117 ー回復ー
「随分、楽になった」
「なった?薬効いたね。風邪薬持ってたから。熱用のやつ」
「風邪薬?」
「私が持ってたやつ。コウユウさんにバレないように。飲み込んだでしょ。噛まないで。覚えてないかな」
「覚えている。大きな粒の」
「カプセルだからね。こう、小さい容器みたいのに薬が入ってるの。胃の中で溶けるんだよ。今薬で熱が下がってるだけだから、明日になったらまた飲もう」
「ん」
何だ、ん。って。可愛く言って、そしてそのまま目をつぶってしまいました。
いや、離そうぜ。
これでは、自分が押し倒したみたいではないか。本当に勘弁してほしい。このまま朝を迎えたら、地獄を見るのは自分である。
もそもそしても、フォーエンは離そうとしなかった。この体勢、フォーエンが重いだろうに。それだけでなく、理音は海老反り状態だ。腰を軸に、何とかフォーエンにくっつかないよう、腕に力を入れる。
「水枕変えるから、離して」
「問題ない」
こっちがあるわ。それに額の布がどこか行方不明だ。服にでもついていたら、濡れて体に良くない。
枕元にそれを見つけて、手を伸ばす。先ほど濡らしたばかりなのだから、枕が濡れたことだろう。
「ほら、ちゃんと頭も冷やして」
「お前の手の方が気持ちいい」
もうやだ、この男。
恋愛経験のない女子に、その言葉は悩殺だろうが。
人の気も知らず、タヌキ寝入りのように目をつぶったままである。枕叩きつけてやろうか。
病人のくせに腕の力は強く、織姫呼ばわりしていた風体からは考えられない力強さだ。
ここで屈したら負けである。もう堪忍袋の尾が切れたと、予定通りに枕を顔に押し付けた。力が緩まって急いで脱出する。
「…病人に」
フォーエンは恨みがましく言った。
病人ならば、大人しく寝てほしい。水枕を頭の下から抜き取って、新しく作り直してやる。氷はないが、氷水で夜は十分だろう。明日になったらまた氷をもらって、作り直せばいい。
「ほら、頭上げて」
頭を支えてやって水枕をやると、大人しくそれに従った。いつもそうしていてほしい。
首元に触れて体温を測ると、やはり熱は落ち着いているようだった。抗生物質が効いたのだろう。なまじそんな物口にしたことがないため、効きがいいのかもしれない。
「もう三十八度はないと思う。そこまで熱くないから。でも今は薬で下がってるだけで、無理すればまた熱も上がるから、明日も寝てるしかないね」
「三十八ど?」
「体温の数。大体三十六度くらいがいいのね。でもフォーエンが苦しんでる時、きっと三十八度は超えてたと思うんだ。すごく熱かったから。三十八度以上が四日くらい続くと、風邪じゃなくて別の病気の可能性があって、どうかなって思ったんだけど、熱が下がってきてよかった。肺炎になったら、私対処できないし、他の病気を併発しても、どうにもできないから。もっと早く来ればよかった。そしたらこんなに長引かなかったのに」
そうすれば、ここまで寝込んだりせずに済んだだろう。
今頃は微熱になっていたかもしれないのに、悠長に待ちすぎた。こちらの医者のレベルが何とも言えないと気づいていたのに。
「誰かが、お前を呼んだのか?」
「違うよ。ハク大輔とヘキ卿にお願いしたの。コウユウさんすっごく嫌がってたけど、無理言って来たの。民部で誰かが亡くなったらしくて、それと一緒にフォーエンが良くないって耳にしたから」
放っておいたら、フォーエンもそうなっていたかもしれない。
熱を下げる薬もあったのだろうが、フォーエンは吐いて薬を飲んでいなかった。そのままでは、肺炎になっていただろう。
「リオン、側に」
「いるよ。今日はここにいるから」
「もう少し…」
フォーエンは手を伸ばすと、理音の指先に触れた。ゆっくり絡めて手首に触れてくる。
その触り方は、卑怯だと思う。
フォーエンはそのまま手首を握ると、静かにまぶたを閉じた。
これでは動けないだろうが。右手を奪われて、理音はそのままで椅子に座った。
部屋が暗くてよかった。
顔色を見られることはない。
無防備な甘さを見せないでほしい。
自分の頰が風邪をひいたみたいに熱を帯びて、ひどく熱くなったのを感じた。
フォーエンの熱は下がりつつあった。
朝にまた氷をもらって冷やしてやり、食事後にこっそりと薬を飲ませる。それだけで、昼間にはずっと熱が下がっていた。
風邪薬の威力は効果てき面で、夕方にはもう微熱になっていた。
眠りも浅くなってきたか、側にいると時折目を覚ます。眠りの邪魔になっていると思うのだが、部屋に戻るなとフォーエンに言われたので、結局ずっとそこにいることになった。
けれど今夜は、自分の部屋に戻られるだろう。
何せコウユウが、戻られた方がいいと再三言ってくるのだ。
言い分はこうである。
陛下への看病は宮中でも知らぬ者はおらず、無事回復されしこと、密かに囁かれております。御身自身のお仕事に戻られた方が良いかと存じます。
はい、看病ご苦労さん。いい感じな噂流れたから、囮に戻れよ。敵もまた来るかもね。である。
今回のことで、コウユウからの好感度が、なぜか下方へ流れた。
元々そうだったのかもしれないが、フォーエンが回復しつつあっても歓迎する気はないらしい。
理音もさすがにしつこくいてはと、戻るつもりだった。戻れないのはこの男のせいだ。
甘えるのに慣れたのか、自分で食事をとろうとしないのだ。幼児帰りかこの野郎。
お粥をすくって、フォーエンの口に運んでやる。もうしっかり食べられるか、食事の進みが早い。
熱はそこそこあるが、昨日に比べれば全く大したことがないので、フォーエンは暇を持て余して、ベッドで仕事をし始めるほどだった。
だったら、ご飯一人で食べれるよね?なわけだが、まだ熱があるため、ベッドから出るなと言った理音の言葉に頷く代わりに、食事のためにテーブルへつけない。イコールご飯を自分では食べない。になったらしく、理音は仕方なしに、食事を食べさせる羽目になったのだ。
昼頃には自分で食べられそうだったのに。どこのお子様か、である。
「明日になって熱がなさそうなら、起きていいけど、人の多い部屋とか行かないでね。病み上がりだから、また別の病気にうつっても困るし」
「そのような場所には行かぬ。問題ない」
「あとは、疲れが溜まるだろうから、あんまり無理しないように。仕事が溜まってるだろうけど、無理するとぶり返すからね。それと、お風呂は今日もやめた方がいいから、体拭くくらいにしてね。体冷やさないようにして」
忠告しながら、夏蜜柑のような果物の皮を剥いて食べさせてやる。
汁でベタベタになった手を布で拭きとって口に運ぶと、かぷりと一口、満足そうに食べてくれた。
このお子様が、こんなでかい子供お断りである。
「風邪の潜伏期間は治ってから三日くらいのはずだから、あんまり人に会わないように。密閉された部屋で会うようなら時々換気すること。他の人にうつったら大変だから」
「口腔感染、飛沫感染だろう。わかっている」
理音が何度も呪文のように唱えるものだから、フォーエンは言葉を覚えてしまった。さすがに記憶力のいい男だ。
しかも仕事をしながらである。理音が黙って口に運んでいると何か話せというから話していたが、ベッドの上でも仕事を広げているのだ。聖徳太子かお前は。
食べている時くらいしまえと注意したのだが、仕事を長く休んだため、スケジュールの混み具合がかなりまずいらしく、書類に目を通しながら判を押しているのだ。そのため食べさせる羽目になっているとも言える。
行儀が悪いが時間がない。ヘキ卿も仕事が溜まっているようなことを言っていた。それが三日以上前なのだから、確かにまずいのだろう。
「はい、これで終わり」
最後の一房を口に突っ込んで、理音は片付け始めた。コウユウが隣の部屋で待っている。コウユウは、ちらりとこちらを見やってから食器類を片付ける。ちらりはもう部屋戻れよ。の目線だ。
「じゃあ、フォーエン。あんまり夜更かししちゃダメだからね」
「戻るのか?」
え、何で?みたいな顔をなぜするのか。
さすがにここで二泊はまずいだろう。
どうやら宮中では自分がここにいることを皆が知っているようであるし、存在も怪しい女がフォーエンの隣に陣取っていたのは皆に知れ渡ったようだ。その女がやはりまだ後宮にいて、フォーエンの看護をしたとあらば、やはり囮に徹しなければならないだろう。しばらく身を隠していたが再び現れたとでも思われるのかは謎なのだが。
「今回のこと囮に丁度良かったみたいだから、大人しく部屋戻るよ」
コウユウはその方向で進めたがっている。いつまでもここにいるなの目線が痛い。
「勝手に戻っていいかな。ツワさん呼んでもらった方がいい?」
「…ツワを、呼ばせる」
コウユウが待ってましたと顎を軽く上げた。扉を開く音がすると、そこにツワが待っている。
待てせてたのかよ。声には出さず心の中で突っ込んだ。
コウユウは心から理音にここから早く出ていってほしかったようだ。そつのない忠臣だ。
「じゃあ、またね」
理音は布に包んでおいた付け毛や飾りを持って部屋を出ようとした。けれどそれを止めたのはフォーエンだ。名前を呼ばれて振り向くと、捨てられた子犬のような顔をしているのである。どうした一体。
何だかよくわからないが、風邪が長引きすぎて精神不安定になってるんじゃなかろうか。
理音はベッドまで戻ると、フォーエンの額に触れた。
「暗くなったら仕事はやめなね」
次いで首元にも触れる。夜が近くなってきて少し微熱が上がっているかもしれない。治ったと思って起きているからだ。
「おかしいと思ったら教えて。まだ熱残ってるから、ひどくなる前に言うんだよ。多分明日も少し熱出るから、無理しないように。ちゃんと治ったら新しいゲーム教えてあげるから、やろー。今度は私が勝つから」
「…お前は弱いから」
「だから私が勝てるやつ」
「弱いのにか?」
「弱くないやつ教えてあげるから」
「せこいな」
「うるさい」
子犬はすぐに元のフォーエンに戻った。それを確認して踵を返す。
「夜更かし厳禁ね。おやすみ」
「おやすみ」
緩んだ笑み。微かに弱りを見せて、フォーエンは理音が見えなくなるまでその姿を見送った。
フォーエンの珍しくも弱々しい一面を覗き見たような気がする。
弱音を吐く相手がいるのかどうか、立場的にもそれは難しいのだろうか。何せ同じような年の人間が近くにあまりいなそうだ。
ヘキ卿は近いだろうが何歳かは上だろう。ハク大輔も年上だろうし、近くてシヴァ少将だろうか。小河原に似ているので理音と歳は変わらないかもしれない。同学年の友人などはいるのだろうか。いたとしても、皇帝になった時点で大きな距離があるのかもしれない。
国を担う責任を持ったが故に、孤独な存在になるのはあまりにも寂しいことだ。
普段見せないフォーエンの表情に、内心哀しさを覚えた。




