2
航海には『ゲン担ぎ』がつきものである。
四方八方、海に囲まれ、船が沈んでしまったら、生き残るのすら絶望的。そんな環境であるからこそ、航海が無事に終えるように航海中は様々なゲン担ぎを行う。
例えば、有名なものに『赤道祭』がある。
これは、赤道近くの海域を通過する際に、海の神様(地域によって異なるが多くは女神様であることが多い)に事故がないように祈るお祭りで、乗組員全員で海の神様を讃える寸劇をする。
このときばかりは、身分の上下関係なく、無礼講のお祭りになる。古くは大航海時代にまでさかのぼる由緒正しきお祭りらしい。
余談であるが、もともと風がないと船が動かなかった時代、赤道近くは無風になるため、神に祈っていたというのが由来である。
閑話休題。
うちの先生方が言うには、このゲン担ぎのひとつが航海スタートパーティである。
いわく『航海の始まりをみんなでお祝いすることで、全員の結束を増して、勢いに乗る!』とのこと。
竜頭蛇尾という言葉もあるが、それは置いておいて。
さて、このパーティ。なんとドレスコードがあるのだ。先生方いわく「可能な限りおしゃれ!」とのこと。実にアバウトなドレスコードである。
ただ、船上での作業のため、多くの学生がジャージにスニーカーであることを考えると、そんな格好ではパーティと言えるか!ということなのだろう。
事実、ボクも、普段は船上の作業に適した動きやすい格好をしている。綿のTシャツの上にウィンドブレーカーを羽織り、下はショートパンツとタイツ。そして足先に鉄板が入った安全靴もとい、スニーカーだ。
ということで、実験室を後にし、自分のあてがわれた部屋に戻ったボクはパーティ用に準備した洋服に着替える。
ついでに、洋服に合わせて軽く化粧。自分で船内に持ち込んだ全身鏡を確認する。うむ。完璧。
すこしコルセットが苦しいが、ご愛嬌。おしゃれの真髄、それは我慢である。
洋服に合わせた靴を履いて、食堂へ向かう。
ここで、すこし時間があるので、船内の解説をしよう。
船は3階+地下1階。それに甲板が4か所。1階は乗組員全員の居住スペースがある。
乗組員の部屋は基本的には二人一部屋であるが、今回は乗船した学生が少なかったため、女性には個室をあてがわれていた。船上では女尊男卑がしばしばまかり通るのだ。
部屋の中には二段ベッド、机と椅子、洗面台と冷蔵庫完備。テレビもあるが、残念ながら電波が入らないので、録画された映画やドラマがチャンネル指定で流れている。
トイレとシャワー室(風呂釜は存在しない)は共同で使う。また、大きな食堂もこの階にある。今日のパーティはここ で開かれる。
2階が実験室。全部で4つある。
実験室にはウェットラボ、ドライラボがある。
ウェットラボでは実際に海水や生物を使って実験する、濡れても良い実験を行う。
ドライラボでは逆に、濡れたら困るもの…たとえば、パソコンを使った解析などを専門に行う実験室だ。
この船にはウェットラボが2つドライラボが1つ、どちらにでもOKな実験室が1つある。
ちなみに、ボクがさっきまでいた実験室はドライラボだ。
ボクの場合、ほとんどの時間をここで過ごす。
3階は管制室。学生の出入りは禁止されている。
地下には倉庫があり、雑多な実験道具が積まれていた。
エンジンルームも地下だが、こちらも基本的には学生の出入りは禁止されている。
分厚い金属製の重いドアを開き、食堂に入る。
テーブルには食事と色とりどりのスナック菓子、ペットボトルのジュースが整然と並んでいた。
全員の視線を一身に集める。ボクが最後のようだ。空いている席に着く。
ボクのクラス担任の坂上先生(通称上様)がメガネを軽く押す。
「さて、全員そろいましたかね。」
坂上先生が演説を始める。坂上先生は今年で53歳。ここ数年で話が長くなったことが有名だ。
歳を取ると、自分の時間感覚がどんどん鈍くなる。
「ジャネーの法則ね。」
隣に座っている少女がつぶやいた。すっと、切れ長の瞳が僕を捉えている。知らない顔だ。
「生涯のある時期における主観的な時間の長さは、年齢に反比例すると言われる。19世紀フランスの哲学者、ポール・ジャネが発案。赤ずきんちゃんが18歳と仮定すると、坂上先生にとっての5分の演説は、赤ずきんちゃんにとって15分程度となる。退屈を招くには十二分かしら?」
「そんなに退屈そうな顔していました?」
長い黒髪を軽くかきあげながら、少女は優雅に微笑む。美人だな、と思った。
「ところで」
少女はボクのスカートのすそつまみ、小首をかしげた。
「なんでこんな格好しているの?」
「…変ですか?」
「いいえ、とってもお似合いよ。おとぎ話からそのまま出てきたみたい。ロリィタって言うんですっけ?」
「正確に言うとちょっと違うのですが、だいたい合ってます。」
今日のコーディネートテーマは赤ずきん。ずきんのついたケープに揃いの膝丈ジャンパースカート。いずれも手編みのレースがふんだんに使われている。
足元は編み上げのブーツを履き、クラシカルな装いを目指してみた。
ちなみに、自分の身丈に合わせるため、洋服はすべてボクの手作りである。この服をつくったおかげで、レース編みが格段に上手くなった。
隣に座る美少女と歓談している間に、坂上先生自身が、自分の演説の長さに周囲が辟易し始めたことに気づいたらしい。演説も締めに入り始めた。
「さて、乾杯の前に、一つ紹介を。今回の2016年第5回、七海丸航海では、T大付属だけでなく、H大付属の学生も1人参加しています。ソコドくん、自己紹介をお願いします。」
隣の美少女が立ち上がる。ふわりと良い香りがした気がした。
「坂上先生ありがとうございます。H大付属海洋高等学校3年のソコドフミコと申します。土の底で底土。ハスを意味する芙蓉の芙に、かんなぎの巫女で、芙巫女と書きます。今回の航海では浮遊性の原生生物の採集を目的として乗船しております。初めての航海です。至らぬ点が多々あるかと思いますが、どうぞよろしくお願いいたします。」
卒なく自己紹介をこなしたのち、楚々と着席した。
「…では他の学生も簡単に自己紹介しておこうか。ええっと、では、大賀郷くんから」
急な指名に大賀郷さんがあたふたと立ち上がる。立ち上がっても立ち上がらなくても顔の位置が変わらないように見えるのは気のせいだろうか。
「お、大賀郷、はるかです。2年1組です。そこの大賀郷は、兄です。好きなものは金平糖です!よ、よろしく、お願いしまふ。」
あわわわわ、という文字が彼女の背後に見える気がした。顔を真っ赤にしながら、着席する。ちょっとこの部屋暑いんじゃない?なんて横に座る月子に呟いていた。
「末吉月子、3年2組です。好きなものは予定調和。海水中の窒素を主とした栄養塩類の測定のために乗船しています。よろしくお願いします。」
「3年1組の大賀郷。よろしくネ。」
「樫立です。3年2組になります。さや、と呼んでください。海水中の小型藻類の採集のために乗船しています。よろしくお願いします。」
ボクが着席すると、坂上先生が立ち上がる。
「最後に、こちら、今回の学生担当航海士の坂下さん。みなさん、船上の生活で何か困ったことがあったら彼に相談してください。」
茶髪のよく日に焼けた青年が立ち上がる。肩につく長さの髪を後ろに流しているうえ、金色のピアスをしているせいでチャラい、という印象が先立つ。そして、事実、女子好きのサーファーである。
通称シモさん(ひどい)。軽薄な笑顔で会釈をして席に着いた。
「みなさんありがとう。あとで底土さんには全員の名前が載った名簿を配布するので顔と名前をしっかり覚えとけよ。では、みなさん、飲み物の準備をして…乾杯!」
手持ちの紙コップを掲げて、パーティが始まる。中身がソフトドリンクであるのが少し残念だ。
「20歳になってからにしましょうね。」
底土芙巫女がコップに口をつけながら、ちらり視線をよこしていた。
「ボクの表情ってそんなに読みやすいですか。」
「たまたまよ。わたしも同じことを考えていただけ。えっと、サヤ…さん?」
確かに、彼女にアルコールはひどく似合う気がした。ぶどうジュースを飲んでいるはずなのに、ワインを飲んでいるようにしか見えない。
「さや、と呼び捨てでよいよ。敬語もいらない。」
「では、わたしも芙巫女で良いわ。では、サヤ。一つ教えてもらいたいのだけれども…」
唇に人差し指を乗せて、ボクに顔を寄せる。
「この部屋にいる人間関係を簡単に教えてくれないかしら。5泊6日と短い航海ではあるけれども、その間、地雷を踏まずに平和に過ごしたいのよ」
初の航海だということだが、よく状況を理解している。
研究航海中に一番気をつけなくてはならないのは、自分の実験の完遂ではない。
もちろん、自分の実験の完遂することは、航海の目的ではある。
だが、それを越えて細心の注意を払う必要のあることが、体調管理である。
研究航海では、船を動かす船員と、実験をする学生、引率の先生しか乗船しない。
また、基本的に外洋のど真ん中に船がいるため、船内で体調を崩した場合、すぐに医者にかかることができないのだ(レジャー航海では船上に医者が乗っていることがままあるが、研究船ではまず無い)。
それだけではない。体調管理というのには、心の調子の管理も含まれる。
たとえば、こんな話がある。
ある男子学生が乗船したが、同乗した他の学生とウマが合わず、孤立した。
逃げる場所がない状態で3日。船酔いもひどかったらしく、体調も悪化し、食事も喉が通らなくなった。
結果、男子学生は海に飛び込もうとしたらしい。
研究航海中は200平米にも満たない閉鎖空間で生活を余儀なくされる。
ただでさえストレスフルであるのに、加えて、船の中にいる人間は30人足らず。
学生と船員(航海士)とはあまり接しないため、現在の状況においては、5人+先生(シモさん含む)の濃密な人間関係のなかに6日間いなければならない。
心の調子の管理には、円滑な人間関係の構築、維持が必要となる。濃密な人間関係は、結束するのも早いが、疑心暗鬼に陥り、一度崩れれば、もろいものだ。
初めての航海でどこまでこのことに気づいているかはわからない。
しかし、ある程度、船上での人間関係の重要性を察しているように見える。
底土芙巫女は、見た目だけでなく、中身もよくできた人間らしい。
「月子…末吉さんと大賀郷が交際中。仲は悪くなさそう。月子は面倒見のいい委員長キャラ?かな。大賀郷さんのことは学年が違うからよく知らない。」
大賀郷に妹がいたことを初めて知ったくらいだ。
「そう。ちなみに大賀郷クンと大賀郷サンは、サヤから見たら現段階でどんな人?」
面白いこと聞くな、と思った。
「マイペースと、ツンデレロリ。」
「ふふ。面白いこと言うのね。」
ふふ、という笑い方がひどく似合う上品さの持ち主である。
「ちなみに、サヤにとって、意中の方はこの中にいるのかしら?月子さん?」
「面白いこと言うね。月子は友達だよ。」
「あら、残念。三角関係だったら素敵だなと思ったのだけれども。」
「素敵?どのあたりが?」
恋愛における三角関係ほど無意味で非効率で虚しいものはない。そもそも、両思いの間に入り込むことは、三角関係とは言わない。
「どんな環境にも関係なく、恋に全力なもの同士の関係性よね。何事も、全力って素敵よ。それに加えて、誰もが相手の背中を追っているのよ。ある意味、永久機関だわ…」
「何も生み出さない永久機関だね。」
徒労だけしか残らなそうだ。
「サヤは恋愛が嫌い?」
「報われない恋はしたくないね。」
「ワガママね。」
「そういう芙巫女は報われない恋愛したいの?」
芙巫女は人差し指を自らの唇にそっと、乗せる。
「報われるか報われないかは関係なく、わたしは恋がしたいの。でもお相手がいなくて…今はヒトとヒトとのさまざまな恋愛模様を観察して、研究しているところ。」
月子さんと大賀郷くんの観察が楽しみだわ、と楽しそうに微笑む芙巫女に、ほどほどにね、と声をかけることしか思いつかなかったボクでした。