続けた。
「は、はあ、は、は」
息もできない。喉が渇いて息継ぎがしにくい。
水を飲んでる暇はなかった。追っ手の声が聞こえてくる。
どこから来るか、わからない。
どこに逃げていいかもわからなかった。
けれど、逃げなければならないのだ。
走った先、男が前から来て、それが追っ手とわかれば踵を返した。
けれど、追って来るのは一人である。だから側にあった箒を投げつけてやる。
ついでにすだれもだ。
刑事物の犯人になった気分だ。
後ろを見て、走ってどこへ行くのか迷って、迷っている間に追跡者たちに挟まれてしまう。
前から来る一人の男が、刀を持っていた。
髪の短い、前にぶつかったガラの悪い男だ。
だから逆へ走った。
今度はそちらから別の男が走ってくる。
案の定挟まれて、理音はある程度の決心をした。
胸元にあった、かんざしを握りしめたのだ。
後ろからやってきたのは数人の男たちで、武器は持っていなそうだった。
刀を持つ男か、数人の男たちを相手にするか、二択になった。
どちらを選ぶか、武器を持っていない方だろう。
数人の男たちの一人が、何か言った。
だから、呪文はわからないってば!
そう叫びたくなる。
代わりに男が怒鳴り、理音の腕を掴んできた。
その瞬間、その手にかんざしを、力の限り突き刺した。
男の雄叫びと共に腕が離れて、理音は頭のかんざしを更に手にした。
別の男の目を狙って突き刺してやろうと振りかざす瞬間、通ったのは銀の煌めきだった。
耳につんざく、男の悲鳴。
肉を切る鈍い音と、血の溢れる音が耳に届いて、悲鳴をあげそうになった。
刀を持った短髪の男が、追ってきた男たちを切り捨てたのだ。
一人は転がり、一人は尻餅をついた。
理音に刺された男は、腕を押さえたまま逃げるように去って行く。
短髪の男が何か言った。
よくわからない。それがわかったか、男が理音の腕を引いた。
逃げるのだ。
また、走って、足がもつれるほど走って、もう景色も見られないほど、視界が霞むほど走って、短髪の男の手に引かれながら走り続けた。




