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課題小説  作者: 桜椛
4/4

6月 君のこと何も知らない

 澄み渡る青い空の下、地上を埋め尽くさんばかりの濃いピンクが咲いていた。

 枝から垂れた無数のそれらの合間から、漆黒の花が覗く。

 少年は、その不統一な黒に惹かれる。

 鼻腔を擽る馨しい桜の花、視界に揺れる漆黒の──髪。

 振り返ると現れる、季節外れの淡雪が、これまた不統一さに拍車をかける。

 だがそれは、不統一でありながらある一点においては確かな魅力を放つ因子として絶妙な統一性を見せていた。

 透き通る白、流れる黒、揺れるピンク。

  


 一陣の風が桜の花を揺らすとき──少年は少女に恋をした。





 暖かかった陽光はその強さを少しだけ増し、月の出番が少し遅くなった頃。

 少年は、川沿いの並木道を小さな歩幅で歩いていた。

 すっかり緑の葉を生やしている枝垂れ桜は、風に揺れて激しく音を立てる。それに呼応するように水面が漣を立て踊りだす。

 少年はその光景を見ては、顔をだらしなく弛緩させる。

 それも無理からぬことであった。人は誰しも好きな人のことを考えているときその顔は綻ぶものだ。だってそれは好きなものに対する正常な反応なのだから。

 少年もまたそれに倣い、目の前の光景からフラッシュバックのようにある光景……人物を思い浮かべていた。

 

 今日は陽気が良く、風当たりも柔らかく気持ちがよかった。そのため、散歩に出向いていたのだ。

 そうしてまるで連れられるかのように、近所にあるこの川沿いの並木道を歩いていた。

 少年からしたら散歩という一つの目的から外れているのかもしれない。

 また彼女に会えないかな。

 そう思っているに違いない。というか会いたいという気持ちが強いのだろう、それは顔に分かりやすく出ている。

 

 暫く歩いたところで、少年は川柵へ身を預ける。

 川は緩やかに流れており、家鴨の親子がその中を必死に泳いでいた。

 風に乗って落ちてくる葉が一緒に流れるのを見たり、微かに潮の匂いを感じながら、少年は雲でもかかったような顔をしている。

 それを助長させるように重苦しい息を吐く。

 何とも不釣り合いな光景だ。

 

 …………不釣り合いな光景。


 少年の目が開かれていく。雲が一気に晴れ、世界に光が灯る。

 落ち込んだ気分なんてすぐさま吹き飛ぶ。寧ろさっきまで落ち込んでいたことなんてことすら忘れるほどだ。

 まさかまた会えるなんて。

 そう、川を挟んだ向こう側に、彼女がいたのだ。


 それを認識するのに1ナノ秒もかからなかった……気分だ。

 少年の瞳が彼女へと吸い寄せられる。彼女の存在をより認識するために水晶体が拡張し、網膜へより焼き付ける。

 二度目の邂逅。視神経を通して彼女という存在の実像が、脳へと重い衝撃を与える。それは一生忘れることはない、忘れることができないもの。

 だから少年は、身を乗り出して彼女へ手を振ろうとして──川へ落ちた。



 


 少年が目を覚まし最初に見たのは、白い天井だった。

 記憶を探りながらここがどこなのかを考える。病院かと思ったが、すぐに黒い帽子とチョッキを着た男が見えたことから、ここが交番だということを理解する。

 


「あぁ~大丈夫君? 駄目だよ、川なんか飛び込んじゃ。あそこ結構堀深いんだから、下手したら海まで流されてお陀仏だったよ?」



 日々の仕事がその顔と髪に現れている警官は、何でもないことのように軽くそう言う。

 少年はまだはっきりとしない頭で考える。冷えた体温を感じながら掛けられていた毛布を握り、自分が川に落ちたということを改めて認識する。

 だけどそこから交番にいる事態というのが腑に落ちていなかった。


 と、そこで警官は重苦しそうに腰を上げると、奥へ消えてからマグカップを片手に戻ってきた。

 中にはコーヒーが入っているのか、湯気が立っている。それを息や手で冷まし乍ら少年へと渡す。

 少年はまだ判然としない頭でそれを受け取り、猫のようにちょびちょびと飲み始めた。



「全く、あの女の子が助けてくれなきゃ本当に君今ここにいなかったよ? 今度会った時にでもお礼するんだね」



 その年老いた警官の言葉に、少年の目が開かれていく。

 彼女の存在を思い出して外へと駆け出そうとする。



「もういないよ、君が運ばれてから三時間は経ってるんだから」



 三時間。そんなに寝ていたのかと少年は絶句する。

 だがいてもたってもいられなかったか、警官へお礼を言うと、すぐさま駆け出したのであった。

  

 

 それから辺りを探し回ってみたが、彼女のことを見つけられなかった。

 日も暮れて帳が落ち始めてきた。落ちた場所へ戻ったり、お店の人や通行人に話を聞いてみたが、確かな情報は得られないままこの時間になった。

 流石に諦めた少年は、くしゃみを一つ漏らし俯き帰るのであった。




 

 翌日、少年はまた並木道を歩いていた。

 昨日会った時は川を挟んだ向こうにいたため、今日はそちら側を当てもなく歩いているのであった。 

 

 だがもとより当てのない捜索、そう簡単に見つかるはずもなかった。

 歩き疲れた少年は、通りにある団子屋で一服することにした。

 緋毛氈ひもうせんの敷かれた長椅子に座り、御手洗団子を食む。



「おやおや、中々乙なものだねぇ。若いもんが珍しい」



 その歴史を顔に刻んだ老人が、お茶を片手に歯の抜けた笑顔を見せる。

 愛想を浮かべて川へ視線を戻した少年は、その先にある人物を見つける。



「んぁ? そういえば君、昨日川に飛び込んだって噂の……あ、そうじゃ、それで女の子に助けられた──」


少年の耳に、もはや老人の声は届いていなかった。そんな事より、今目の前に飛び込んできた映像に夢中なのだ。

 枝垂れ桜の葉の隙間から、風と共に流れる黒き夜空。まるで淡雪のような儚げで美しく透明感のある肌が、少年の脳へと飛び込んできたのだ。

 三度。三度会った。

 しかし、少年は何度会おうがその度に彼女を刻みつける。

 忘れていたわけでも何でもない。ただただそれだけの破壊力を彼女が持っているということ。

 少年は食べかけの団子を放り出して、柵へ駆け寄った。

 


「ねえ! ま、待って!!」



 緊張していたのか震えて裏返る声に少し乍ら恥ずかしさを覚えて顔を赤くする。

 その声に気づいた少女は、顔を少年に向けると、心配するような顔を一瞬だけしてみせた。

 だがすぐに向日葵のような笑顔を浮かべると、少年へ声をかける。



「君、もう川に飛び込むのは勘弁してほしいかな」


 

 必死な形相で柵から身を乗り出している少年を見て、昨日のことを冗談めかすように言う。

 その言葉で落ち着きを取り始める少年だったが、内心穏やかではなかった。



(こ、こここ声!?!? めちゃくちゃ綺麗で透き通って、可愛いぃぃぃいいい!!!!)



 三度会い初めて聞いた彼女の声。それはただの空気の振動というもので処理できるものではなかった。

 鈴を転がしたような凛とした音に、全てを抱擁するような温かさを含んだ声が、少年の耳を通して骨に響き渡った。

 まるで電撃に打たれたかのようなそれに、ただそこへ崩れ折れるほかはなかった。

 激しくなる動悸を抑え、今度は逃がさまいと彼女へ声をかけた。



「あ! っ……あ、あのっ!! お名前は何と申されますまいかっ!?」



 思わず声が上ずった上に、よくわからない日本語を話してしまったと顔を朱に染める。

 彼女の方も、少年のその様子を見て微笑みを漏らす。夏の太陽顔負けの、底無しの魅力を放った笑顔で。



「雪乃……笹良木雪乃(ささらぎゆきの)って言います。君は何て言うの?」



 笹良木雪乃。

 何て綺麗なんだろう。素直にそう思った。

 見た目だけでなく、声だけでなく、名前までもが綺麗だった彼女に、少年は心を完全に捕らえられてしまった。

 数泊のテンポを置いて、少年は名前を聞かれたということを理解する。



熊白海梨(くましろかいり)!! ゆ、雪乃さん!! 大変綺麗なお名前ですね!!」



 必死な形相で喋る少年を見て、雪乃は楽しそうに口元を覆う。



「ありがとう。そういうあなたは女の子みたいな名前なのね」


 

もしこれが、同級生の女子に言われていたらキレていただろう。

 少年にとって、海梨という名前はからかいの対象でしかないからだ。

 男のくせに女みたいな名前だ。そんなことはもう言われすぎて反応すらできなくなるほどにだ。

 だが、今彼女からからかわれた少年は、ただただ恥ずかしいという思いに駆られた。

 柵を掴んで隠れるように蹲ると、思い立ったようにいきなり立ち上がる。

 その拍子で頭を思い切りぶつけて、また蹲る形となる。

 川を挟んだ向こう側の彼女にまでその音が聞こえていたみたいで、青ざめる表情で声をかける。



「大丈夫!? す、すごい音したけど!?」



 ぷるぷると頭を押さえながら震える姿が見えて、雪乃はどうしてあげることもできないこの状況にあわあわと慌て始める。

 だが、やがてその震えが収まると、ゆっくりと立ち上がって謝る姿勢を見せた少年。

 それを見て安堵を漏らす。



「川に溺れたり、頭ぶつけたりと大変だね」



「あ、っははは……お恥ずかしながら……」



 本当に恥ずかしいのだろう、海梨の顔は蟹のように真っ赤である。

 渇いた笑いが響いた後、そのうら悲しさを物語るように鎮まりかえる場。聞こえてくる音はといえば、風が葉を鳴らす音と、自転車の音くらいだ。

 恥ずかしそうにして見せるだけの海梨に、雪乃は笑顔を崩さないままどうしたらいいのかわからず戸惑っていた。


 何か喋らなきゃと頭を悩ませている海梨は、なんとか話をつけようと必死になった。



「み、御手洗団子……」

  


「……?」



「御手洗団子が……! 美味しかったですっ!!」



「…………」



 口を衝いて出た言葉は、そんなものだった。

 何か話さなきゃ、話題を出さなきゃ、その思考から導き出された彼の中での『話題』は、つい先程の、真新しい記憶だった。

 突然の事に呆然とする雪乃は、その視界の先、彼の背後に見える団子屋を見て納得し、そして吹き出した。



「あっははは! 君、面白いね! 」



 川を挟んだ向こうで、彼女がとても楽しそうに笑っている。

 だがその笑いを、海梨は悪い方に捉えた。話題の選択ミスと完全に、彼女の前から消え去りたい気分になった。

 今迄禄に女の子と喋らなかった結果がこれである。全く自分を呪ってやりたいと後悔の念に駆られる。

 だが彼女は本当に心から楽しんでいたのだ、彼の純粋なところが面白く、彼女のツボにハマったのだ。

 この二人のすれ違いの空気は、傍から見ると、とても面白いことだろう。


 そして一頻り笑い終えた雪乃は、思い出したかのように腕時計を見ると、海梨へ一言いうとその場を去ってしまった。

 完全に彼女に変な印象を与えたと、絶望に満ちた海梨は、またその場に頽れ、川柵の間に顔を挟むのであった。







 それからというのも、海梨は暇さえ見つければ、雪乃に会うために並木道を歩くことにした。

 この行動だけ見て、純粋と取るかストーカーと取るかは人次第だろう。しかしこれまた人によってはストーカーも純粋なる気持ちからくるものだろう。決して許されることではないのだが。


 それでも海梨の純粋なる行動が実を結び、学校終わりの放課後に雪乃とあの並木道で会うようになった。

 通っている学校の場所的に、会う時は必ず川を挟む形となった。

 本当は反対側へ渡って近い距離で話したいというのが海梨の望みではあったが、放課後という条件からわざわざあちら側へ渡ったのでは引かれかねないという危惧があった。

 そのため仕方なく川を挟んだ状態での逢瀬が始まる。

 だが海梨はそれでもよかった。放課後とはいえ、憧れの彼女に会えるのだから。

 言葉を交わせるだけでも奇跡。海梨にはそれくらいの気持であった。

 会って話すことはと言えば、大したことはない。

 それに、彼女は一言二言話すと、決まって『用事があるから』と言って帰ってしまう。

 その用事が何なのか聞いてみたことがあったが、内緒とはぐらかされてしまう。

 

 そんな日々を過ごしていたある日、今日も今日とて彼女に会いに並木道へと来た海梨。

 

 今日は雲が分厚く、その色もどこか汚い。明日も続きそうな曇天だった。

 それでも海梨の心の内はとても晴れやかで、彼女に会えるというその一点だけで雲なぞ知らぬといった感じだ。

 

 暫く経ったみたものの、いつもの時間帯に雪乃が現れなかった。

 今までも何度かそういうことはあった。会えない日もなかったわけではない。

 だから今日もそういうことなのだろうと、小腹を満たすためにも団子屋で団子を食べながら待つことにした。

 

 だが、その日は結局彼女は現れなかった。

 きっとまた何か用事があったんだろう。

 そう言い聞かせて帰ることにした。

 また明日、会えるだろう。そう、海梨は心の内で思うのであった。



 


 しかし、次の日も、その次の日も、雪乃が現れることはなかった。

 今まで続けて会わなかった日はないというのに、珍しいという感情と不安になる気持ちが海梨の胸に募っていく。

 会いたい。どうして来ないの。もしかして嫌われた?

 そんな考えが海梨の頭の中でぐつぐつと煮られていく。

 暗くなっていく外の明かりを、ぼんやりと照らす街灯が今の海梨には頼りなさ過ぎた。

 辛い、暗い、悲しい。

 海梨の心に雲がかかっていく。いつも差し込んでいた太陽の明かりが、ぷつりと切れてしまった。

 酷く落ち込んだ状態で、俯きながら大人しく帰る。


 それからというのも、海梨は一縷の望みを賭けて、毎日、夜が訪れるまであの並木道へ足を運ぶのであった。

 しかし、幾ら待てど雪乃が現れることはない。

 海梨は彼女の通う学校も、勿論家も知らない。

 だから彼女に会える唯一の手段はこの並木道に来るということだけだった。

 自分と彼女を繋ぐ、大事な架け橋。

 しかしその架け橋も、今では脆く崩れ去りそうなほどに頼りない。

 どうしたらいいのか、分からずただその場に蹲る。


 その様子を見兼ねたように、団子屋の亭主が海梨へと近づく。

 そうして傍へしゃがみ込むと、言いづらそうに口を開いた。



「坊主……お前さんが毎日会ってたあの女の子なんだがな──」



「っ! し、知ってるんですか!? どこ、何処にいるんですか彼女は!!」



 まるで縋りつくように必死に答えを乞う海梨の姿に、団子屋の亭主は面食らいながらも、悲惨さを想像して顔を一度伏せる。



「っ……教えて、教えてください!! 彼女、何も言わずにどっかいっちゃったんですよ!!」



「お、落ち着け……。俺も聞いた話だから詳しいことは分からねえが……それでも坊主、聞く覚悟はあるか?」



 勿体ぶる団子屋の亭主にイラつき始める海梨。彼の肩を掴む手が自然と強くなる。

 きっと爪も食い込んでいることだろう。亭主は苦しさを耐える表情を浮かべている。

 


「知ってるなら! 彼女のこと知っているなら何でもいい、教えてください!!」



 もう懇願するほかなかった。海梨にとっては、目の前の亭主だけが頼りなのである。

 またあの柔らかい太陽の日差しを浴びるために。

 亭主は言い辛そうな顔をしてから、海梨の肩を優しく抱いて力強い眼差しを向ける。

 


「いいか坊主、落ち着いて聞くんだ。彼女は……彼女は今、入院しているそうだ」



「え…………っ?」



 海梨の目が驚愕に染まり開かれていく。それは恐怖からか、口がぱくぱくとしている。

 入院という言葉が理解できない。仮にその言葉通りだったとして、素直に受け入れられるわけがない。

 やりきれない思いが怒りへと変わり少年は地面を一度思い切り叩いた。

 骨とコンクリートのぶつかる音が、彼の心の叫びのように辺りへと木霊した。



「どうして……どうして彼女は入院してるんですか!?」



「それは俺にはわからねえ、ただ病院ならここから川上へ上った先にあるところだ」


 

「川上……あそこか……!」



 亭主の言葉を聞くや否や、海梨は脱兎の如く駆け奔る。

 右手がジンジンと疼くのなんか気にせず、ただ彼女の元へ息を切らす。 

 入院、その言葉が釘のように突き刺さっている。

 段々段々と、内へ伝わる衝撃となって。

 



 全速力で走ること10分。形振り構ってられない感じで、汗を流し呼気を荒くしながら病院のロビーへと辿り着いた。

 海梨は息を整えないまま走り出し、若い女性スタッフへ声をかける。

 


「ぜぇっ……ぜえ! ずっは!! ぜぇごっほっ!!??」



「あ、え!? ちょ、落ち着いてください、どうされました!」



 息を整えなさ過ぎて最早言葉として音すら出せなかった。

 汗だくで荒い息の男がいきなり現れたらそりゃ恐いだろう。


 海梨はそこでやっと一度だけ深く深呼吸すると、まだ整わない息で喋る。



「あ、あの……っ! えーっと、笹良木雪乃さんって今ここの病院にいますか!?」



 女性は一瞬目を丸くした後、不審感を抱きながらも仕事モードに切り替わり口調を正す。



「失礼ですがご関係は?」


 

 海梨は一瞬戸惑ったが、素直に伝えるべきだと判断した。



「い、命の恩人です……」



 女性はまた目を丸くして見せたが、少年の目と先ほどまでの態度を見て、嘘を語っているようには見えなかった。

 そのため数瞬考えた後、雪乃がいる部屋の番号を教えてくれた。

 海梨はお礼を言うと、すぐさま教えられた部屋へ向かった。

 気持ちが急いたか、廊下を走っているところを若い看護師とぶつかってしまい注意される。

 すぐさま謝った海梨であったが、そんなことは右から入って左に抜けていった。

 

 雪乃を部屋を見つけるや否や、不躾にもノックせずに扉を開ける。

 曇天浮かぶ窓を眺めながら、細く息を吐く今にも枯れ折れてしまいそうな少女がそこにいた。

 

 久しぶりに見た彼女の姿は、あの時の輝きはなく、見ているだけで目を瞑りたくなるほど悲痛であった。

 思わず動悸が激しくなる。呼吸が上手くできないか喉から空気が漏れる音だけが聞こえる。

 その気配に気づいたか、雪乃はゆっくりと体を向けて、海梨の姿を捉えた。

 驚き目を見開く雪乃。やがて唇を固く結ぶと目を伏せてしまった。

 

 海梨は戸惑いと恐怖をこらえきれず、彼女へと近づき問い質す。

 


「ど、どうして……? どうして君はそこにいるの?」


 

「…………ごめんね」



 一言、雪乃は何言われてもそれ以外答えないといったものを含んでいた。

 海梨の胸に不安が募る。どうして、何故答えてくれない。所詮自分はそんなつまらない関係でしかなかったのか。そんな思考がぐるぐると頭を駆け巡る。

 


「ごめんって意味が分からないよ……何で、あんなに元気にしていた君が突然っ……入院なんて!!」



 思わず声を荒げてしまう。生憎雪乃の部屋は個室だったため、周りに掛かる迷惑は最小限だった。



「……あんなに元気、か……」



 雪乃は薄く自嘲気味に笑うと、微かにその瞳を潤す。

 そして暫くの沈黙の後、雪乃は海梨の目をしっかりと見据える。

 そうしてまるで突き放す様に──



「ごめんなさい、帰ってくれる? 第一勝手に入ってきて失礼だとは思わないのかしら?」



 まるでナイフのように、海梨の心に深く突き刺さった。いや、刺さるだけでなく底から一気に抉られた。

 彼女の言うことは正しい。間違っているのは自分。常識的に考えてもあり得ない。

 ただそんなことより、海梨は雪乃に突き放されたというその事実に深く傷ついた。

 全身の力が抜け、だらんと首と手を垂らした海梨は、雪乃に聞こえるか聞こえないかの声で謝った。



「ごめん…………さようなら」



 別れの言葉を残して、病院を後にした。




 その日を境に、海梨は雪乃のもとに訪れることはなかった。

 もう彼女のことを、忘れようとしたのだ。

 否定され拒絶され自分は彼女と話すことは許されない。

 入院していたのだって何かしら理由があるかに決まっている。そしてそれを話す理由は無い。知られたくないことの一つや二つあってもおかしくないからだ。

 だから海梨は諦める。どうしようもない現実を受け入れ、日々を過ごしていく。


 だけど、それでも気づけば海梨はこの場所に来てしまう。

 彼女と初めて会ったあの並木道だ。



 川に波紋を起こしながら流れていく葉を見乍ら、海梨は深く息を吐く。

 その背中は深海のような、深い悲しみを湛えていた。

 それからどれだけそうしていただろう。

 日も傾き始めたころ、海梨の背中へ声をかけるものが現れた。



「……熊代、海梨くんね……?」



 突然呼ばれた声に、海梨は重い体をゆっくりと反転させその声の主を視界に捉える。

 見覚えのない人だった。

 だけど、細くしなやかな腕も、雪のように真っ白な肌も、そして絹のように透き通った黒髪も、ある一人の少女を彷彿とさせる雰囲気を漂わせていた。

 海梨は怪訝そうな顔をするのを見て、女性は今にも泣き出しそうな苦しそうな顔をした。



「笹良木雪乃の母です。あの子から話は聞いています、海梨くん……あなたに話しておかなきゃいけないことがあるの」



 海梨の心に錨が刺さる。これは、今から話されることは決して自分の人生から離すことのできないものであると、直感的に悟った。

 だから海梨は覚悟を決めるしかなかった。


 雪乃の母は、何処かへ場所を移すわけでもなくその場で、重く口を開いた。



「雪乃はね、もともと……体が強くなかったの。病気とかそういうんじゃなかったんだけど、生まれつきの体力的な問題。これは私もあまり強い方ではなかったから、純粋な遺伝なんだと思う」



 自然と病院での姿が頭をよぎる。



「それでも日常生活を送るうえでは全く何の問題もなかった……体育の授業だけは、どうしても休まざるを得ない状況があったのだけれど……だから特に心配もしていなかったの」



 額に、背中に、嫌な汗が流れ落ちていく。

 そしてここで、女性の雰囲気が一気に変わる。



「だけどある時、高校生になったばっかリのあの子は! ある男の子を助けるために川にっ……川に飛び込んだっていうの!! 身体が弱いあの子は、それが原因で心臓の動きが……っ……」



 汗は止めどなく溢れ、歯の根が合わずがちがちと音を鳴らす。

 膝も震え始め、女性の語る言葉が弾丸となって胸を貫く。

 ある男の子を助けるために川に飛び込んだ。

 その男の子とはまさに自分の事である、川に飛び込んで助けてもらった、命の恩人である。

 だけど、それが原因で……。



「それからは病院に通い、病状を見てもらった。お薬も出してもらって症状を抑えようともした。だけど、高校生活が始まったストレスと重なってか、雪乃への負担は更に増えていった……それでどんどん病状は悪化して、遂に入院するほかなくなったの」



 何故自分のことが分かるのか、何故その話を急にしてきたのか、何故そんな悲しそうで憎しみに満ちた顔をしているのか、それを考えるのはあまりにも簡単すぎた。しかし、その事実を整理するにはあまりにも難しすぎる。



「…………雪乃は、本当にいい子だった……あの子の人生は、これからだったの!! 運動は苦手でもその分勉強頑張って成績は良かったし、芸事だってあの子はとても楽しそうにやっていたわ……だからこれからもっと視野を広げてもっと楽しい世界を見ていきたいって、そう……そう言っていたのに!!!! あなたがっ……!!……」



 そこから先は口をつぐみ頭を振る。それ以上は言っていけない領域だと吐き出したいものをぐっと飲みこむ。

 決して分からないことでもないのだ。怒りたい気持ちもあるが、怒れない事実があるということを。

 娘が助けていなければ今目の前にいる少年は助かってなかった。それを怒るというのはあまりにも残酷すぎる。だけど助けてなければ娘は助かってた。その事実もある。どちらか一方をとるならば当然娘の方を取る。しかしそれを少年に告げることは違う。だけど叫んでしまいたい、拒絶してしまいたい、心の奥まで、あの子の分まで、汚い言葉でも何でも浴びせ続けてやりたい。そんなことをしても娘が帰ってこないのは分かり切っているのだが、そうしたくなる気持ちが止まなかったのだ。

 その葛藤が今彼女を悩ませ、重荷となり襲い掛かり、膝から崩れ落ちた。

 海梨は一歩も動くことができなかった。

 泣き崩れる彼女の姿を見て、言葉をかけることもこの手で触れることも、そのすべてが彼女にとっては死神のそれでしかない。

 彼女に対する何かしらの行為は失礼にあたる。と同時に、自身の心がこの状況を否定したかった。

 目を逸らしたかった。自分のせいで、雪乃は死んだ。そう、自分が間抜けにも川に落ちたせいで。

 海梨の心に後悔の念が堰を切るように溢れ出してくる。

 だが今そこで出してしまうわけにはいかない。今一番悲しいのは雪乃の母親なのだ。海梨が悲しむことはやはり失礼。

 それでも溢れるものは溢れてくる。ぐっと堪えて耐えようにも、その目には涙が溜まっていく。

 声にならない叫びを漏らしながら、海梨は、自分の人生を酷く怨んだ。




 


「熊代海梨です、笹良木雪乃さんの友人です。会わせていただけませんか?」


「…………分かりました、病室は────」




 手に一輪の花を持ち、海梨は以前訪れた病室へ足を踏み入れる。

 部屋に入ったその瞬間、空気が鉛のように重く感じた。

 まるで海底を歩いているかのよう。一歩一歩踏み出す足が、目の前の現実というものへ近づいていく。

 

 ベッドに横たえられた雪乃。どこまでも真っ白な肌は、未だ美しさを保っている。

 だが、その身体から熱というものは発せられることは無かった。

 改めて事実を受け止め、海梨は涙があふれてくる。

 手にした花を彼女の傍に置き、くずおれるように彼女を抱きしめた。



「雪乃……僕、なっ……何も知らないよ、君のことっ……ごめん、ごめん……っ……僕のせいで、僕のせいでこんな……!!」



 シーツに染み込む涙と叫びが、海梨を現実へと落とし込み、そして雪乃を現実から突き放した。

 もう彼女は戻らない、もう彼は戻れない。

 

 贖罪の意識とでも言うのだろうか、彼はこれから背負って生きていく。

 彼女に送った一輪の花、名を『シオン』。




 花言葉は、君を忘れない。


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