167 ー信用ー
「顔色があまり良くないねえ」
白髭の医師ナモリは理音の顔を見ながら、いつも通りと検診を始めた。
「雪が降りそうだから、冷やさないようにしないとね。まだ身体は本調子じゃない」
空は鉛色で、雨でも降ればみぞれにでもなりそうな寒さだ。部屋には火鉢が置かれ、時折侍女が薪を足しに来る。炭ではないので、定期的にチェックをしにきてくれた。
もうストーブが焚かれる時期らしい。本当に冬が来るのが早い。いつも温室にいるがそれでも冷えている実感はあった。膝かけや上着が厚手の物に変わったからだ。
侍女が火鉢に薪を突っ込む。火鉢と言っても椅子くらいの大きさのもので、コテージにでもあるような石油ストーブみたいだ。近寄ると、暖かいより熱い。網の上で餅とか焼きたくなる。
背中の傷を診るため、冷えるからと部屋を温めてくれたようだ。
手足の傷はもう小さな痕を残してほとんど治っている。ただ、背中だけはまだかさぶたが残っており、眠っていると時折かゆくなったりちょっとした痛みが走ったりしていた。
傷は確かに残り、手鏡で見る限り、手のひらサイズの痕が刻まれていた。くぼんでいると言うか、皮が集まって縮れたみたいになっている。伸ばそうにも伸びないし、触ると痒い。
穴が空いたみたいだな。と思いながら、やっぱりそれをかいた。
別に背中だし、傷と言っても、日が経てばもう少し薄れだろう。多分。そして、そこまで気にするものでもなかった。水着とか着ない限り、見られることはない。
基本、理音は適当である。きっともっとしっかり痕があっても、気にしない。だって背中だし。程度である。腹だったらさすがに嫌かな、と思うだろうが。
そして、足や腕はそこそこ治ってきていた。どこかにぶつければ痛みにもんどりうつが、それがなければ問題ない。
ナモリは丁寧に理音の傷を診ながら、薬を塗った。
「傷はもういいが、折れた手足や強く打った背中は冷えで痛むかもしれないよ。足の添え木は取るけれど、だからと言って激しく動いてはいけない。お嬢さんはよく庭をうろついているようだが、添え木を取れば足に負担がかかる。あまり無理をして出歩かないように」
ナモリは理音の足に添えてあった木を取ると、包帯を巻き直した。薬を塗り、あとは包帯で固定するのみだ。
添え木がなくなると途端に寒さを感じる。木がなくなるだけでも暖かさが断然違った。
心許ない包帯は理音の足を軽くさせる。その分立ち上がり力を入れれば、足首に微かに痺れるような痛みを感じた。
足首をずっと固定していたせいで足首の筋肉が固まっているのだろう。ナモリも時折足首を動かすように勧めた。
腕の包帯は取られており、痛みがあるようなら薬を塗るようにと、小さな陶器の入れ物に入った練り薬を手渡された。乾燥しないように蓋が付いていたが密閉はされていない。そのためそんなに量は入っていなかった。表面は乾いているが、そのままでもぷうんと鼻につく匂いがした。
「この薬も自家製ですか?」
「ああ、リンネが育てた葉を練ったものだよ」
「練るのはナモリさんですか?ジャカさん?」
「城にある薬を作るのは私の役目だよ。ジャカが作るのは城内でも一部の者たちのためだ」
なる程、やはり重要な任務を担う者に、ジャカが作った薬は使わせていないのだ。おそらく下働きか、そこまで重要性のない衛兵など、何かがあっても問題ない者には使用を許している。
それ以外の者には、ジャカからは薬草だけをもらい、ナモリが薬を作るのだろう。
「門番や大切な場所を守る者も、ジャカの薬を使わないように伝えられているがね」
はっきりと言われてふとナモリの顔を見上げる。ナモリは苦い顔をしたがすぐにそれを消した。
「ジャカさんはそこまでレイシュンさんに信用されていないんですね。まあ、薬ですから当然でしょうけれど」
「レイシュン様は州侯でいらっしゃる。いつ毒が混ざるかもわからない庭で作った薬を重宝はできないよ」
「ですよね…」
そもそも作っている場所が悪い。庭にあって建物内ではないのだから、いくら施錠しているとは言え、誰が侵入するかわからない。草のままであれば毒の混入がわかるのだし、そうでなければ確信を持って信用はできないだろう。
「とは言え、よくやっている子供だよ。リンネも植物の手入れに集中できていいと言っていた。ジャカのお陰で倉庫は綺麗になったしな」
ジャカが来る前は棚を使わず、部屋に薬ごと置かれていただけだったそうだ。植物は育てられても、管理までは行き届いていなかったようだ。
薬棚を見れば几帳面なところがわかる。リンネにとってジャカが入ったのは良かったのだろう。
「ジャカさんも、この湿布薬の作り方知っているんですか?」
「どうだろうね。私が薬の作り方を教えたりはしないし、ジャカに私が何か助言することはあり得ないよ。残念だが身分が違いすぎているし、ジャカはそれをよく理解している」
身分のせいでまともな対談は行えない。前にジャカを入れて話すことができたのは、理音がいたからだと言う。
ナモリの言い分だが、どこか残念そうに言うのは、ナモリが本来なら協力し合いたい表れだろう。しかし、現実的にレイシュンの側近の養子になったとは言え、元男娼ではナモリと直接対話できるほどの身分は得られていないらしい。町の子供くらいならともかく、男娼と言うのが尾を引いているのだ。
レイシュンのように自ら許しているのは例外中の例外で、養子と言う名の下男と言うのが周囲の評価のようだ。
それに、とナモリは続ける。
「ジャカはバラク族に通ずることがあるからね」
「バラク族、ですか」
レイシュンを暗殺しようとしているらしい、バラク族はレイシュンからもちろん警戒されている。
レイシュンはバラク族から命を狙われている。リ・シンカも同類だろう。そのバラク族とジャカが通ずるとなれば、レイシュンが警戒しないわけがなかった。
しかし、
「バラク族と繋がりがあるのに、レイシュンさんはジャカさんを庭師にしたんですか?しかも、薬に関わる仕事で」
「そうだね…」
ナモリは少し間をとったが、小さく息を吐くと少しずつ話し始めた。
レイシュンから理音がウルバスを殺した犯人を探していることは聞いているのだろう。ジャカがそうだとは思いたくないと言い、けれど真実を見つけて疑いを晴らしてやりたい気持ちが強いのだと口にした。
ジャカは妹のために遊郭で働いていた。姉を亡くし住むところも仕事もないジャカは、食べる物もなく困窮していた。妹を連れて日雇い仕事をしたり物乞いをしたりしても、妹は身体が弱く体調を崩すことが多い。道端で野垂れ死ぬところを、バラク族の長、セオビに助けられたそうだ。
「いや、正確には助けられたわけではないね。拾われて、売られたと言った方がいい。妹は預かるから、身体を売って働かされたんだと」
「妹さんを人質に取られたってことですか」
「働くには妹を見る者が必要になる。けれど、そのあても無い。だとしたら、それにのるしかなかったんだろう」
妹を盾にジャカを働かせて、その利益を紹介料としてもらう。妹は貴族の家で奉公させた。つまりバラク族のセオビは、元手無しに金銭を得ることになったわけだ。
理音は無性に強い憤りを感じた。理不尽なことに対する怒りは、どこにも発散されない。
なぜ、そんな人道に外れたことがまかり通るのか、恨むにも何に恨んでいいかわからない、行き場のない気持ちが溜まっていく気がする。
「借金があって売られたわけではないから、自由がないわけではないらしく、妹に会うことは何度かあるそうだよ。ただ、普通なら妹の奉公先が決まれば喜びたいところだが、ジャカに似て器量のある子だったらしいから、別の心配もあってね」
ナモリのぼかした言い方に理音は何とも言えない気持ちを感じた。
貴族に奉公で器量が良いのならば、想像に難くない。
だからジャカは働きながらも、妹の心配ばかりしているそうだ。まだ幼いとは言え、いつその奉公先の貴族が触手を伸ばすかわからない。とにかく働いて妹を引き取らないことには、安心できないはずだ。
そしてよりによってと言うか想像通りと言うか、その貴族がリ・シンカなのだ。
妹を人質にとられているのならば、レイシュンが信用するわけない。するわけないのにジャカを取り込んだ。
レイシュンの思惑が見え隠れする。
「ジャカはウルバスだけじゃなく、セオビもリ・シンカも恨んでるってことですよね」
通じていると言うのとは違う気がする。むしろ強く憎むのではないだろうか。
しかし、そんな単純ではないのだと、ナモリは首を振った。
「孤児を拾って仕事を斡旋するのは、この州じゃ普通にある。食糧不足で死亡する親や子は多いからね。それについては、そこまで恨まれることではないんだよ。王都の方にはわからないだろうが」
理音はその言葉に愕然とした。孤児を保護するのに遊郭に売るのがデフォルトと言うのは、倫理としていかがなものなのだろうか。しかしここではそれがまかり通るのだ。
そうなってしまうとレイシュンがジャカを信頼するのは尚更難しい。レイシュンであれば恨みを逆手にとり、リ・シンカやバラク族の情報を得ようとするだろう。しかしジャカにその気持ちがなければ、レイシュンはジャカを得ようとするだろうか。
理音はうーんと唸る。レイシュンに対してひどく想定しすぎだろうか。しかしどうしてレイシュンの含むような玲瓏な雰囲気が気になるのだ。どちらにしてもレイシュンはジャカを信頼しているわけではない。取り込む姿勢はバラク族やリ・シンカへのポーズにすら思えてくる。ジャカを信頼しているのだと考えるように。
理音が首を傾げていると、ナモリは苦笑する。
「レイシュン様は特別な考え方をされる方だからね。レイシュン様にとってジャカは興味のある人物なのだと思うよ」
興味があれば近くに置いておきたくなる。そんな損得なしで人を得ようと考える人なのだと、ナモリは言った。言われて納得もする。ジャカを信頼しなくとも、側に置きたくなるような何かを持っているのだろう。




