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人生初小説です。よろしくお願いします。
体を跳ね起こして、枕元にあるヘアゴムをつかむ。二段ベッドの二階から飛び降りた。腰まである髪の毛を一つにまとめて自室を飛び出す。廊下を駆け出す。普段ならば鏡の前で自分のスタイルチェックをするが、そんな余裕はない。
「ひぇええやばいやばい」
規則的に感じるエンジンの振動と、床の揺れを感じ、バランスを崩しつつ、廊下の手すりにつかまりながらもひたすら前に進む。
今日のスケジュールを思い返すに、ボクが自分の仕事に間に合うかどうかは分の悪い賭けだった。
60度に近い二階への階段を駆け上がり、第3実験室の扉を叩き開ける。
今は研究航中。
200平米・・・学校の25メートルプールにも満たない限られた空間で集団生活をする身としては、集団から逸脱した行動は厳禁。
ましてや寝坊して遅刻!などというのはもってのほかだった。
ボクが所属しているT大附属海洋高等学校では、一般的な普通科の高校と比較すると少し変わっている。
まず一つは学校名に海洋と名のつく通り、海に関わる授業がたくさんあるのだ。
もちろん、英語、国語、数学、社会、理科・・・といったフツーの科目も存在する。
だがそれ以上に海洋環境、水産生物、漁船運用、栽培漁業、ダイビング・・・のように、海やそれに関わる産業についての科目を学ぶ。
ボク自身、普通の高校生です。と言いたいところだが、ボンベを担いで海に潜れて、小さな漁船を運転できるようになっているあたり、ちょっと普通とは言いづらいのが悩みである。
もう一つは、高校の卒業要件に「卒業研究」というものが存在する点だ。
高校生活で学んだ知識を活かして、三年生時に研究船に乗り、研究を行うといったもので、研究内容は自由なのだが、研究航海に参加しないと、留年が決定する鬼畜仕様だ。
かく言う、ボク、樫立さやも、卒業するべく、研究船「七海丸」に乗船しているのであった。
「21分12秒遅いよ、さや」
同じクラスの末吉月子の表情を見るに、ギリギリ間に合ったようだ。
「ごめんごめん。今、何メートル?」
「あと120メートル。約20秒後にウィンチスローかな。」
思っていたより、余裕があった。表情を読まれたのだろう、月子がちらりとボクを見上げる。
「途中で船、結構揺れたからウィンチ速度落としたんだよ。予定通りならアウトだったかな。」
月子がオペレーター席をわたしに譲る。席につき、ヘッドホンとマイクをつけた。
「今回の採水って、誰の分?」
「採水量からいって、哀くんじゃないかな。正直、こんなたくさんの量を卒業までに捌けると思わないんだけど。」
月子の眉間にシワが走る。
卒業研究のための研究航海では、全く異なる研究テーマの持ち主が同じ船に同乗し、みんなで協力してサンプリングを行う。
今回行っているサンプリング…採水も同じで、一人の研究データのための海水を、乗船者全員が協力して行う。
今は12月。卒業研究をまとめて発表するのは1月。
大量にサンプリングしても、そこから得られるデータを卒業研究に盛り込むことは、時期的にかなり難しい。なので、卒業研究に使われる可能性が限りなく低いサンプリングをするというのは、手伝う側からすると、非常にヤル気が削がれるのであった。
でもまぁ、今は狭い空間での共同生活中。文句はいわない。
月子のご機嫌をとることにする。
月子の眉間に人差し指を乗せぐりぐりした。うりうり。
「せっかく彼氏と同乗なんだから。可愛い顔が台無しだよ。」
ぼふっと。月子の耳が赤く色づく。
「彼氏?誰のことなのかな?』
表情は変わらない。顔面の筋肉を総動員しているようだ。
月子の言う哀くん…大賀郷哀と月子が付き合っていることは、誰もが共有している秘密であった。
月子の反応に思わず頬が緩む。
末吉月子は、自分に厳しく他人にも厳しい。
だが、大賀郷に対してはとりわけ厳しい。
それが相手へのちょっとした期待であったり、面倒見の良さの発露であったり、とにもかくにも愛情に由来するものであると思うと、心がほっこりするのだった。
大賀郷とは一度たりとも同じクラスになったことがないため、その人となりは知らないが、月子の反応を見るにそんなに悪いやつじゃないのかなーと思っていた。
背後からの気配を感じ振り向く。誰もいない…
「あの、えっと」
視線を下げると、大賀郷はるかが困ったように立っていた。身長135センチの視界の入らなさは伊達じゃない。忍者にでもなれそうだ。
「べ、別にあなたのたっ、ために、言うわけではないのですけど!ウィンチスローにしなくて大丈夫ですか?」
同時に、自分のしているヘッドホンから言葉にするにははばかられるような罵声が飛んできた。…とりあえず、ナイペタですみません。
慌ててマイクを口元に寄せて、本来の業務に戻った。
『ウィンチスローでお願いします。次は表層5メートルで採水します。』
船内全体の放送でボクの声に合わせて、モニター越しに採水器を引き上げる速度が低下したのが見えた。
研究航海中に使われる採水器は、ロゼット採水装置と呼ばれるものだ。
高さ1メートちょっとの円筒状の採水ボトルが、リボルバー式拳銃のシリンダーを縦にしたように、ぐるりと12本並んでいる。
ボトルのふたを開けた状態で採水装置を一度海底すれすれまで沈め、ゆっくりと採水器を引き上げながら、採水したい海底深度で採水ボトルを閉める仕組みになっている。
海は海底深度によって、化学的構造も生物学的構造もまったく違う。
ロゼット採水装置は、1度、機械を動かすだけで最大で12種類の深度でサンプリングをできるすぐれものだ。
ちなみに、採水ボトル1本につき12リットル採水することが可能なので、1回装置を動かすごとに144リットルの海水を得ることができる。
大賀郷がどのような実験を行うかはわからないが、144リットルの海水すべての解析を行うというのは生半可な作業量ではないのは想像できた。
それをあーだこーだ言いつつも、月子が手伝うのだろうなぁと思うと、他人事ながら不憫になった。
合掌。
採水システムを制御しているパソコンのモニターを確認すると、採水器の深度が5メートルになったことが知らされた。
『ウィンチストップ。採水しますので、少々お待ちください。』
キーボードを走らせて、採水ボトルの蓋を閉める命令を送信する。
あれ?
「どうしたの?」
「んー…2本とも閉まらない。」
モニターにはエラー表示が出ていた。エラー解除に励んでみたが、無情にも表示は消えない。
「ハードの問題っぽいなぁ」
「何かはさまっちゃった?」
海藻などがはさまって、採水ボトルのふたが閉まらないというのは、稀にある事故だ。
他の人が行った採水キャストを確認する。今までは順調に採水していたようだ。海藻説濃厚。
「とりあえず全部あげちゃって、あとでもう一回、採水しよう。他のボトルは閉まるわけだから。月子は大賀郷のところに行って、5メートルは採水できなかったこと伝えてきて。」
走り去る月子の背中を尻目に、キーボードを走らせ、命令を送信。
『採水終了です。ウィンチあげてください。』
しばらくすると、採水器がゆっくりと水面から現れた。
ワイヤーに吊られた採水器が船の揺れに合わせてゆらゆらと揺れている。
甲板に収容するべく、採水器を着陸させるための足を複数人が掴み、船側に引き寄せる。
モニターからみるだけでは、採水ボトルに問題があるように見えなかった。採水器を着陸させる。
月子がモニター内に現れる。採水器の裏側…モニター越しでは死角となるところに移動する。
再び月子が現れて、月子とその場にいる人々で何かの相談をし始めた。
しばらくすると、月子が戻ってきた。顔を手で覆って。
「哀くんがボトル、つけ忘れてたんだって。」
「?」
「5メートルの採水をする予定だったボトルを、そもそも採水器につけてなかったみたい。」
「あらま。」
ボトルをつけ忘れるとは、なかなかの大物である。
なるほど、そもそもボトルがついていなければ、ボトルの蓋を閉めることができないのは道理だった。
「哀くん的にはもう採水はしなくていいって。」
「今からもう一回採水ってなると、パーティの開始時刻に遅れちゃうしね。」
今日は航海初日。研究航海スタートパーティの日であった。
「62分+αってところかしら。」
「内訳は?」
「哀くんがごねるのに1分。採水器のセットのし直し、31分。採水するのに20分。片付けに10分。」
今まで、彼女の時間計算が狂ったことはなかった。
パーティ開始時刻が遅れるということは、つまり、パーティが終わる時刻が後ろにずれることを意味する。
研究航海中に、学生の監督をするだけがお仕事の先生方は別にいいだろうが、昼夜問わず実験をする学生にとって、パーティ終了時間のズレはそのまま、貴重な睡眠時間減少を意味する。
可能な限り避けたい事態だ。採水しなくて良いというのなら、それに越したことはない。ボクが楽できる。
キーボードを叩いて一通りの実験装置の電源を切る。
「よし、食うぞー!」
「さやの『食う』はホントに『食い貪る』って感じだよねぇ」
聞こえないフリをして、実験室をあとにした。