9
「サヤ、わたしは今、モヤモヤしているの。考えるに、貴方に文句を言いたいわ。」
気がついたら、ボクは自分に割り当てられた部屋のベッドに寝ていた。
左腕を確認すると、腕はしっかりくっついていた。傷口がある部分には、包帯が巻かれている。
体の一部を切断することには躊躇いがなかったが、自分の傷口を見るのは苦手だった。こう、グロいのは、苦手だ。
芙巫女は再び完全無欠の美少女になっていた。
顔を見上げると、彼女は頬袋にひまわりをつめたハムスターのように、頬を膨らませている。
「ナゼ、全力であたためてと言ったのに、抱きしめてくれなかったの!」
「え、そこ!?」
「当たり前でしょう。メスがあたためて、といったら、オスは全力でメスをかき抱かなくては!わたしは、恋愛小説のヒロインの気持ちを味わえるかと期待したのに、サヤときたら!」
芙巫女はボクの鼻先に指を押し付ける。グリグリ痛い…
「自分の血液であたためるなんて。オスがメスにぶっかける体液は、白色液だけで十分よ。」
「お礼を言おうと思った気持ちが霧散した!」
「お礼って、腕のこと?わたしは何もしていないわ。サヤは勝手に助かったのよ。その辺に飛び散った血液も腕も、時間が経つとともに貴方に吸い寄せられていったし。腕も勝手にくっついたわ。」
「でもこの包帯を巻いてくれたのは芙巫女だろう。」
「違うわ。それは…」
「大丈夫か、樫立。」
芙巫女の背後から、救急箱を手にした長身の男性が顔を覗かせた。
「坂下先生。えっと。こんなところで何してるんですか。」
「いやいや、ちょっと待て。怪我の手当てをしてお前をベッドまで連れてきた俺に対して言うことはそれか。」
「アリガトウゴザイマス。」
「急に日本語が下手になったな?」
「坂下先生に運ばれたと聞いて貞操の危機を感じまして…素直にお礼を言えないというか。」
「男子はお呼びじゃないから安心しとけ。でも、せっかくお礼言うなら裏声で言ってくれね?お前のその格好なら、可愛いコスプレ女子からお礼を言われている気分になれる。」
「…。」
「冗談だよ。」
「…。」
「いいね、その目!ゾクゾクする。」
「…で、芙巫女は、体調大丈夫なの?」
気持ち悪い動きをするチャラ男を視界から外す。
「お陰様で。」
芙巫女は気取ったようにカテーシー。芙巫女の耳元に顔を寄せる。
「シモさんには腕と血、見られた?」
「ご安心。傷がほぼ治ったタイミングで現れたから。」
学校には人間として通っている。芙巫女にはもうバケモノであることはバレているが、他の人にはなるべく知られたくはない。
「驚いたぞ。廊下を歩いてたら、悲鳴が聞こえて、冷蔵室の前まで来てみたら樫立がぶっ倒れてたんだからな。何があったんだ。」
「実は…」
細かいところは適当に誤魔化しながら、冷蔵室に閉じ込められた経緯を話す。
上様は腕を組んで目を閉じて聴いていた。
「大体の経緯はわかった。しかし、よく冷蔵室から出られたな。」
「サヤがピッキングの名手で。」
「おい、樫立、変な犯罪とかしてないだろうな。」
器物損壊はしました。
「扉は?」
「大体直しておいたわ。」
指の先から顔を出した触手をちょいちょいと動かす。便利なものだ。
「まあ、犯罪したにせよしてるにせよ、樫立が特殊技能の持ち主で良かったよ。低体温症になっていたら命にも危険があったわけだから。」
「犯罪していること前提なんだね。」
シモさんがボクの頭をぐしゃぐしゃと撫でてくる。圧倒的な身長差があるせいで、子供扱いが悔しい。
「さて、ここからはお説教だ。お前ら、末吉を見に行ったろ。」
す、と上様が目を細める。にやり、と口元は微笑んでいるが、目は笑っていなかった。
狙いを済ました肉食獣のようだ。
芙巫女は気にした風もなく上様を見返す。
「それが?ツキコの部屋に入るなとは言われましたけど、ツキコを見るなとは言われてません。」
「それでも、だ。陸に上がったら警察が調査するんだよ。それまでに色々いじるのはまずいのはわかるだろう?それに…そんなに気安く死に関わるな。探偵ごっこしているみたいだが、そんなものはお前ら学生の仕事じゃあない。警察か探偵業に就職してからやりな。」
芙巫女は少し拗ねたように唇を尖らす。
「でも、わたし、ツキコがなぜ死んでしまったか明らかにしたいんです。ツキコだってそう望んでいるはずです。」
芙巫女の人間への適応力がグングン増している。恋愛のための犯人探しはどうした。
「確かに、これは事件だ。事故ではないだろう。ツキコは犯人を探してほしいかもしれないんだよ。だが、その遺族がどう思うかは別だ。」
どういう意味だ?
「…末吉グループの総意で、末吉月子の事故死が決定したよ。船上より誤って転落。救助するも、間に合わずってね。」
「なんで?」
「さてね。お偉いさんたちの考えることはわかるもんか。末吉の死はそれだけ重いってことじゃないか。責任を誰も取らずに済む決着点が、事故死という結論なんだろうな、とは邪推するが。」
「真実を明らかにせずに、終わらせて、それを気にせずヒトはいられるというの?」
「真実を明らかにすることで、多数の不幸を最大化するぐらいなら、多数の不幸の最小公倍数となる真実を作り出すのが社会ってもんだ。底土。社会で人間として生きていくに当たっては、そこを忘れてはいけない。」
「本当に、ヒトって理解不能だわ。」
「お前もヒトだろう。底土。いずれにせよ、俺が言いたいことは、末吉は事故死。事件ではない。ということだ。そして、事故の原因を突き止めるのはお前らじゃあない。ああ、お前らが閉じ込められた件は俺が調べておく。だからそれも調べる必要ない。つまりは、飯食ってクソして寝ろってことだ。わかったか?」
ボクとしては喜べる提案だが…芙巫女を盗み見る。
彼女は神妙な顔つきをしていた。
「わかったわ、サカウエ。じゃあ、ツキコのことをもう調べない代わりに、一つだけお願いがあるの。第3実験室の監視カメラ映像を見させて?」
「まだ調べる気じゃねえか。」
「だって気になって気になって眠れないのだもの。監視カメラさえ見れば、私はもう至極満足、安眠快眠だわ。このままでは残念無眠。私の幸せと、サカウエの提案との最大公約数だと考えてほしいわね。」
「…仕方ねぇな。かわいい女子の頼みだ。本当に、もう調べないと約束しろよ?」
元の軽薄なキメ顔だ。
「ええ、もう船内は調べないわ。」
芙巫女は今まで見たことがないくらいに艶やかに微笑んだ。