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佐保の姫君

作者: 楠木千歳

 紗穂さほは、料理が嫌いである。

 しかし今日ほど「嫌い」という言葉を盾にして全く料理をしてこなかった過去を悔いたことは無かった。


「教えてもらえば、良かったな……」


 瞼に浮かぶは母の優しい笑顔。その暖かいぬくもりは、二度と戻らない。





 紗穂の両親は五年前、実家の全てが焼き尽くされた火事に巻き込まれ、出かけていた紗穂を一人残して亡くなった。

 兄弟もなく身寄りのいなかった十九の紗穂には、高校を出て働いてはいたものの、到底一人暮らし出来る能力も金もありはしなかった。


「それなら、うちへ来れば?」


 服は母や自分の物があるし、家財道具だって一切いらない。敷地だけは無駄に広いから部屋だって用意できる。おまけに一家全員が小さい頃から家族ぐるみの付き合いをしていて、紗穂のことをよく知りまた歓迎してくれている……この状況ならば、巨大迷路のような日本家屋に住む友人宅に世話になる他はない。

 紗穂の幼馴染みである黒木香澄は、引っ込み思案である紗穂の良き理解者であった。香澄とその両親が自分を引き受けてくれなかったら、今頃どこへ身を置いていたか分からない。ショックを思い出して眠れない日は共に夜を明かしてくれる彼女がいなければ、とっくの昔に廃人になっていただろう。







 ――まさか、初恋の君の婚約者になるなんていうオプションが付くとは思いもよらなかったけど。

 あの時あたしは、どうして頷いちゃったんだろう。






 ここ数ヶ月のめまぐるしい展開を思い出しながら、紗穂は指を切らないように細心の注意を払いつつ大根を短冊切りにしていた。

 分厚さの不揃いな大根が塊から切り離されていく。歪な形は不慣れの証だ。

「切れました、けど……形が」

「いいのいいの。これから上手くなりましょ? はい次はこれね」

 やっとの思いで切り終わった大根たちは、先に湯の中で踊っていた人参のもとへと投入された。

「これは?」

「菜の花っていうのよ。ほろ苦いけど、からし和えとか美味しいの。佑弥の好物でね、渋いでしょ?」

「へ、へえ……」


 知らないことを知ることは、純粋に楽しかった。だが警戒していない時にその名前は、些か刺激が強すぎる。

 そんな紗穂の様子を見てくすりと笑った女性は、何も気づかぬふりをして紗穂に指示を出し始めた。








#春#春#春#









『これはこれは、聞きしに勝る可愛いお嬢さんだ。あなたが綾井紗穂さん、かな?』

『……はい』


 ひなたぼっこがお似合いな、ある春の日差しが暖かく降り注ぐ午後。


 普段はあてがわれた離れに引きこもっているのに、どういう気まぐれか本邸の庭先まで来て土いじりをしていた時のことだった。

 座敷から話しかけてきた男性は白髪が少し混ざり始めたくらいの、品のいい男性であった。香澄の父に似ている。なんとなくそう思った。


『お幾つかな?』

『……二十四です』

『理沙の一つ下か。香澄と同い年だな、そういえばそうだった』


 ふむふむ、と頷いた彼を見て、時々黒木家の話題にのぼる香澄の叔父だということに気がついた。

 確か東京の方で香澄の祖父が始めたデパートの支配人を引き継いでいる人ではなかっただろうか。その代わり地元の土地と家は香澄の父が相続したのだとか。うろ覚えの知識を繋げて、似ていたことに納得する。


『さぞ、お辛かったことでしょう』


 その言葉にはただの憐憫ではない心からの暖かい気持ちが込められていて、紗穂は思わず泣きそうになった。


『香澄と、黒木家の皆さんがいて下さったお陰で、今はもう平気です』


 なんとかそれだけ口にする。


『そうですか。無理は、してはいけませんよ? 身内を贔屓するようであれだが、ここの家の者は皆、頼りになるからね。苦しい時は遠慮なく言うんだよ』

『はい。ありがとうございます』


 深々と頭を下げる。言葉では表しきれない感謝を伝えたかった。


『あれ? 紗穂さんがここにいるなんて珍しい』


 奥からお茶を運んできたのは、香澄の二つ年上の兄、佑弥ゆうやだ。叔父さんは佑弥に話があって来たらしい。


 とくり、と心臓が跳ねる音がする。




 紗穂の初恋は、小学校の頃から黒木家に遊びに行くといつもいる彼だったから。

 もちろんあの頃はただの憧れとか、一番近い存在の異性で優しかったからとかそんな理由だったけれど、火事以来何かと親身になってくれた佑弥のことを今本格的に恋愛対象として意識し始めても無理はない。


 でも、誰だってあんな事件があったら優しくしてくれるってば。


 その優しさに惚れてしまえば、困るのは佑弥だ。

 そう思う紗穂は、取りあえずこの気持ちが無くなるのを待とうと佑弥を避ける日々がもう半年も続いていた。まさか、気まぐれにやってきた庭先でばったり出くわすなんて考えもしない。


『叔父さん、こちらが』

『綾井紗穂さんだろう?』

『なんだ、知ってたか。紗穂さん、この人が恭弥おじさんだよ。無駄にフレンドリーな人でごめんね』

『無駄にとはなんだ』


 会話するのも久しぶりなのに、佑弥はそんな雰囲気を微塵も見せず紗穂に話しかけた。紗穂の気まずさを少しでも取り払おうという心遣いだろう。本当に憎い。

 父親似の佑弥が叔父と並ぶと親戚感が増した。

 漆黒の髪の毛から目の細さ、優しそうな雰囲気に至るまで瓜二つである。親類のいない紗穂には少し羨ましい光景であった。


『しかし、こうも可愛らしいお嬢さんだとは……聞いてないぞ、佑弥』


 愉快そうに笑った彼は、


『あれだな、私の息子の嫁に欲しいくらいだ』

『は、はい?!』


 爆弾を投下した。


 可愛らしいなどと言われ慣れていない紗穂は石像顔負けに固まり。

 佑弥はといえば、運んできたお茶を危うくこぼしそうに。


『あらやだ、お義兄さん。佑弥は昔から紗穂ちゃん一筋なんだから、そんなこと言わないであげ』

『母さん!!!』


 そこへ更に爆弾発言を投下しながら登場したのは、佑弥と香澄の母親である。


 紗穂の耳は既にキャパオーバーになっていて、もちろん半分も聞こえていなかったけれども。


『あ、紗穂ちゃん! 居たの、いやだわ。うっかりわざと口が滑っちゃったわよ』

『わざとじゃねえか!!』

『いずれ言うつもりだったんでしょ、早い方がいいに決まってるじゃない』


 どうせ自分からは言えないヘタレのくせに、私から言ったって何も問題ないでしょうと素知らぬ顔の母。


『うわああああーもう! 俺には俺の考えるタイミングがあったっての!! うわああああああああ』


 叔父との話し合いはどこへやら、顔を真っ赤にしてその場を逃げ去った佑弥……





 それが、一週間前の話である。









#春#春#春#










「そういうわけで、紗穂ちゃん。あなた今日から黒木佑弥の婚約者ね?」

「は?!」


 佑弥と同じく逃げるようにしてその場を立ち去った紗穂は、運悪くその日の夜に母親と鉢合わせた。


「だいじょーぶ。うちはこんなおっきい家に住んでるけど黒木の本家筋じゃないし、そんなに来客が多い家でもないから家事の一端を担ってもらえるなら助かるーってくらいよ。気負わないでちょうだい」

「え? あの、ええと」

「居候が本物の娘になるだけよ! まあね、あたしは五年前からずっとあなたを本当の娘だと思っていたけれど」


 黒木のおばさんは確かにダメなことはダメとちゃんと叱ってくれた。誰もが紗穂に気を遣う中で、それがどれだけ嬉しかったことか。


 いやいや。でもそれとこれとは話が違うでしょ。


「あの、私は」

「ねえ、紗穂ちゃん」


 ずい、と顔を近づけられ、紗穂は思わず仰け反った。


「女の子はね、別に好きじゃないなーと思ってる相手でも、好かれてる相手と結婚するのが一番いいのよ。あなたにしたらこの時代まだまだ恋してなんぼ、のお年頃かもしれないけど、変な人に引っかかるくらいならうちの佑弥にしときなさい」

「はあ……?」

「あんな息子だけど、絶対にあなたを幸せにしてくれるから。それだけは保証する、後悔はさせないわ」


 にっこりと微笑まれて、紗穂にはもう返す言葉も見つからなかった。

 佑弥の母は言いたいことだけ言い散らかすと、鼻歌交じりで洗濯物を干しに行ってしまった。







 佑弥からメールが来たのは、それから一週間後、つまり今日の朝。

 件名はなしで、「今日の晩御飯のあと、離れにいってもいいかな? 話がしたい」という単純明快な用事の短いメールだった。

 断る理由はない。ないけど……紗穂はどう返事をしたものかと逡巡する。


 だって多分、話というのはきっと先日の婚約者騒動のことで。

 佑弥の本音を聞きたい気持ち半分、どんな顔をして会えばいいのか分からないのが半分で、紗穂にも気持ちの整理がつかない。

 あの反応は、つまり、本当にそういう事なんだと思うんだけど……


 少し考えて了承の旨を返信する。仕事着を引っ張り出して着替えようとした矢先、ノックもせずにふすまの引き戸が勢いよく開け放たれた。



「おはよー紗穂! 今日も元気かい? あたしは元気だよ!」

「それは見れば分かるよ……おはよう」


 部屋へ入ってくるのに遠慮もない。香澄だ。


「そんな猿みたいに真っ赤な顔してどうしたの」

「なっ……例えを選びなさいよ!」


 よりによって猿とはなんだ。年頃の女の子を捕まえて。


「いや、それが一番適切かなーって。んで? どうした?」

「……別に」

「当てようか」

「いいよ当てなくて。たぶん当たってるから」

「兄貴も同じ顔して頭かきむしってた。察するに」

「いいよって言ってるじゃん」

「プロポ」

「うわあやめてやめてやめて! それ以上はお願いだからやめて!!」


 それ以上は言わせまいと着替え途中の中途半端な格好のまま慌てて口を塞ぎにかかる紗穂。

 なによう、そんなに恥ずかしがることないじゃないのと頬を膨らまして束ねた髪の毛先を弄る香澄は母親そっくりの表情をしている。今はその可愛らしい顔に腸が煮えくり返りそうだ。


「ま、親に先に言われたんじゃカッコがつかないわそりゃ。兄貴は変なとこプライド高いしね。しっかしお母様の洞察眼には脱帽したよ。あたしでさえ気づけなかったってのになー」

「気づかなくていい……」

「ちなみにあんたの気持ちには随分前から気づいてた」

「もっと気づかなくていい!」

「あたしとしては嬉しい限りだけどね。紗穂姉ちゃんっ」

「ぎゃあああああ!!」







 悲鳴混じりのドタバタ劇を繰り広げていると、あっという間に時間は過ぎて。本邸にダッシュして朝ごはんを頂き、香澄は遅刻するといいながら歩いて行ける距離の会社へ出かけていった。紗穂は少し時間の余裕があったので、全員分の洗い物を片してから行くことにした。佑弥と父は早々に仕事へ向かったようだ。顔を合わせなくてほっとしたのと、ちょっと残念だった気持ちがまぜこぜになって、紗穂はそんな自分に苦笑した。


 今まで散々避けてた癖に。


 ふっと思い立った事をお願いしようと思って、台所にまだいた香澄の母を呼び止めた。

「あの、おばさん」

「なあに? あ、お義母さんって呼んでくれてもいいのよ?」

「ちょっ、それは! まだ」

「まだってことはあと少しの辛抱ね」

「いえ?! 別にそういう事でもなく」

「やだやだ、ごめんなさいね話を遮って。それで?」

「あの……」



 今日早く上がれる日なので、帰ってきたら、一緒に、晩御飯作らせてもらえませんか。


 あ、でも、料理って実はしたこと無くて。教えてもらえたら、嬉しいなって……


 つっかえながらそう言うと、嬉しそうに彼女は快諾した。

 居候生活後こんな頼みごとをしたのは初めてだ。もういい歳をした大人なのに、いまだ家事全般は専業主婦の香澄母に頼り切りである。


「あれ? でも今日は……紗穂ちゃん、あなたの誕生日じゃない? 今日はあなたがお客さんみたいなものよ。何も今日じゃなくてもと思うけど……いいの?」

「あ、はい。私が好きなものより、あの……」


 佑弥さんの好きなもの、を、作りたいです。



 真っ赤に染まった頬でそう宣言した目の前の少女が愛しくて、香澄の母は思わず頭をぐしゃぐしゃにするくらいに撫でた。


「な、なにするんですかっ?!」

「ふふっ。若いっていいわね。食材は買ってきておくわ」








#春#食#春#










 ぐつぐつと煮える湯の中に、ゆっくりと鮮やかな緑が沈められた。

「さっとよ、さっと。あんまり湯掻くと美味しくなくなっちゃうから…………ほれ! いまだっ」


 掛け声とともにざっと湯をこぼす。ざるに上がった菜の花。軽く揺すると穂先から熱い雫が落ちる。


「ただいま」

「おかえりなさい」


 黒木家の大黒柱が台所へ顔を出し、すぐに部屋へと向かった。エプロン姿の紗穂に少し目を見張るも、にっこりと笑って嬉しそうな表情を作る。紗穂はこの人の、口には出さない真からの優しさが大好きであった。叔父さんも佑弥も、よく似ていると思う。


 粗熱が取れたら、しいたけやカツオなどをみりんと醤油に漬けてつくった黒木家秘伝「八方だし」に和からしをとき、菜の花と和える。紗穂にとっては初めて見る食材であったが、一口味見した瞬間虜になった。

 ほろ苦くて、からしがツンと効いている。野菜本来の甘みがほんのり、本当にごくわずか口に残って、それでいてしつこさを感じさせない。


 なんか、流石日本人が好みそうな味。


 ちょっと年寄りじみた感想が頭をよぎり、紗穂はふっと微笑む。香澄の母の「美味しいでしょ?」との問いかけに頷いた。


「さあ、あとは味噌汁だけ。仕上げちゃいましょ」


 メインはシンプルに鰆の塩焼き。それは紗穂が色々と格闘している間に香澄の母が作ってしまった。火を止めた鍋に味噌をとき終わる頃には、佑弥が帰ってくるはずだ。








 人にご飯を食べてもらう、というのは、どうも緊張する。

 食卓に着いたのは香澄以外の家族全員。彼女は今日、職場で飲み会だそうだ。茶化されなくて良かったと心底安心したのは本人には秘密である。

 実に久しぶりな全員での食卓。紗穂が意図的に佑弥との接触を避けてきた為だ。どことなく皆嬉しそうな空気を察して、紗穂は少し申し訳なく思った。但しまだ佑弥とは一回も目を合わせていない。


「んー、今日も美味しい」


 いつも帰りの遅い佑弥もにこにこと味噌汁を啜っている。好きなものばかり並んでいると言って上機嫌だ。


「それ、紗穂ちゃんが作ってくれたのよ。うちの味でしょ?」


 ごふっ、という奇妙な音がしたので俯いていた紗穂は慌てて顔を上げた。

 むせて水をあおる佑弥がそこにいた。


「うん、お、美味しいよ」

「え、あ、どうも……」

「料理、向いてるんじゃない? 上手だと思う」


 ようやく落ち着いた佑弥の一言に、今度は紗穂がむせた。






 普段はもっと賑やかなのに香澄が居ないせいかまるで静かな食卓だった。


「ごちそうさま。ごめん、先に上がるね」


 佑弥が食べ終わったのに、紗穂がもそもそとゆっくり食べられるはずもなく。


「あら二人とも、お代わりは?」

「俺はともかくとして、紗穂ちゃんはいつもお代わりしないだろ……」

「あ、えと、いらないです。大丈夫です」


 あらそう、と不服そうに膨れた母を尻目に、佑弥が食器を下げる。後を追おうとした紗穂を呼び止めて、彼女は手招きをした。


「紗穂ちゃんにこれ、あげる」


 それは小さな紙切れだった。ノートの切れ端を破りとったかのような、罫線の入った紙切れ。縦書きで二行ほど文字が綴られている。


「佑弥にバレたら怒られちゃうわね。でもこれは私じゃなくて香澄が偶然見つけたものだから、怒られるのは香澄かしら」


 洗っておくから行ってきなさいと、香澄の母は微笑む。全て見透かされているようで、なんだか紗穂はいたたまれなかった。








#春#春#春#









「入っていい?」

「ど、どうぞ」


 必要なもの以外なにもない殺風景な和室にただ一つのちゃぶ台を前にして、紗穂は綺麗に正座していた。


「ちょっと、そんなに畏まらなくても」

「……なんとなく」


 入ってきた佑弥が吹き出す。

 つられて紗穂もぎこちない笑顔を返した。

 よっこいせ、と声をかけて彼が向かいに腰を下ろす。


「さて、何から話そうかな」


 細めた目はまるで紗穂を見透かすような、愛おしむような、そしてどこか懐かしい過去を見ているようで、どうもむず痒くなって目をそらしかけるのだがそれも適わず、早まる鼓動を抑えるのに四苦八苦する羽目になった。



「紗穂ちゃんの誕生日って、今日だよね」

「はい」

「佐保姫って知ってる?」

「さほ、ひめ?」

「そう。春の女神様。奈良にある佐保山の神霊で、機織りとか染め物の神様として信仰されてるんだ」


 平城京の東に佐保山があったことから、五行説と絡めて春の神になったのだとか。


「春霞を纏った若い女神様なんだよ。紗穂ちゃんは、いい名前をもらったね」


 ちなみに桜の花の神様は年老いた老人の姿で、葉桜の神様が女神様なのだそうだ。散りゆく花より緑萌えゆく姿に日本人は若さを見出したのだろう。面白いでしょ、と佑弥は笑う。



「これは誕生日プレゼント」

「……え?」

「開けてみて」


 手渡されたのは、長方形の包みだった。厚みはない。まるで封筒か何かが綺麗な紙で包装されているようだ。


 開くと果たして、白い封筒が顔を覗かせた。

 恐る恐る、中を見る。


「あ」

「もう、大丈夫かと思って」


 封筒からほほ笑みかけてきた、父と母。そして、黒木家の面々。


 すべて焼けてしまった彼女にとって、火事以後初めての家族の姿。


 涙は、必死でこらえた。


「ありがとう」

「いいえ。うちの押し入れからたまたま見つけたんだ。良かったらどうぞ」

「大事にします」


 よく見るともう一つ、栞のようなものが入っていた。


「かわいい」


 呟いた紗穂を見て、佑弥は満足そうに微笑む。それは楽しみ四葉のクローバーを押し花にした、緑の紐のついた可愛らしい栞だった。


「シロツメクサには、個人的に思い入れがあってね」


 きょとんとする紗穂に、佑弥はまた目を細める。


「あれは俺がまだ大学で古典を専攻してた頃だったかな」





 火事で何もかもを失う前の紗穂は、引っ込み思案でもよく笑う朗らかな子供だった。

 いつからだろう。挨拶を交わす度に笑ってくれるのが嬉しくて、もっと彼女のことが知りたくなって、ただいまと言う為よりも毎日のように遊びに来る彼女に会うために妹の部屋を覗くようになったのは。

 自分が紗穂を探しているのに、必ず先に気づいてくれるのは紗穂の方で。それがまた嬉しかったり、逆に会えない時は凄く残念に思ったりして。でも妹にからかわれるのは絶対嫌だから、それ以上の干渉はしないように自分をなんとか押さえ込んで。


 そんな日常が何年も続いた。


 ある日、帰り道に偶然綾井家の近くの空き地を通りかかったことがあった。


「高校生の紗穂ちゃんがすごく優しい笑顔でシロツメクサを摘みながら鼻唄を歌ってたんだ」


 花冠を編みながら、それは楽しそうに。

 思わず立ち止まり、その花畑の中に座る彼女へ声をかけてしまう。


「そしたら、恥ずかしそうに真っ赤になっちゃって。消えそうな声でこんにちはって。花冠を咄嗟に背中に隠してさ」



『好きなの?』

『え?』

『花冠、作ったりするの』

『いえ……たまたまそういう気分だったんです』


 シロツメクサは、クローバーの花。


『なんとなく?』

『そう、なんとなくです』


 そっか、とそれ以上話が続かなくなり、俯いたその時、佑弥は奇跡的にも「それ」を見つける。


『あ、四つ葉!』

『えっ』


 壊さないように、壊れないように。

 そっと摘みあげたそれを、佑弥は紗穂に差し出す。


『……え?』

『あげるよ。紗穂ちゃんに』

『い、いいですよそんな! 気をつかっていただかなくても』

『俺があげたいからいいの。受け取って』

『……そんな』


 戸惑う紗穂に強引に押し付けた。


『やっぱり、悪いです』

『悪くないってば』

『だって、私より……』

『?』

『やっぱり私よりお兄さんに持っててもらいたいです! うん、そう決めました!』


 突然決意を持った目をして、紗穂はきっぱり言い切った。


『なんで?』

『なんでって……それは……』


 しばらく口の中で言葉をまとめて、紗穂は絞り出した。


『だって、あたしはお兄さんに何か出来るわけじゃないから……せめてこういう形でだけでも、幸せあげたいんです』







「そんなことありましたっけ……?」


 申し訳ないがまるで覚えていない。

 その頃から紗穂が佑弥を好きだったことは明白な事実だが、紗穂には全く記憶になかった。


「ごめん、一人で勝手に覚えてて。気持ち悪いよね」

「そ、そんなことないです!」


 ガシガシと頭をかく佑弥の表情はほんのり赤い。

 ぴたり、とその動きを止めると、真剣な表情になった佑弥は正座に座り直した。


「綾井紗穂さん」

「は……はい」

「誤魔化したりしないから、ちゃんと目を見て聞いて」


 思わず逸らしかけた瞳に先手を打たれる。


「……はい」


「一生、大事にします。僕と結婚してくれませんか」


 嬉しい言葉のはず、だった。

 顔は熱い。

 しかし、紗穂は素直に頷けなかった。


「恋愛感情には、いつか飽きが来ると。誰かがそう言っていました」


 彼の優しさは本物だった。

 気持ちを偽っているとも思わない。信じている。

 でも、ただ、漠然とした不安が彼女を襲う。


「私はあなたに好かれ続ける自信が……」

「俺はただの希薄な恋愛感情でモノ言ってる訳じゃないよ」


 最後まで聞かずに佑弥が遮った。


「じゃあ聞くけど、紗穂はご両親のこと嫌い? 自分だけ置いて居なくなっちゃったこと、恨んでる?」

「恨んで、ないです」

「かけがえの無い両親でしょ? 確かに俺は紗穂の事が『恋愛感情で』も好きで好きでしょうがないよ? だけどね、俺は紗穂のことを家族と同じ意味でも大好きなんだ。守れるなら命をかけてもいいくらい、紗穂の事が大事だよ」



 それは、彼がずっとずっと暖めてきた想いだった。



 紗穂を見つめる視線が熱い。


「だから、紗穂を好きでいる気持ちが無くなることは絶対ない。形は変わったとしても、君を愛してることに絶対変わりはないんだ」


 どうしたら信じてくれる? とおどけた佑弥の目はしかし、笑ってはいなかった。


「嫌なら嫌でいいし、うざかったらそうはっきり言っていいよ。その時は諦める。だけど……憶測や気持ちの不安や、自信が無いとかそんなことで断ろうっていうなら止めて欲しい。紗穂の気持ちだけで決めて」


 わがままになっていいから。

 本音を言ってくれて、構わないから。


 紗穂は俯いた。拳をぎゅっと膝の上で握りしめて、自分が悪い言うべき言葉を一生懸命探した。



 どれくらいの時が経っただろうか。




「君想ひ」


 不意に、紗穂の口から言葉が零れた。


「この、返歌です」


「……! それをどこで?!」

「とある人から、渡されて」



 さきほど香澄の母にもらった紙切れを机に置く。

 それにはこう書かれていた。



【君想ひ 糸を捧げど 知りもせず

佐保の乙女は 野に花を摘む 】




「大学の時に書いた……なんで、紗穂ちゃんが」

「今もこの気持ちでいて下さると、思ってもいいですか?」


 佑弥が戸惑いながらも真剣な面持ちで頷く。


 紗穂はペンをとって戻ってくると、すらすらと裏にこう書いた。


【君想ひ 糸を手繰りて 迷いつも

君のそばへと 永久に願はむ 】


 初めて書いた和歌は超がつく下手くそだけどストレート。恥ずかしくなって顔も見られずに紙を佑弥につきつける。


 じっと凝視していた佑弥は、紙切れを見つめたまま問いかけた。


「……あんな強引な言い方しといてなんだけど、いいの? 本当に。無理してない?」

「はい」

「一生のことだよ? 一度結婚したら手放すつもりは一切ないけど、本当に大丈夫?」

「今、真剣に考えました。いいえ、こないだからずっと考えてた。後悔はしないし、させないんでしょう?」


 佑弥が机に紙を置いた。無言で彼が立ち上がる。びくっとして目をつぶった紗穂は次の瞬間、耳元で聞こえた深いため息と腕に包まれて圧迫される体に心臓が跳ね上がった。



「一生、大事にします」


「どうぞ……よろしくお願い致します」

和モノ企画に勝手に参戦です。はじめまして、楠木千歳と申します。

和食メニューでドタバタするコメディと例によってベタ甘な和食物語とどっちがいい? と聞いたら後者と答えられたのでこうなりました。メインがご飯より結婚話になっちゃったけどこれ大丈夫なのかな……


一応注釈です

佑弥の作った和歌の中、「糸を捧げど」には、佐保姫が機織りの神様であることから織物用の糸を捧げたという形式と、読み方の同じ「紗穂」ちゃんに四葉のクローバーをもらって欲しいと「意図を捧げ」たという二重の意味が込められていますw


和って素敵。味噌汁最高。


ではまたどこかで、お会いしましょう。

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― 新着の感想 ―
[一言] 和歌を詠み、心を通わせる。なんて素敵でしょう。 味わい深いお味噌汁でありました。
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