171 ー動機ー
エンシは本当に心から慈善を行う医師だったのだろう。
他国に来て皇帝付きの医師となり、その皇帝死後別の皇帝によって医師としての技術を奪われた。両手首を切られ、医者としても人としても生活の難しい日々を送ることになってしまった。
けれどこの州に来て、この国を恨むことなく、その知識を他人に与えたのだろう。
エンシを手伝った者は木札に薬草を描いた。番号で整理されたその木札は対の木札があったはずだ。それにも同じ番号が記され、植物の名と薬草の製造方法が記されていただろう。
木札は二枚で用を為す。札を描いたのは当時十五、六の者。医師としては未熟で、知識も技術もない者だ。
その人にエンシは細かく効能を教えた。植物の種類や製造方法まで。多量な情報を与えて学ばせるには教科書が必要だった。
「単語帳みたいなものだな」
木札が分かれていることに問題などなかった。これはその若い医師を学ばせるためのものだったのだから。
この量を南の国に持ってくことは難しい。全て記憶したか、もっと小さな文字で写したか、お金をかけて紙に書いたか、とにかく別の物を持っていった。大体、エンシが残した薬草辞典だ。この州から奪う真似はしないだろう。
問題はその人がこの州を発った後だ。
木札を消した人間がいる。その人がエンシを殺したかもしれない。
慈愛を持つエンシを、恨む人間。
医者を恨む。死んだ患者の縁者が一番濃厚だろう。
「全て書き写されるのですか?」
「はい。字の勉強にもなるので」
理音はレイシュンの許しを得て、ジャカの元で木札を書き写していた。番号を書いて文字だけを写す。絵は後にする。正直そこまで集中力がない。文字だけなら何とか我慢して書けるが、絵が上手いとは言えない自分が、植物図鑑に載っている絵の細かさで描き写す、しかも木札に、するのは中々骨が折れるのだ。
事件が終わったらレイシュンがどう出るのかわからないので、この行動自体意味がなくなるのかもしれないが、そこは最悪の事態だ。考えまい。
あれだけ皇帝陛下を強調したのだから、レイシュンも下手はうてないはずだ。揉み消されたらどうにもならないが、そこも考えない。他に手がないのだから。
どちらにしてももう待てない。レイシュンはハク大輔に連絡をとってくれたのか、とる気がないのか、聞いてものらりくらりとかわすばかり。これ以上待っていたら雪が積もって、ここに閉じ込められる。星が流れる日がいつなのか分からなくなった今、自分はフォーエンの元に戻るしかない。
もし本当にコウユウが自分を殺そうとしたとしても、ここにいるのも戻るのも自分の身の危険は同じような気がする。レイシュンも食えない男だからだ。毒の使い方がわかればぽいっと捨てられる可能性がある。
いや、捨てられる方がまし。
ならばフォーエンの側の方がいい。彼が自分を不要としない限り、相談はできる。
自分はいい加減、王都に帰りたいのだ。
「書き写しているのではないのですか?」
もらった木札へ書き写している理音に、ジャカはちらりと見遣って首を傾げた。横目で見て文字数が違うことに気付いたようだ。
「植物の名前も入れているんです」
わかるものは名前も記入している。何ならまとめて書籍にしたいところだ。フォーエンなら許してくれそうである。薬の製法も自分がわかるところだけ記したい。
基本毒がない植物であれば煎じるとか抽出するとか、ハーブの使用方法になるので、理音でも覚えているものはある。
何なら花言葉も追加してやろうかと算段する。色にもよるが、わかるものはわかる。
家には母親が愛する植物たちの本が本棚に並んでいる。押し花をする時に花言葉を考えながら飾ることもあるので、呟きはよく耳にした。自分の使い勝手の悪い細かい知識は、祖父と母親によるものが多い。それが今役に立っているわけだが。
「そう言えば、花言葉って貴族の方は良く知っているものなんですかね」
「花言葉ですか?どうでしょう。私が知っている貴族で花言葉を嗜みとしている方は知りませんけれど。南の国から来る商人は知っているかもしれません」
南の国には植物が多様にあるため、薬草だけでなく香料も種類がある。香料は貴族の女性に好まれるので、花言葉も合わせて売り込むのが主流らしい。そのため南の国から来る商人ならばあり得るのだ。
平安時代の貴族のように香を覚えるのと同じく花言葉でも覚えるのかと思ったが、違うようだ。フォーエンも植物に詳しくなかったので、レイシュンが珍しいのだろう。よくクロッカスの花言葉など知っていたものだ。
チャラ男レイシュンなら女性に香を送るのに覚えていそうなので、商人に教えてもらったのかもしれない。
「王都では花言葉は知られているのですか?」
「どうですかねえ。私の知っている人は花の種類すら知らないっぽいので、人によると思いますけど」
庭で花を食べたら殴られたことを思い出して、頭を撫でる。フォーエンが花の種類を知っているだろうか。聞いたこともない。飾りなどに興味のない人なので、花にも興味なさそうだ。
そうしてふと考える。レイシュンが王都を強調したのはなぜだったのか。リンネとジャカに王都を強調した理由はよくわかっていない。
「王都に興味あります?薬草とかの知識は王都薄そうですから、リンネさんもジャカさんもすぐ働けそうですけど」
王都の薬草関係製法具合を見てみたいものだ。医者とかどの程度のレベルなのだろう。祈祷大好き平安時代である。本当にリンネとジャカは重宝されそうだ。
ジャカは理音の言葉に遠慮げに笑った。自分はリンネの元で人を治療できる薬草を育てられる手伝いができるだけで良いのだと。
謙虚だ。王都に何か思うことはなさそうである。レイシュンはわざと王都を強調したわけではなかったのかもしれない。
「それに、妹が病がちなので、妹のためにも薬草作りを続けていきたいんです」
ジャカは穏やかにそう言って、瞼を頰に下ろした。健気な言葉に胃の辺りがずしりと重くなる。
およそ人を毒で殺すとは思えない。考え違いであればいいのだがと思わずにいられない。妹についても隠す気はないのだと、幾らか質問しても気にせず答えてきた。貴族の屋敷に奉公に行っていること、行き倒れそうになるところを拾われたこと。男娼の話はさすがにしないが、レイシュンに働き口をもらい今に至ることを口にした。
姉の話は出てこない。
言いたくないけれど、聞かなければならない。理音は意を決して言葉にした。
「二人兄妹なんですね」
「あ、いえ」
その問いにジャカの取り巻く空気が重くなった。一瞬口ごもり、姉もいましたが亡くなったので、と小さく言う。
これを聞いたら後味悪くなる。わかっているが、ジャカの反応を知っておきたかった。
「ご病気で…?」
「…いえ、事故で」
「そうですか…」
ジャカのか細い声で言いながら、両手の拳を強く握った。すぐにそれを解いて、草の選り分けをする。
未だ振り切れていないことがありありとわかる仕草だ。
人の持つ恨みなんて理解しようがない。自分は当事者でなく関わりもない。それを非難する理由もなかった。
もし例えば自分の大切な人が理不尽に殺され、助けてくれるはずの者が助けてくれなかった時、犯人を恨むのはもちろんだが、その助けなかった人も恨むだろうか。仕事を放棄してあまつ尻尾を巻いて逃げた者に、恨みを抱くだろうか。
しかし、リンネの話を聞いて、姉のことを思い出したらどうする?
リンネもウルバスに見捨てられ、住んでいた村の犠牲があった。同じようにジャカの姉の事件。ウルバスはまた行なければならない責務を放棄した。
大切な人が襲われている。助けられる人が目の前にいるのに、その男はその場を逃げ出す。ウルバスが助けていれば、姉は生きていたかもしれないのに。
それを逆恨みだと言うのは容易い。しかし、当事者としてはどうだろう。治安を守るべき者がいの一番に逃げ出したのならば。
会話もなくなりお互いの作業を黙々と行う中、庭を回っていたリンネが帰ってきた。理音が言った通り草で編んだ長靴を履いている。あれではあまり意味はないが、ないよりマシだ。後で手足を良く洗うように言ってあるので、そこもちゃんと行うだろう。リンネは思いの外理音の言葉を聞いてくれる。
沈黙を断ち切ったリンネが部屋に入ると、薬草を選り分け終えたジャカが代わりに部屋を出て行った。ゴミを外に出すためだ。
空気を悪くしたので居づらかったかもしれない。その空気を察したか、リンネが部屋にあるタライで手足を洗い終えると、おずおずと理音に何かあったのか聞いてきた。出て行ったジャカの様子を心配したようだ。
「すみません。ジャカさんのご家庭の話を聞いて、ちょっと」
言うと、リンネが納得したように、小さくうなずいた。パサついた髪が顔を隠すように揺れる。
「お姉さん、殺されてる、ので」
リンネも知っていると表情を曇らせる。俯きながら何かを言いたそうにして口ごもった。
「近くに官吏がいたのに、助けてもらえなかったんです。すごく覚えてるって、言ってました。その気持ち、よくわかる」
リンネは振り絞るように言った。自らも見捨てられたことを、リンネも同じく記憶したままなのだろう。
「でも、その官吏は、覚えてないから」
か細い声でも、理音にはよく聞こえた。リンネの握った手のひらはきつく、閉じた唇も硬く結ばれた。
「ウルバスを殺したのは、この城にある木の毒ですよ」
「え…!?」
いきなりの理音の言葉に、リンネは目を丸くした。演技のない驚愕。ぽかんと口を開けて、すぐにぱくぱくと開け閉めする。
「この城には人を簡単に殺せる木が植えてあります」
「そんな…っ」
リンネは驚愕すると真っ青な顔になった。ふるふると顔を左右に振って、涙目になる。猛毒を持つ木があるなど知らないと。
「リンネさんはウルバスが殺される前、ウルバスと話してましたよね。何の話をしてたんですか?」
「疑って、るんですか」
リンネは震えながら、やはり拳をきつく握る。
宴のあった日、ウルバスはリンネと庭園で何かを話していた。リンネはどこかにウルバスを連れて行った。あれの話は聞いておきたい。嘘かどうかはともかく、リンネがどんな答えを言うのか気になった。
「あれは、いつも、薬がほしいって言われてるから、」
「薬?」
リンネはハッとすると、子供のように口元を両手で覆った。嘘はつけないようだ。言ってから再び俯いて、しどろもどろと話し始める。
「いつも、薬ほしがる、んです。眠くなれる、薬。使うからと」
「睡眠薬?」
「よく、眠れないって。言ってたけど、ジャカは、絶対、違うって」
薬草で作られる睡眠誘導剤など、たかが知れているだろう。リンネは律儀に、酒で飲めば良く聞くと伝えて薬草を渡したそうだ。それから良く睡眠薬を欲しがった。しかし、ジャカはそれを知ると、睡眠薬を渡さないように言ったそうだ。
そのため、最近は弱めの物を渡していたらしい。その催促をあの日もされていたようだ。
「ジャカが、あいつは悪いことに使うから、渡すなって。だから最近効かないって、怒られて。もっと強いの、くれって言われてて」
良からぬこととなると、何となく想像がつく
ウルバスは催促のためにここまでやってくることもあった。その時ジャカの顔を見ても気付かなかったと言う。
理音はため息を吐きそうになった。ジャカは珍しく激昂していたそうだ。だからリンネも薬を渡さないように気を付けていた。しかしウルバスは何度も言いにくる。リンネも辟易していたのだろう。似たような薬草を渡しては凌いでいた。
「毒、なんて渡してないです。何もしてない」
「そうですね。ウルバスを殺した犯人は、この城にある木の毒について良く知っています。色々な殺し方はありますが、殺し方がわからない方法で殺していますから」
「殺し方が、わからない…?」
「犯人が誰かは、調べるのは私ではありません。問題は、あの木を使って殺した方法を、誰が知っているかと言うことです」
恨みで殺されているのならば、自分が口を挟む必要はない。そちらの問題はこの国のルールで裁けばいい。こちらの倫理は自分のそれとは違う。
「あの木の猛毒を何度も使われては困ります。いったい誰が、あの毒の木のことをわかっているのか。知りたいのはそこだけです」
理音の言葉にリンネはごくりと喉を鳴らした。
「どの、木ですか」
緊張を乗せた声音が、微かに震えているのがわかった。