29 ー納得ー
親と初めて海外旅行に行った時、自分も初の海外で、親も初の海外という、海外初心者家族でツアーに参加した。
お金は鞄に入れず、ベルトに固定された隠し財布に入れる。
なんてことを本気でやっていた父が、買い物するたびにそのベルト付き財布を開けていて、それ盗まれないの?と心配になったものだが、結局盗まれた。
盗んできたのが、声をかけてきた日本語上手の人だったもので、父はかなりショックを受けたわけだが。
自由行動中に迷子になった我が家族は、地図を片手にキョロキョロと、辺りを見回していた。
そこに気の良さそうなお兄さんが日本語で声をかけてくれて、道を教えてくれる。
と言う、素晴らしくありがたい話だったのだが、体がつくほど密着して地図の見方を教えてくれている間に、ベルトが切られて財布ごと持っていかれた、間抜けな話である。
父の財布だけで、大蔵省である母の財布は無事だったのがよかったが、父のお小遣いはその日に費えた。
カードは別にしていたので、小銭や数枚の札が奪われた程度だったのが幸いだった。
だが、次から話しかけてくる親切風な外国人には気をつけよう。と家族一致の見解になった。
本当に親切心のある方に対して、大層失礼な話なのだが、警戒は怠らないようにしようと決めた。
決めたわけだ。
そんなことを思い出して、馬鹿だなあ。と思う。
理音は出入り口から外に出られなくなった状況に、後悔しか生まれなかった。
あの部屋から出て連れられた場所に、ああ、これはダメだわ。心から思った。
むせ返る香水の匂い、遠目からもわかる盛りすぎの化粧、はしたないと言われ続けた、露出の高い服。足に限り、だが。
女性たちが多く行き違う廊下に、嫌な予感しかしなかった。
そこには、いかにもこの場所の大ボス。と言う出で立ちの女性がいた。
年老いていながら、その迫力と堂々とした割腹のよい姿。濃い口紅とキセルらしきタバコのようなものから煙を吐いて、ああ、お前が新しい子かい。とでも言うように、ニヤリと笑った。
ああ、どうしようかな。
怯えるよりも早く周りを見回して、武器を装備しているであろう男たちが部屋を警備していることに、大きく舌打ちしそうになった。
昨日会った、優しげに笑ってくれた女性は人の肩をドンと押し、その女主人の前に理音を押しやる。
長い爪が魔女のようで、その指で顔を掴まれた。
馬車を降りた時に痛めた場所を掴まれて、殴りそうになったが、それは我慢した。
ここで暴れても逃げられない。
その指から放られたら、別の女に次の部屋に連れていかれて、服やらアクセサリーやらをつけるように、多分言われた。
言われても着られないとは相手もわかるまい。理音は着方がわからない。
だから、もう一度どうしようかと考えた。
この場所から逃げる方法だ。
わかりやすく言えば、昨日のあの男に売られたのだろう。
今すぐ、あの時の涙を返して欲しい。
多分、ここは遊郭だ。
艶やかな服を着た女性たちは、肩やら足やらを出した着物を着ている。
フォーエンに怒られるやつだ。
何枚か重ねて着ているが、そこを出すのは標準らしい。言えばあの程度で淫らとか、ないわ。であるが、まあここでは話が違う。
彼女たちは新人である理音を見るたび、憐れむような嘲笑するような、顔をしてきた。
同じ境遇を憐れんでいるのか、同じ境遇を笑っているのか、そのどちらもかもしれない。
人をかどわかす方法で女を集めているのならば、皆似たような境遇だろう。
とりあえず、自分にああいう着物は似合わなそうだ。
そしてあれを着れば、逃げるのが難しい。逃げても目立つことしかない。
その着物は派手な花柄で、情緒も何もない慇懃で下卑たものばかりなのだ。
お水な仕事で、ただ接客なのか、それとも売る方か。
まあ後者であろうが。
その場合、自分が客に噛み付いたり、ぶん殴ったりした場合、どうなるのだろう。などと真剣に考えてみる。
殴るなら時計がある。時計を握って殴るくらいはできる。
やり返される可能性もあるわけだが。
騙して連れてきて、それで客を取るって、大体どうやってできるんだろう。純粋に疑問だ。
暴れるような子に、実際客がつくのだろうか。
そして、そのまま逃げられないだろうか。とりあえず考えてみる。
まあ、逃げるにしても逃げるルートを探さなければなのだが。
着替える服を選びながらそんなことを考えていると、さっさと着ろと女に怒鳴られて、どつかれて、その勢いで地面にへたり込んだ。
手のひらも膝も痛いのに、そこをまたうって痛みに悶える。
呪文の怒号。
昨日とは全く感じの違う女性だ。服装はもちろんケバい服装で、歩くのは遅そうだった。足は出ているけれど、やはり服が重そうだ。
「着方がわかんないんだけど」
一応言ってみる。
ここで反論して逃げるのは難しい。今は大人しくして、状況を把握した方が得策だ。
だから、反抗するのは控えた。
やる時はやると決めてはいるのだが。
着物を持ち上げて、見よう見まねで着てみる。
Tシャツ短パンは必須だ。着ていた着物を中に着て、結局上に羽織っていく。靴もそのままでいけるだろう。歩く時に隠せば何とかなる。頭の装飾もよくわからないので、とりあえず、そこにあったかんざしで髪をまとめた。
化粧をしろと怒鳴られるが、口紅らしきものだけで間に合わせる。
女は唾を吐きそうな顔で人を小突いてきた。扇で頭の上を力強く叩きつける。
「いってっ!」
化粧の仕方が足りないと白粉を塗りつけられて、アイシャドウをたっぷりつけられた。
やられている間に女を殴りたくなるのを抑えてだ。
基本、やられたらやり返す性分である。黙ってはいるが、怒りに震えていた。
帯の結びが悪いと結び直されて、文句を言われながら女の後頭部を見ていて、このまま頭どつこうかなと思った。
我慢したが、多分あとでやると思う。
かんざしも更に追加された。どれでも使って良いらしい。なので、一本かなり重厚なものをいただいておく。
飾るためにいただいたのではない。
ただの武器である。
手を刺すぐらいできる、固めのものだ。
時計とかんざしは武器になる。あと何か必要な物はないかと物色する。
自分はやはり冷静だった。
自身でも驚くほどに。
ここに来てまだ一ヶ月も経っていないのに、事件がありすぎである。
そのせいか、殺されそうになったことに比べれば、ずっとこの状況の方が冷静になれた。
まず最初に、殺人から入ったのがそもそもの。と考える。
一週間目で衝撃的な事件であったわけだし?
あれで冷静さが備わった訳ではないのだが、まだ死ぬよりましな状況なのは確かなのだ。
置いてあった長めの髪紐をするりととって、それを手首にいくつか巻いた。
あと必要になりそうな物は何だろう。水が手に入れば最高なのだが。
そうこうしているうちに再び女に小突かれて、下の階に連れられた。
見世物小屋である。
男たちが道の前を通って、女を品定めしていた。
柵に囲われた一室。その一室に、女は大勢いる。
慣れて前に躍り出ながら男を誘惑する者、後ろに下がり、お呼びがかからないようにとびくびく体を小さくしている者。
慣れた者と慣れていない者の、差がわかりやすかった。
その辺に座れと指示され座ると、女がいなくなったので慎重に辺りを見回した。
タバコを吸っている者も、お茶を飲んでいる者もいる。もしかしたら酒かもしれないが、入れ物があるのがよかった。
すくっと立ち上がってそちらへ近づく。入れ物の中は茶色く、酒かどうかわからなかったが、遠慮せず手に取った。
近くの女は文句を言っただろうが、理音は気にしない。匂いを嗅げば酒のような香りがした。これはいらない。
入れ物は他にないか、とっくりのようなものが置いてある場所があるので、そちらへ動いた。
他の女たちが何か言うが、わからないのでやはり気にしない。
言葉が違うと楽なこともある。
言われたことを気にしないで済むからだ。
これで何だのと言われているのが耳に入れば、そちらに意識が持っていかれてしまうだろう。
理音にとってそれは都合が悪く、今のこの言葉がわからない状況は、自分のやることに集中できるという利点を伴わせていた。
言葉がわからなければただのノイズだ。無視すればいい。
机の上に竹筒のような、蓋のできるものを見つけて、それを手にした。香辛料であろうか。蓋と紐があるのがまたいい。
理音は気にせず、それを裾に入れた。
「カバン欲しいな」
帯に巻いて、それを腰につけるかしかないか。風呂敷風にしてもいい。
あとで部屋からショールを奪ってこようか。
トイレと言って、すぐにその場を離れた。説明するにもジェスチャーだが、笑いながら男がついてきた。逃げないようにするためだろう。それはそれでいい。
「あっち?こっち?」
話せない。それを知れば男は下卑た顔になった。
そういう顔は肌で感じる。ろくなことを考えていないのは、わかりやすいものだ。
制服を着て電車に乗っていると、よくあることである。
友人が痴漢に会いやすいタイプだったので、マジックを持ち歩いたものだ。
友人に何かあれば手に書いてやるつもりだった。自分がそういう目にあったことはないが、そういう目で見られる気分の悪さは感じ取っていた。
不意をつくならば、かんざしが一番いい。
常に持っていた方がいいかもな。できれば数本。
思いっきり刺せば壊れてしまうかもしれないし、刺した後、取れなくなる可能性もある。
自分しか自分を守れないとしたら、それは自己防衛だ。なりふりなどかまってはいられない。
トイレの場所を案内されて、理音は後ろを向いた。ついてきたのは男だけだった。けれど、そのまま男を見たまま後ずさる。ついですぐに扉を閉めた。鍵はある。それをすぐにかける。とりあえずは安心だろう。
トイレに連れていかれた後、大惨事を想定しただけだ。
念のためである。
ここにいる人間は信用しない。危険があった。
男は特にだ。




