前編
上等の絹のような銀紫の髪に、緑に金を散りばめたような、角度によって金にも見える瞳、白雪のような一点の曇りもない肌。神の奇跡とも評される、この世の者とは思えないほどの美貌。文句のつけようもない、均整のとれた肢体。聞くものを魅了し、慣れた者でも気を強く持たなければ言いなりになってしまうという、魔性の声。
すべてが完璧だと。
物心ついた時から、毎日のように言われた容姿を鏡に映し、グレイジャーランド帝国第19代皇帝、スヴェトラーナ・レミング・チティリ・バリーノペラ・グレイジャーランドはため息をついた。
ついに、この日がやってきてしまった。
前皇帝の第一子として生まれた瞬間から決まっていた、皇帝という位に就くことはいい。そう言われて育ったし、自分もその名に恥じぬよう研鑽してきたつもりだ。
だが17という若さでこの座に就くとは。前皇帝である父はまだ若かったので、考えもしていなかったのだ。
それに帝位継承者としての義務を果たすにしても、あと2、3年の猶予はあると思っていた。だからそれまでの間に心の準備をしておこうと、そう思っていたというのに・・・。
老年期ではないが、青年と言う時期はとうに過ぎた父が、年甲斐もなく励んだ末に腹上死したというのは、極めて絶対的超級特別最重要国家機密であった。
相手は前皇帝の第三子であるソスラン・アンブロ・トゥリ・バリーノペラの母で、寵愛されているのをいいことに、父へ継承順位を変えろと唆す普段からいけ好かない女だった。まあ、精神を病んでしまった今となっては、気の毒に思わないでもないこともやっぱりないかもしれない。
しかしそう思えるのもどうにか落ち着いてきた今であるからで、御殿医から父の死因を耳打ちされた時は、突然父を亡くした悲しみも、それによって起こったごたごたも、すべてがなんでもない事のように感じられ、淡々と執務をこなせるくらいに恥ずかしかった。
それはもう、いい。
死者に文句を言ったところでどうにもならないし、現状が変わるわけでもない。
女帝、スヴェトラーナは目の前の鏡に映る、薄く透けるレースを何重にも重ねた夜着に身を包んだ自分の姿を見て、再びため息を漏らした。
「一分の隙も無くお美しくございます。皇帝陛下」
肩を落とした自分へ、柔らかな手触りの毛皮のマントを羽織らせながら、侍女のベラがうっとりとほほ笑む。鏡越しに苦笑してみせると、笑みを消したベラが他の侍女に聞こえない声で囁いた。
「ご安心ください。すぐ隣の控えの間におりますので、もしもの時はすぐにお助けいたします」
セバス族であるベラは、武芸にも長けている。そして暗部も真っ青なほど暗器の扱いが上手い。
礼を言う変わりに、肩に置かれたままだった彼女の褐色の手へ自分の手を重ねると、ベラが嬉しそうに茜色の目を細めた。
彼女と出会い、その主となれたのは、まことに僥倖であった。
まだ10歳になったばかりの頃、自分へ心酔したある貴族の男が貢物として差し出してきたのが、まだ名がなく、髪色から苔と呼ばれていた15歳のベラだった。
この貴族の男。表向きは気の優しい、子供にも好かれる人畜無害な人物だったが、実は小児性愛者で、さらに人身売買に手を染めているという疑いがあった。
そして、どうにかスヴェトラーナを手に入れられないかと画策していたようだ。
男はセバス族の少女を餌に、自分の屋敷へスヴェトラーナを招き入れた。・・・というか目的の為、スヴェトラーナは自らを餌に、男の屋敷へ乗り込んだ。
後ろ手に縛られた状態で、罪人のように連れてこられたベラを前に、彼女の扱いに対する苦言を呈するスヴェトラーナ。
その言葉を真摯に聞くふりをして、男は美少女の華奢な肩へと魔の手を伸ばし・・・たのだが、触れられた瞬間に身の危険を感じたスヴェトラーナは、反射的に男から距離を取り、すでに屋敷を制圧しているはずの騎士団を呼ぼうと口を開きかける。そこへ縄抜けしたベラによる金的が炸裂した。
悶絶する男へ、さらに容赦ない一撃が加えられ、男はついに意識を手放す。
その流れるような一連の動作に、スヴェトラーナは感嘆のあまり声を大にして称賛しながら拍手をした。
しばらく驚いた顔をしていたベラは、はにかむように笑うと深々と一礼する。そして自分を縛っていた縄で男を縛り上げてから、スヴェトラーナの前に跪き、主となってくれるよう乞うたのだった。
しかし、どんなに頼もしい味方がいても、これから臨むことが憂鬱であることに変わりはない。
またため息をついたスヴェトラーナがベラ以外の侍女へ下がるように言うと、入れ替わりに1人の青年が入ってきた。
「俺も、控えの間は無理だが、廊下にいる。耐えられなければ呼べ」
そうは言っても、そんなことをすれば彼の首が飛ぶだろう。どんなに嫌でも皇帝としての義務だ。逃れられはしないし、彼を犠牲にしてまで逃れようとは思わない。
「大丈夫だよ。ギデオン」
安心させるように微笑んではみたが、うまくできなかったらしい。ギデオンの瑠璃色の瞳が不快気に細められた。
そんな表情でも美しい、とスヴェトラーナは思う。
人外と評されることもある自分の美しさとは違い、ギデオンの美しさは力強く息吹く、生命を感じさせるものだ。
このギデオン。件の貴族の男が囲っていた少年の一人だった。
金色の、猫のように柔らかな髪と、透き通った瑠璃色の瞳。まさに天使といった風貌の少年は、余程のお気に入りだったのか。屋敷の最も奥まったところ、格子窓のある豪奢な一室へ監禁されていた。
ベッドへ長い鎖で繋がれていたギデオンに、これといった目立つ怪我はなく、栄養状態も良好。しかし手負いの獣かというほどに攻撃的であった。
スヴェトラーナの命で踏み込んできた騎士に敵意を露わにし、手を伸ばそうものなら嚙み付いて逃げる。少年を傷つけるわけにもいかず、扱いに困った騎士たちが、証拠集めの指示を出していたスヴェトラーナに助けを求めた。
その時、初めてギデオンを目にしたスヴェトラーナは、雄々しく、また全身に生きようという気力が溢れるその姿に、心を奪われる。そして自分の姿を見、声を聞いてもひれ伏さない、異母兄弟以外の人間に狂喜した。
騎士たちへは敵意を露にしていたというのに、相手が女であるスヴェトラーナだったからだろう。過分に警戒しながらも少年は大人しくなった。そして羽化したての雛鳥のように付いてくる。
自分と同じか、もしくは1つ2つ上くらいの歳だと思われる少年を、スヴェトラーナは連れ帰った。そして自分の従者にすることにした。
次期皇帝の従者に身元不明な子供を据えるなんて、いろいろ問題ありまくりだったが、自分の魅力と地位を最大限に利用して押し通した。
元々孤児だったらしい少年は、それまでの名を捨てたがり、新しい名を欲したので、ギデオンと名付けた。
ギデオンは勤勉で、努力家だった。
あっという間に侍従として必要な知識以上のものを頭に入れ、近衛騎士も舌をまく程の武術も身に付け、名実ともに次期皇帝の侍従として認められてしまった。
ギデオンを手に入れられたのも、また僥倖であったと思う。
「そろそろ行こうか」
扉へ向かうスヴェトラーナを、ギデオンがじっと見つめてくる。
きっと震えるほど嫌がっていたのなら、彼は力付くでも止めたのだろう。しかし完全でなくとも、前皇帝が亡くなってから今日までに、ある程度の心の準備はできたのだ。
毅然とした姿勢で扉の前まで来れば、ギデオンが恭しく扉を開けてくれた。
今日向かうのはスヴェトラーナの母の出身地、チティリ出身のマルセル・ルルー・チティリという男のところだ。
実年齢よりも低く見える可愛らしい身長と容姿とは裏腹に、なかなか腹黒い人物らしい。ここへ至るまでに、容赦なく幾人も蹴落としてきたと、ベラに聞いた。
ベラは武芸に優れているが、諜報活動にも長けている。彼女が憧れ、目指す「にんじゃ」とは、かなり高度な技術を有する諜報集団らしい。正直、味方で良かったと本当に心の底から思う。
ギデオンとベラを従えながら、スヴェトラーナは後宮へと渡る。本当はあと10人前後の侍女を連れていくのだが、気が散るからと同行を断った。
目的の部屋まで来ると、ベラがドアをノックする。少々の間の後、ゆっくりと扉が開かれた。一息飲んで気合を入れ、部屋の中へ入る。すると正面のソファの前で、1人の男が立って出迎えてくれた。
青髪に瑠璃色の瞳の美少年・・・に見えるが、自分より6つ上のはずだ。笑みの形に反っている薄い唇が、なんとなくギデオンに似ている気がする。
「待たせたか」
「・・・っいいえ」
出迎えた姿勢のままこちらを見ていた外見少年は、弾かれたようにスヴェトラーナの足元まで来ると跪いた。
「・・・っチティリの族長が四男。マルセル・ルルー・チティリでございます」
深々と頭を下げると、スヴェトラーナの爪先へ額を付ける最敬礼を行う。それを見下ろしながら、スヴェトラーナはこの後の手順を思い返した。
確かソファで歓談して雰囲気を作り、それから隣の寝室へ移るのだったか。だが出来ることなら歓談などすっとばして、一思いにやって欲しい。
そう思って、茶器の用意をしていたマルセル付きの侍女たちへ視線をやった。
「さがれ」
マルセル付きの侍女たちは戸惑いつつも、いまだ跪いたままの主が異を唱えなかったので、控えの間へ下がっていく。後に残ったのはスヴェトラーナとこの部屋の主であるマルセル、そして扉横で気配を消しているベラだけだ。
ギデオンは非常時でない限り部屋へ入ることが許されないため、廊下に控えている。
それにしてもこの男。いつまで跪いているつもりなのだろうか。
動かしてはならないと思えば思うほど、体というのは不思議なもので、動かしたくなってくる。意識しないと勝手に動いてしまいそうで、足へ力をいれて踏ん張った。
そうしてじっと耐えていたが、ついに痙攣するように爪先が動き、額を軽く蹴り上げてしまった。己の失態に、ついため息が漏れる。
「はぁ・・・」
謝罪からどうやって寝室へ誘えばいいのかと、半ば絶望していると、マルセルの体が傾いだ。
「ひっ?!」
反射的に身を引く。受け身もとらず、パタリと力なく倒れたマルセルの傍らにはいつの間にかベラがいて、手首を握り、鼻へ手をかざしていた。
「大丈夫です。気絶しているだけでございます」
ほっとしてマルセル付きの侍女を呼ぼうとすると、ベラが何かをマルセルの口へ放り込んだのが視界の端にうつった。
「なにを―――」
「お静かに。陛下」
華奢な少年風の体格とはいえ、それでも並みの女性程度には大きいマルセルの体を、ベラは事も無げにひょいと担ぐ。そして人差し指を唇へ当て、黙ってついてこいと言うように隣の寝室へと向かって行った。
大人しくついて行くと、ベラは丁寧にマルセルを寝台へと下ろし、スヴェトラーナへ扉を閉めるように視線で示す。扉が閉まってしばらくは気配を窺うようにベラが鋭く辺りを見回していたが、やがて力を抜くとスヴェトラーナへ向き直って口を開いた。
「大丈夫です。先程飲ませたのは、ただの「聞くだけで実体験した気になる」催眠薬と、ただの「2時間ほどいい夢を見る」睡眠薬です」
「・・・どの辺りが「ただの」なのかわからない」
「人体に害はなく、常習性もないので問題ありません」
何をする気だというスヴェトラーナの視線を受けたベラは、にんまりと笑む。そして扉近くの棚からワインとグラスを取り出し、窓辺の小さなテーブルへとスヴェトラーナを誘った。
素直に従ったスヴェトラーナから毛皮のコートを脱がせると、ベラはどこからともなく取り出したガウンを肩へかけてくれた。
寝室は今晩行われる行為のために、程よく温められている。ちょうどコートが熱く感じてきていた頃だったので、さすがベラだと心の中で褒め称えた。
「30分ほどで済みます。こちらでお待ちいただけますか?」
「構わないが・・・何をするのだ?」
再びにんまりとしたベラはスヴェトラーナの質問には答えず、一礼すると、寝台へ仰向きに横たわっているマルセルの枕もとへ跪く。そして自分の懐をごそごそと探ると、一冊の本を取り出した。
ベラが何をする気なのか全くわからないスヴェトラーナは、その一挙手一投足を見逃すまいというようにじっと窺う。
パラパラと本のページをめくっていたベラは、目的のところを見つけたのか、その手を止めると姿勢を正して口を開いた。
「小鳥がついばむような軽いキスを何度か繰り返すうち、次第に互いの息が上がってきた。そしてそれに比例するように、キスが深いものへと変わっていく。・・・マルセルはおずおずと差し込まれた・・・スヴェトラーナの舌を己のそれで絡めとり―――」
ベラの手元にある本は、官能小説らしい。
登場人物の名をスヴェトラーナと、横たわったままのマルセルへと差し替えて、臨場感あふれる朗読を始めた。
唖然として硬直したままのスヴェトラーナをそのままに、内容はだんだん過激になっていく。そして物語の中で行為が終わり、真実味あふれるその事後処理まで読んだところで、ベラが本を閉じた。
「よし。」
「待て。何が「よし」なのかわからない」
満足げに微笑むベラは、スヴェトラーナの質問に答える事なく、隣にある湯殿の戸を開く。そして事後でも十分温かいようにと、熱めにはられた湯を、湯船から辺りへ撒くように捨て始めた。
「ベラ!何を・・・」
「お静かに、陛下。まったく・・・そんな血の気をなくすほど嫌なら、こうなる前にとっとと抱かれとけば良かったんですよ。誰に、とは言いませんけれども。・・・白雪帝って、永遠の処女って意味かっての」
白雪帝というのは、スヴェトラーナの渾名のようなものだ。一応、処女という意味ではなく、銀紫の髪と日に焼けたことなど無いというような肌の白さから来ているらしい。
ぶつくさ言いながら湯船の湯を半分ほど捨て、戻って来たベラはいつの間にか手にシーツを持っていた。ばさりと広げられたそれには一部、点々と赤いものが付いていて、さらに別の何かによる染みもある。
「まさか・・・」
「嫌ですよ。勘違いしないでください。私のではありますけど、指を切った血です」
ほっとするスヴェトラーナをよそに、ベラは一度広げたシーツを無造作に丸め始める。そしてふと、その動作を止めると、スヴェトラーナへ向かってにいっと笑った。
「アレはちゃんと今晩採取してきた新鮮なものですから、ご心配なく」
今日もほぼ一日中一緒にいたベラが、今晩と言うからには、きっとどこかの物陰で短時間でささっと・・・と、いうところまで想像したスヴェトラーナは、顔が赤くなるのを自覚しつつ声を落として抗議した。
「ベラ!なんという不純な!」
主人の叱責もどこ吹く風で、ベラは寝台へ近づいてマルセルの様子を窺ってから、スヴェトラーナがいる窓辺へとやってきた。
「陛下」
「なんだ?」
ふてくされながらワインを飲み切ると、ベラは新しいグラスへワインを注いで差し出す。意図が読めたスヴェトラーナは、空のグラスを自分の向かいへ置くと、新しいそれを受け取った。
「マルセル様は陛下の熱狂的な信奉者で、緊張が限界に達すると気を失う癖がある方です。まさか最敬礼しただけで気絶するとは思いませんでしたが・・・しかし陛下、次もこうなるとは限りません」
「・・・わかっている」
それにマルセルを乗り切ったとしても、他にあと4人いる。つまり問題を先延ばしにしたにすぎないのだ。
ため息をひとつついて、スヴェトラーナはワインを一気にあおる。
義務だとわかっているのに、どうしてこうも嫌なのか自分でもわからない。
自分は皇帝なのだから、無体な真似をされるわけでもなし。ただベッドに横たわり、されるがままに受け入れればいいだけだというのに。
なんとなく空のグラスを眺め続けていると、横から伸びてきた褐色の手にそれを奪われる。もう一杯注いでくれるのだろうかとベラを見上げれば、呆れたような表情の彼女がグラスについていた紅をぬぐった。
「偽装するには十分な時が経ちました。お部屋へ戻りましょう」
グラスをテーブルへ置いたベラが、手を差し出してくる。その言葉にほっとしてしまった自分に苦笑しつつ、スヴェトラーナはゆっくりと立ち上がった。
**********
「陛下。本日のお相手はミハイル・ハル・ドゥヴァ様です。自己愛が過ぎる方ですが、害はありません」
ギデオンとベラを従えながら、スヴェトラーナは後宮へと渡る。今日も二人以外の侍女の同行を断った。
目的の部屋まで来ると、ベラがドアをノックする。少々の間の後、ゆっくりと扉が開かれた。今日こそはと気合を入れ、部屋の中へ入る。すると正面のソファの前で、1人の男が立って出迎えてくれた。
金髪に瑠璃色の瞳のきらきらとして眩しく感じる容姿の美男が立っていた。すっと整った鼻筋が、なんとなくギデオンに似ている気がする。
男はきらきらしい笑みを浮かべながらスヴェトラーナの近くまで来ると、足元へ跪いた。
「ドゥヴァの族長が次男。ミハイル・ハル・ドゥヴァでございます」
深々と頭を下げると、スヴェトラーナの爪先へ額を付ける最敬礼を行う。
「あぁ・・・美しい私こそやはり、陛下のような神の奇跡に相応しい」
何やら呟いているミハイルを見下ろしながら、スヴェトラーナはこの後の手順を思い返した。
昨日はそれどころではなかったが、まずソファで歓談して雰囲気を作り、それから隣の寝室へ移るのだったか。だがやはり、出来ることなら歓談などすっとばして、一思いにやって欲しい。
そう思って、茶器の用意をしていたミハイル付きの侍女たちへ視線をやった。
「さがれ」
顔を上げたミハイルがどういうことかとこちらを見ているが、無視して寝室へと向かう。ちらりと視線をやれば、困惑しながらも素早く立ち上がって付いてきた。
寝室は調度品が違うものの、大まかな配置は一緒で、窓辺の小さなテーブルにワインが用意してある。スヴェトラーナは毛皮を無造作に脱ぎ捨てると、これ幸いとテーブルについてワインをあおった。
扉の方を横目に見ると、相変わらず困惑した表情のミハイルが後ろ手に扉を閉めたまま立っている。
面倒くさい。
スヴェトラーナは心の中で悪態をついた。嫌で嫌で仕方がないのだから、気遣う気もおきない。
そのまま手酌でワインを5杯も口にすると、いい感じに酔ってきた。
後は好きにすればいい。
そんな投げやりな気持ちでベッドへ横になる。少しずつミハイルの息が上がってきている気がするが、もうどうでもいい。きっとこの後、あの荒い息をしながら圧し掛かってくるのだろう。
「・・・っは・・・はぁ・・・ふっ・・・」
一気に飲んだせいか、頭がぼんやりしてきた。そのふわふわと心地よい感覚に、スヴェトラーナは身を委ねる。
ミハイルの荒い息遣いを聞きながら、開けているのが億劫になってきた目を閉じた。
ベッドが軋み、隣へ誰かが横たわった気配に、スヴェトラーナは目を開ける。見知った天蓋とは違う事に驚いて飛び起き、すぐにここが今晩のお相手であるミハイルの寝室だと思い至って自嘲した。
「そうか。私はついに・・・」
「まだ、ですよ」
隣から聞こえたきらきらしい声に、ぎくりとする。まだ、ということは、これから事に及ぶということだろう。
恐る恐るそちらを見て、一気に気が抜けた。
「・・・声真似はやめろ、ベラ。お前のは完璧すぎて洒落にならん」
多才なベラは、一度でも声を聞けば完璧に真似ることができる。
ミハイルがスヴェトラーナの横で、昨日のマルセルと同様に幸せそうな顔で目をつむっていることから、きっと同じ薬を盛られたのだろう。
苦々しい表情のベラは、昨日と同じく丸めたシーツを持っている。なんとなく湿気を感じることから、もうすでに湯船の湯を撒いた後なのだと予測した。
「いえ・・・私もまさか、自他共にナルシストだと認めるミハイル様は放置プレイがお好きだなんて、夢にも思いませんでした。ちょっと様子がおかしいなと天井裏から窺いましたら、「この私を無視するだなんて!」と、非常に興奮されたミハイル様がドアの前に立ったままアレを扱―――」
「端折れ。」
「ミハイル様は、完全に無視して眠ってしまわれた陛下の横で、さらに2度ほどすっきりされて、そのままベッドへもたれかかるようにおやすみになられました。それはまあ、気持ちよくお休みなので、ついでに睡眠薬を盛りまして、お体を清め、ベッドへお連れしたところでございます」
どうやら盛ったのは睡眠薬のみで、湿気を感じるのは汚れたミハイルを風呂へ入れたかららしい。
と、いうことは昨日のような偽装はしていないという事だ。つまり、ミハイルが目覚めれば当然、義務を果たさなければならないわけで・・・。
「陛下・・・」
よほど情けない顔をしたのか、ベラが沈痛そうな声で呼びかけてくる。
大丈夫だ、と力なく彼女へ笑いかけたスヴェトラーナの視界に飛び込んできたのは、錠剤をミハイルの口へ押し込むベラの姿だった。
「おい。」
そんな流れだったかと咎めるスヴェトラーナをよそに、ミハイルの鼻をつまんで薬を飲みこませたベラは、胸元から取り出した本のページをめくる。
「ベッドの軋む音に・・・ミハイルは眠りから一気に目覚める。ぱちりと目を開ければ、そこには・・・ミハイルの上に跨がり、ただそこにある物へ何気なく向けるような、何の感情も浮かばない瞳の・・・スヴェトラーナが―――」
その後、昨日とは違った趣向の朗読を終えたベラと共に、スヴェトラーナは自室へと戻るのだった。
**********
「陛下。本日のお相手はムフ・ググ・アヂーン様です。脳みそまで筋肉で出来ていそうな人物ですが、害はありません」
ギデオンとベラを従えながら、スヴェトラーナは後宮へと渡る。今日もまた二人以外の侍女の同行は断った。
目的の部屋まで来ると、ベラがドアをノックする。するとわずかの間もなく、扉が内側へ開かれた。ぐっと拳を握って気合を入れ、部屋の中へ入ると、正面のソファの前で立って出迎えてくれるはずの部屋の主がいない。
さらに普通2、3人はいるはずの侍女もいない。
ふっと笑う気配に後ろを振り向けば、後ろ手に扉を閉めた男が笑みを浮かべていた。侍女が開けるはずの扉を開けたのがこの部屋の主だったのだ。
赤髪に瑠璃色の瞳の、がっしりとして凛々しい美丈夫が立っていた。精悍な面立ちの眉が、なんとなくギデオンに似ている気がする。
男は暑苦しい笑みを浮かべながらスヴェトラーナの近くまで来ると、足元へ跪いた。
「アヂーンの族長が六男。ムフ・ググ・アヂーンという」
深々と頭を下げて、スヴェトラーナの爪先へ額を付ける最敬礼を行う。それを見下ろしながら、スヴェトラーナはこの後の手順を思い返した。
昨日はすっ飛ばそうとして失敗した。今日は手順通りソファで歓談して雰囲気を作り、それから隣の寝室へ移ろう。
そう思って軽く頷いていると、立ち上がったムフに手を取られ、指先へぶちゅっと口づけられた。驚いている隙に、もう片方の手を腰に回され、引き寄せられる。
「どれほどこの時を待ちわびたか!」
感極まっているらしいムフが、鼻息荒く顔を寄せてくる。
思わず仰け反った時、ムフに抱きしめられているせいで少し浮いていた足が滑ってしまった。そのまま後ろへ倒れそうになり、とっさに滑った足を振り上げる。すると図らずも、ムフの股間に足が入り、金的を喰らわせてしまった。
「ぐうっ」
即座にスヴェトラーナを解放し、呻いてその場に蹲る、ムフ。小刻みに震える肩越しに、赤く染まっていく頬が見えた。
これは不味い。きっと怒りのあまり、頭に血が上ってきているのだろう。
「だ、大丈夫か?!」
声をかけると、素早くムフが立ち上がった。震える拳を握り、顔を真っ赤にして睨むようにこちらを見下ろしてくる。
その今にも暴行を働きそうなのを押さえているといった形相に、スヴェトラーナは恐怖のあまり、扉横に控えているベラへ助けを求めた。
「ベラ!」
「はい。陛下」
加勢しろと言うつもりで呼んだのに、ベラは彼女愛用の鞭を投げてくる。
一度、なぜ鞭を好むのかと聞いたことがあるが、「ベラと言えば鞭なのです!」と力説された。よく解らないが、そんなわけでスヴェトラーナも、鞭の扱いには長けている。
武器を手にしたことがムフの怒りを煽ったのだろう。完全に血が上り切った耳まで赤い顔で、スヴェトラーナを拘束しようというように両手を大きく広げた。
「陛下!!」
ムフの大きな声に、スヴェトラーナの恐怖は最高潮に達する。衝動のままにムフの脛を狙って鞭を振るった。
「はあうっ」
ムフが大きな体を震わせながら、脛を押さえて蹲る。そして潤んだ目でスヴェトラーナを見上げてきた。
「・・・?」
なんだろう。痛がっているにしては様子がおかしい。
反応に戸惑いつつも、反撃を恐れたスヴェトラーナは鞭を構える。するとムフが両手を床に付き、体を斜めに崩した姿勢で呟いた。
「・・・っと」
「は?」
実は聞こえてはいたが、聞き間違いかと聞き返したのだが・・・。
「もっと」
「・・・・・・・・・」
聞き間違いではなかったようだ。うるうるとこちらを見上げてくるムフの瞳には、期待がこもっている。
瞬間的に心が凪いだスヴェトラーナは、望みを叶えてやることにした。
「あっ!くぅっ!あぁ!!」
できる限り鬱血するような痕が残らないようにと、力を調整しながら、服の上を狙って鞭を振るう。
目前で大の男が鞭で打たれてよがっている様は、徐々にスヴェトラーナの精神を無の境地へと誘っていく。それでも残った理性が、痛みを感じにくい体の部分を狙わせた。
どうやらムフは尻を打たれるのがお気に召したらしい。四つん這いになってスヴェトラーナへ差し向けてきた。
「はああぁぁぁぁんんん!!!」
数回尻を打ったところで、ムフが嬌声を上げながらびくびくと痙攣し、床に伸びた。
重い沈黙の中、満足そうに目を閉じているムフの、ゆったりとした呼吸音が、やけに大きく聞こえる。
「はぁぁぁぁ・・・」
盛大なため息をついたスヴェトラーナの手から、音もなく近づいてきたベラが、そっと鞭を回収する。その後、ムフの傍らへ跪くと、自然な動作で何かを飲ませた。
無表情でこちらを見上げるベラへ、スヴェトラーナもまた無表情で頷く。
体の大きいムフの足を掴んで引きずるベラの後を追い、寝室へ入って重たい体をベッドへ上げるのを手伝う。そして官能小説の朗読を始めたベラを待つ間に、スヴェトラーナは湯船の湯を半分、浴室の床に撒いた。
「また、か?」
「・・・あぁ」
自室へ戻ってぐったりとソファへ身を沈める、スヴェトラーナ。
そんな疲れ切った表情の彼女へ、就寝の準備をしているベラに変わり、ギデオンが紅茶を入れてくれた。その香りから、少々ブランデーを垂らしてくれたのだと分かる。それを口に含むと、程よい酒分と甘み、温かさが、心地よい眠りを誘ってきた。
「ギデオン」
ぽんぽんと自分の隣をたたいて示せば、ギデオンが素直にそこへ腰かける。
彼の重みでソファがそちらへ沈み込んだ。それに伴って傾ぐ体を、そのままギデオンの方へとゆっくり倒していく。
こてん、とギデオンの肩へ頭を預けると、ほんの少し体をこわばらせた彼が心配そうに声をかけてきた。
「大丈夫か?ラーナ」
就寝前の、わずかなくつろぎの時間。
この間のみ、スヴェトラーナを皇帝ではなく、ただのスヴェトラーナとして扱うようにと、二人には頼んでいる。互いに幼少期からの長い付き合いな二人。ベラは嬉々として、ギデオンは苦笑しながら、その願いを受け入れてくれた。
「大丈夫、ではない」
そう言って盛大なため息をつくと、ギデオンがスヴェトラーナの頬へかかっていた髪を、丁寧に耳へかけてくれる。そのままするりと頬を撫でられたのがくすぐったくて、スヴェトラーナは小さく笑った。
「ギデオン。私を攫って逃げてくれないか?」
張りつめていた気分が安らいだ隙に、願望がふと口をついて出てしまった。
なにもかも捨てて逃げる。
それはなんて甘美な選択なのだろうか。
だがそれを実行しようと真剣に考える前に、無理だと、できないと思ってしまう自分がいる。
スヴェトラーナが退位すれば、現在第一帝位継承者である異母弟、ゼノベルト・オルカ・ドゥヴァ・バリーノペラが皇帝となる。
黙っていれば芸術品のように美しい容姿の異母弟が、「お前の治世の為に「夜の女神」を篭絡してやる!待っていろ!」とか言って、隣国へ留学という名の人質として旅立ったことは記憶に新しい。
あれは我が強いが、馬鹿ではない。皇帝となっても問題なく国を治められるだろう。
しかし問題は妃だ。ゼノは幼馴染みであり、また護衛でもあるダリアを心底愛している。だが残念なことに、ダリアの家格は妃とするには弱すぎるのだ。
例えごり押しでダリアを妃にできたとしても、彼女以外の女に見向きもしないゼノが、後宮の他の妃の元へ真面目に通うとも思えない。おそらくダリアのところへ入りびたり、それはやがて争いの種となるだろう。
では第二帝位継承者である、ソスラン・アンブロ・トゥリ・バリーノペラはどうかと言うと・・・あの毒でしかない母さえいなければ、まともかもしれない、こともないか。
かなり好戦的な性格なので、敵を作りまくって内乱が起きるか、隣国へ戦争を仕掛ける恐れがある。あまり皇帝の座を与えたくない人物だ。
以下の異母弟妹たちに関しては、まともなのもいるかもしれないが、歳の若いものほど帝王学を修めているのかさえ、怪しくなっていく。母であるチティリ妃には自分しか子がいないため、他の異母弟妹たちのことはよくわからない。
問いかけたものの考え込んでしまったスヴェトラーナに、ギデオンが寂しそうに微笑んだ。
「ラーナが本当にそう、望むのなら」
スヴェトラーナが義務を疎みつつも国を捨てきれない事を、ギデオンはわかっているのだろう。労るように、慰めるように、優しくスヴェトラーナの頭を撫で始めた。
「ラーナはもっと欲張ってもいいと思うよ」
眠気を誘う心地よさに目を閉じかけていたスヴェトラーナは、つと顔をあげる。ぼんやりした頭に浮かんだ望みを、素直にそのまま口にした。
「それなら・・・・・・キスして。ギデオン」
ダリアへハリセンを与えたのは、ベラです。




