165 ー消毒ー
丁度その時だった、リンネが戻ってきたのは。
「怪我ですか!?」
ジャカの声で理音は頭を上げた。手を何かで切ったか、服が赤く滲んでいる。ひどく切ったのだろう。それが指まで流れて地面を染めた。
「枝を、刺して」
どんな枝でぶっ刺したのか、土だらけの手に血がべっとりだ。
「水を持ってきます」
ジャカが土間へ出ると、外へ走り出そうとする。
いやいや、待て待て、水ってもしかして井戸水だよな。
「ジャカさん、綺麗な布、もしくは紙で拭った方がいいです。それから、そこのお湯を使いましょう」
丁度土間にある七輪で、ジャカはお湯を沸かしていた。胃の痛い兵士のための、薬湯用だ。それを使わしてもらう。
「井戸水でも破傷風になるかもしれないから、一度煮沸したお湯の方がいいです。だったら先に綺麗な布か紙で拭いて、土を落とさないと」
「はしょう…?布なら、あります」
「じゃあそれで、土を落としましょう。土を傷につけないようにして。それこそ病気になる」
土になんて雑菌がうじゃうじゃいるわけなのだから、そこを気をつけてもらい、布で手についた土や汚れを落とした。次いで、湧いていた湯をたらいに入れ冷ます。消毒液がないのが痛い。この世界って蒸留酒とか作らないのだろうか。
井戸水がどれだけ安全か、こちらはわからない。水質検査などないだろうし、何の菌があるかもわからなかった。飲料水として使用していたら問題ないのかもしれないが、そこは念のためである。できれば布も煮沸消毒したいが、傷口周りの汚れを落とすならば問題なかろう。
リンネの手は爪の中まで真っ黒なので、食器洗い用のたわしをもらい、先に爪のゴミを取り除く。
こちらのたわしは植物の繊維を球状に丸くまとめたもので、ウニのようだったが、使った感じよくあるたわしと変わりない。それで遠慮なく爪の中を洗わせてもらった。
傷は湯につけないようにして爪のゴミを落とし、それから新しい湯で傷を洗い流す。湯に傷を浸せば血が滲んだ。結構ざっくり切っており、傷は深い。
まだ中に枝が入っているか、異物が見えて、理音は毛抜きを借りた。
こちらの毛抜きは理音の知っているサイズと違って、かなり大きい。そのため使いづらく、その刺さった枝の端くれを取るには苦労がいった。毛抜きはまるで三味線のバチのようで、扇型なのだ。毛抜きなのになぜ広がった作りをしているのか。作ったやつを問い詰めたい。
色は銅色をしており、真鍮でできているのかもしれない。さすがにステンレス製ではない。
洗った傷を乾かして、そこに塗る薬をジャカにもらう。軟膏のそれに何が入ってるか聞きながら、理音は丁寧に薬を塗った。
リンネの手は外で働く人の手だ。いつも農具を扱っているため、指や手の平にはマメやタコの痕がある。傷も多く、カサついていた。いつも泥にまみれて庭を触っているのだろう。手だけでなく足も汚いわけだが、そこがもうとても気になる。
「リンネさん。これから庭を耕す時は、ちゃんと靴を履きましょう」
「え、何で、ですか?」
「土によっては病気になるからです。土を触ったら必ず清潔にしてください。傷から毒が入り込むこともある。爪の中も綺麗に、指も清潔に。土いじりをした後は、必ず洗ってその土を落とすこと。悪くすれば風邪みたいな症状になったりするし、指を切り落とさなければならない時もあります」
「指を切り落とす…?」
リンネは不安げに言葉を繰り返した。
脅しすぎかもしれないが、歳をとれば免疫力も落ちて、何かに感染する可能性は否めない。ここはしっかりと納得してほしい。
「土の中には人にとって毒になるものが混じっていることがあります。それが傷に入れば膿んだりする。悪くなれば治らなくなりますから」
「わかり、ました」
リンネは理音の顔を不思議なものでも見るかのように見やって、返事をよこした。リンネも人の顔をまじまじ見るのは珍しい。いつも怯えるように下を向いているのに。
素直に言うことを聞いてくれれば助かるが、まじまじ見られてこちらが怯みそうになる。変なことは言ってないよ?
「土に毒があるって、初めて聞きました」
「…ああ…」
それはそうですよね。毒と言うか、何と言うかである。説明難しいな。
ジャカも食いつくようにこちらを見てくる。いや、見ないでほしい。
「えーと、つまり、植物に今栄養与えてるじゃないですか。それが土の中に入って、植物の根から栄養が入っていくでしょう?それと同じで、土の中には栄養じゃないものもいるんですよ。目に見えないだけで。それがたまに人間に悪さしちゃう。菌って言うんですけど、小さすぎて目に見えないんです。傷があったら、そこから植物が根から水を吸い取るように、身体の中に入ってきちゃう。それが身体に悪さして、膿んだりしちゃうんです。だから気をつけてください。それは土の中にいるかもしれないし、水の中にもいるかもしれない」
「お湯で洗ったのはなぜですか?」
模範生が質問してきた。先生になれる程詳しく話せる知識ないんだが。
「それは沸騰したお湯で毒が死ぬこともあるからです」
大抵のものは死ぬんではないかと思っているが、熱湯で死なない菌だってたくさんいる。絶対はないことを説明しつつ、けれど効果的であることを何とか説いて、納得してもらった。
「なので、例えば傷を拭う布とか、巻くものとかは、煮沸消毒して清潔に保つ方がいいですよ。本当ならエタノールとかで傷口を消毒した方がいいんですけどね」
「えたのーるって何ですか?」
あ、また余計なこと言った。
理音は頭をがりがりとかきそうになった。これ、エンドレスで授業することになりそう。
酒を高濃度にしアルコール度数を上げる。消毒液がどれくらいの度数でできあがるか知らないが、前フォーエンが倒れた時に使わしてもらったのは、結構な度数だったと思う。
あんな物はほとんど気持ち程度の消毒だろう。だからこそエタノールはほしい。
そう言った酒を作ることはないのだろうか。逆に問うと、ジャカは思い出したように部屋を出て行った。戻ってくると、両手に抱えるくらいの円筒の瓶を手にしていた。
「これでしょうか」
円錐状のガラスでできた瓶には蓋がつき、その蓋もガラスで作られている。濁った色のガラスだがしっかりと蓋になっていた。おしゃれな香水瓶の蓋のようだ。中は透明な液体が入っている。摘んで蓋を取ると、中から嗅ぎ慣れた匂いがした。
「これ、どうやって作ったんですか?」
「わかりません。倉庫に置いてあったので。ただ、不思議な水だったので捨てずに取っておいたんです。エンシ様が使用していた倉庫で、重要な物の可能性もありますから」
ジャカ、グッジョブすぎる。
香りは間違いなく消毒液の匂いだ。病院で嗅ぐ匂いと同じである。試しに地面に一滴落とせば、すぐに地面に吸い込んで消えた。
古い物だが密閉されていたか、そこまで劣化はない。不純物も混ざっていなかったのだろう。腐食が見られなかった。品質がいいとは言えないかもしれないが、まともな石鹸もないここであれば用を成すだろう。
「倉庫ってどこですか?」
エンシは外科手術を行なっていた。身体を切るのに熱湯だけで対応できるものなのか。それを考えなかった。
ジャカに連れられて倉庫へ行くと、そこは倉庫とは思えないほど綺麗に整頓された部屋だった。王都の埃だらけの倉庫に見習ってほしい。
地面は板の間だが、埃など全くない。ジャカが掃除しているのだろう。棚が並んでいたがその棚も箱が綺麗に並べられており、しっかり整頓されていた。
「綺麗にしてますね」
そんなのほほんとしながら並べてある物を目に入れて、理音はぎょっとした。
「うわっ!」
目に入ったのは真鍮の箱だ。高さはなく、板状のガラスで蓋がされている。それが棚にずらりと並んでいたが、中に入っているものが恐ろしくグロい。
どう見ても拷問の道具にしか見えない、サイズの大きなペンチやノコギリが真鍮の箱に入っている。下地に柔らかそうな布が敷かれており、コレクションのように並んでいるのだ。
置き方からすると大事にされている気がする。拷問器具のように見えるが、もしかしなくても外科手術用だ。
「うわ、こわ。これ使って手術するの?え、このノコギリもしかして骨まで切る気?」
もしかしなくてもノコギリはその用途しか考えられない。他にも数種類のサイズのナイフ、鎌のようなナイフ、細長い糸ノコギリのような物まである。一番寒気がしたのが数種類のペンチだった。各サイズがあり、工具箱を見ているようである。
見た感じは刃物博物館だ。
いや、
「古代拷問博物館…」
呟いて、すぐに口を閉じる。つい心の声が漏れてしまった。
何も言っていないふりで他の箱も見ていく。木箱があり、それを開けると糸が並べられていた。縫合用だろう。しかし糸と言うか、糸なのだろうが、若干太い気がする。縫合用の糸がこれだけ太いと痕が残りやすいだろうに。
余計なことを思いながら倉庫をうろうろする。しかし、見つけたい物がない。
「うーん、ないなー」
真鍮はこちらではよく使うのか、タライやジョウロなどがある。だがやはり、肝心な物が見つからない。
「聴診器とかもないんだなー。触診だけで身体切ってたのかなー」
ぶつぶつ呟きながら見ていると、ジャカは後ろから心配気な顔をしてついてきていた。
「何をお探しでしょうか?」
「蒸留するための器具がないかなって」
「じょうりゅう…?よくわかりませんが、ナモリ様も医務所をお使いですから、そちらの倉庫にあるのかもしれません」
「あそうか、こっちは薬草製作用の建物ですもんね。こっちに医療用器具しまってあるのは、使えないからか…」
エンシは両手首から先がない。この道具は昔使用していた物だろう。大事にとってあるのは、誰かにその技術を教えるためだったのだろうか。
そうなるとここにはないかもしれない。使わない道具をしまっていたのならば、蒸留器はここにないだろうか。
「今度ナモリさんに聞いてみましょっか。エタノール作れるなら、傷の消毒に使いたいし。ってことは、王都にもあるのかなあ」
言って、また脱線していることに気付く。自分、ここに何しに来ているんだ。
「木札とかもここにあったんですか?」
一応聞いてみる。本来の目的を見失いすぎた。医療関係、気になることがありすぎて、つい口を出してしまう。
「奥の木箱に納められていました。リンネさんはあまり字は読めないのですが、ナモリさんがリンネさんに読めるところは読むようにと。それでこの倉庫にずっと置かれたままにしていたそうです」
リンネは木札をいつか薬にできればと倉庫に保管していた。ナモリも同じだ。だからふと思う。ジャカは知らずに木札を見つけたのだろうか。
「ジャカさんは木札が使えると思いました?」
「はい、僕は文字が読めるので、薬が作られると思ったんです」
ジャカは遠慮げに呟いた。だが使えないことを知って落胆したようだ。
せっかく読めた木札も使い勝手がないのでは意味がない。
それにしても、言葉からするとジャカの歳で文字が読めないことも多いようだ。ジャカは理音とそう歳が変わらないだろう。つまり識字率も悪いわけである。義務教育のない国は大変だ。生まれた環境でその差がついてしまう。
しかしジャカは読めるのだ。だとしたら勉強ができる環境で生まれたのだろうか。
「ジャカさんはどこで文字覚えたんですか?」
「あ、僕は…」
言ってしまったと思った。ジャカは顔を下げたまま、言いにくそうに口ごもる。
こちらの一般家庭の状況などはわからないが、倫理に欠けるような輩が多く、犯罪率も多そうな世界だ。家族がいない場合だってあるだろうし、家だってない可能性がある。
まずいことを聞いたに違いない。
「わ、私文字読めるんですけど、あんまりうまく書けなくて。書き方もよくわからないんですよね」
どうでもいいことを暴露して、理音はその話をやめた。家庭環境や過去を聞くことはこちらでは自爆する可能性がある。フォーエンにすら家族のことは聞けないし、過去のことも話したことはない。フォーエンに関しては間違いなく自爆する。
「僕は、砂文字板で練習しました」
「砂文字板?」
「砂の入った箱です。筆で砂をなぞると文字が残るので」
地面に棒を使って文字を書くような物だろうか。それなら箱だけ作り細かい砂を集めれば簡単に使える。書道練習用の水筆練習用紙の砂版と言ったところだろう。
紙もインクも高価であれば、それだけあれば練習には十分だ。
教えてもらった文字をその砂で練習したのだろう。頭のいい子だと聞いているがその分努力しているわけだ。
「蒸留器はないみたいなんで、リンネさんがまた怪我でもしたらあの瓶の水使うといいですよ。傷回りの汚れを落として、沸騰して冷ましたお湯で洗って、それからあの水をかける。それで清潔になりますから」
十年もののエタノールってどうなんだろう、と思いつつ。匂いもしてるから平気と思いたい。
言うとジャカは静かに頷いた。
「…わかりました」