8
ボクは芙巫女をおんぶしている。
体温を確保するべく、僕との接触面積を増やすため、胸だけ男性形態。真っ平らだ。
せめてもの楽しみは完全に失われた。絶望だ。
「仕方がないでしょう。間があるとないでは、体感温度に5℃程度の差が生じて、わたしの思考能力に2割くらいの差が出るのよ。…なんならあとで、膨らませたおっぱい揉ませてあげましょうか?」
背中で寄せて上げるような動きを感じたが、残念ながら、今はなんの柔らかみも感じなかった。
「恥じらいというスパイスのかけたおっぱいは、生クリームのないケーキと一緒だ。」
「せっかくタダなのに…」
「タダだからといってなんでも喜ぶほどさもしい人間じゃあないよ。」
ボクは、芙巫女のジャージに包まれた細い太ももをがっちりと掴む。
ちなみに、芙巫女は防寒のため、制服の下にジャージの上下を二重に(ボクのと芙巫女のと)着用していた。
いわく、古くから伝わる、女子中高生の防寒方法らしい。ボクとしては、理解しづらい格好だ。
確かにスカートは寒いだろうけど、タイツを履くとか、もう少しかわいらしい防寒をすればよいのにと思う。
芙巫女は顎をボクの左肩に乗せて、顔をすり寄せて、手に持っていた厚手のストールをボクの首と芙巫女の首とをまとめてぐるぐる巻きにした。
「わたしの神経系は、ヒト種と同じで頭に集まっているのよ。頭はなるべく冷やしたくないのよね。」
芙巫女の吐息が頬をくすぐる。芙巫女の長い睫毛が、頬に影を落としていることに気づいた。
黙っていれば人形のような顔に思わずドキドキする。
作り物とはいえ、顔がいいってズルい。中身は痴女で幼女なのに。
「では、しゅっぱーつ!」
「はいはい。」
冷蔵室の扉を開けると、体中に冷たい風が吹き付けてきた。
部屋の中は窓も無いので、真っ暗だ。
扉から入る光を頼りに壁際にあるスイッチを入れる。
すると、青白い蛍光灯であたりが照らされた。扉を閉める。
部屋の中央には大きな実験用の黒い机がある。
その机の上には、ジッパー式の無機質な黒い大きな袋があった。高さ160センチ、幅60センチといったところ。
ボクには、そこから、触れてはならない気配が発されているように感じた。
肩越しに芙巫女を見ると、真っ青な顔で歯をガタガタ言わせていた。
美少女として、ちょっと人様には見せられない顔だ。
「一度出ようか?」
風を切るように思いっきり首を振る。
ジャージで完全防寒した足が、黒い袋指し示したあと、ボクの体にギュッと巻きつく。
ボクはため息をついて、黒い袋に近づき、ジッパーに手をかけた。
芙巫女を振り向くと、首を縦にふる。
見たいか、と言われると、見たくはない。
だが、せめてちゃんと、お別れくらいは言ってもいいのかもしれない。
謎を解く、という気持ちはないが、芙巫女の言う通り、死者と向き合うのは大事なことかもしれない。
ボクは瞳を閉じて、一息にジッパーを下ろした。ぱさり、と袋が観音開きに開かれる。
そこで、月子は幸せそうに眠っていた。
生きていた時のような、かわいらしい頬の赤みはない。
しかし、とても穏やかな微笑みが、そこにはあった。
まるですぐにでも瞳を開きそうだ。
月子に見惚れていると、ぶすり、とボクの脳みそが背後から貫かれた。
痛みはないが、異物が体内に挿入されている違和感。
違和感の元を絶とうと、首を振ろうとしたところ、頭の中に声が響いた。
『触手を通じて、あなたの脳と直接話せるようにしたわ。』
驚いて芙巫女を見ると、相変わらず物凄い顔で、歯音を立てていたが、片目をうっすらと瞑ろうとしていた。不恰好なウィンクだ。
『音声を使った会話は、今の私には不可能なので、しばらくこれで話させて。サヤの体に害はないわ』
「わかった。それで、ボクはどうすればいい。」
『ツキコの首元に近づいてちょうだい。』
言われた通り、月子の頭側に行き、首元を覗き込む首にはうっすらとロープの痕が残っていた。
「死因は、絞殺だ。」
『いいえ、わからないわ。採水器に縛り付けられた痕かもしれない。…違うわね。手首と足首についているロープ痕と、首のロープ痕が微妙に違うわ。』
芙巫女の言う通り、首のロープ痕の方が、ロープの幅が太いように見える。
ロープの痕以外は特に体に痕はなかった。
『ねえところでサヤ…寒いから早く出ましょう?』
「もういいのかい?」
『ええ。あとは、乗船者の話を聞くだけで、犯人がナゼ、ツキコを殺す必要があったかがわかるわ。もはや新しい情報のない場所に長居する必要はない。』
ボクの脇腹を足で叩いて、外へと促す芙巫女。
ボクは黒い袋を元どおりに治した後、扉のノブと手を伸ばす。ノブを捻る。…がちゃり、と音がした。
アレ?
「開かない…?」
七海丸は就航して10年以上経つ。建てつけが悪かったかなぁ、と思い何度かノブを捻るが、無情な金属音が鳴るだけだった。
指先の感覚を強化する。扉のギミックの状況を確認する。鍵がかかっている!?
「芙巫女、鍵かけた?」
『そんなわけないじゃない。それに、ここの鍵は外に付いてるわ。どうやって内側からかけたっていうの。え…閉じ込められ…た?」
芙巫女の言葉に、ひやり、としたものが背筋を通る。閉じ込められた。なぜ?
『今回はナゼよりも、どうやってここを出るかよ。命に別条はないかもしれないけれど、こんな寒いところにずっといるわけにはいかないわ。』
「…そういうわけにはいかないみたいだよ。」
ボクは壁面についているデジタル温度計を指し示す。
数値は0を示しており、コンマ単位で下降を続けていた。それが意味するのは…
「室温が下がっていってる。」
吐息が白く変色していた。冷蔵室に入った時には無色透明であったはずだ。
温度計で客観的に室温が下がっていっていることに気づいて、体感温度がとてつもなく低下した気がした。
背負っている芙巫女の体が震え出す。
ただでさえ色白な彼女の顔が、青みを帯びて透けるような白さになっている。
『出口はこの扉だけ?』
「排気孔とかあるかな…」
排気孔を天井に見つけるが、あいにく人が一人通れるサイズではなかった。
外界と繋がるためには、鍵をかけられた扉を開くしかない。
「芙巫女。ごめんね。ちょっと下ろすよ。」
芙巫女を床に下ろす。悲鳴があがったが、今はそれに構っている暇はない。
温度計は氷点下を示している。指先が赤くかじかみ出した。
ボクは内腿からアンプル瓶を取り出し、柄を折る。中に含まれる紅色の液体…血液を煽る。
喉が、胃が…血液が通ったあとが熱く沸る。
「【強化】。」
血液を腕から指先にかけて改めて集中。
一時的に脳に使う血液量を減らして、思考能力が減退する。
視界が歪むが、今は無視。ドアノブを掴み、無理やりねじる。…あっ。
「ねじ切れた。」
『この単細胞!』
「ボクは多細胞だよ!」
ドアノブだけが取り外れた。鍵のギミックは扉に残されたままだから、扉は開かない。
むしろ、より開かなくなった。仕方がない。扉を引きちぎる!
ボクは扉のヘリに指をかけた。
『待ちなさい!それで更に歪んで開かなくなったらどうするの。』
「でももう力技しかないだろう。」
『わたしがやるわ。』
「でも芙巫女は今、動けないんだ…ろ…」
床に降ろした芙巫女を見下ろすと、彼女の体が透明なゲル状に溶けていた。
「うわあああああああああああああああっっっ!!!!!」
『びっくりさせたかしら。ごめんなさい。』
ボクはびっくりし過ぎて尻もちをついた。
伸びる細い管がボクに繋がっていることで、辛うじてそのゲル状の物体が芙巫女であることがわかる。
そんなボクを余所に、それより、と頭の中に声が響く。
『わたしを全力で温めなさい。そうすれば触手が使える。開錠なんて1秒でやってやるわ。』
彼女は頼もしい声でボクに近づいてきた。
「その不定形でも移動できるんだね。」
現状を棚に置いたような考えが頭をよぎる。これを現実逃避と、人は言う。
『悠長に話す時間はないわ。わたし、とても眠いの。お願い、早く…」
「1秒でも温まればいいんだね。わかった。」
ボクは自分の左腕に噛み付いた。犬歯を思いっきり突き立てて、顎を引く。
よし。腕に切れ目が出来た。
ボクはその腕を、引きちぎる。
噴水のように、水鉄砲のように溢れ出す、暖かな血、血、血。
心臓に押し出されるそのボクの体液を、芙巫女に思いっきりぶちまけた。
「これでど…う…かな…?」
不定形な芙巫女がドアにへばりついたのを尻目に、ボクは意識を手放した。