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途中から視点が切り替わります。
カレーも食べ終わって、食器を片づけた後――ここは手伝わせてもらえなかった。というか私が洗い場にいても邪魔をしてしまいそうだったので渋々椅子に座っていた――、私はマグニさんに与えられた部屋のベッドにもぐっていた。私が寝込んでいた部屋をそのまま私の部屋とするようで、クローゼットの中には今私が来ているのと同じ服がいくつか置いてあった。どうやらこの服は元々マグニさんのもので本来は普段着として着用しているらしいが、私の着られる服がこれぐらいしかなかったものだから私に貸していてくれて、後日私用の服を買いに行くそうだ。正直与えられすぎて申し訳なさがたった七年の人生きっての重圧で心に圧し掛かってくるが、客観的に考えてみると服も部屋もない状態はつらいので甘えるしかなかった。ちょっと悔しい。い、いつか恩返ししてやるうう。
とはいうが実際のところ、私は幸運であると思う。これ以上マグニさんに対しての文句などひとかけらも吐けないくらい運がいい。むしろ平伏低頭してしかるべき立場である。伯爵家からの脱走が成功しただけでなくこうして私を受け入れてくれる人のところまでたどり着くことが出来た。普通に考えれば、幸運でなければ私は道中でもっととんでもない目にあっていただろう。かあさまもいなくなりもはや天涯孤独だった私は、いざというとき発揮する豪運でもあるのだろうか。あ、伯爵はノーカウントで。あんな人親とも認めたくねぇ。
(あ、そうだ。昼のときに感じた感覚、データさんに確かめなきゃ)
魔素や魔力の説明の時に感じた妙なデジャヴ、データさんに確かめてみると、それは物質を構成する原子についての話だった。こことは違う異世界では原子というものがありとあらゆる物質を構成しているらしい。ちょっと根本が違うけど、魔力の話とよく似ている。構成する原子によって物の性質も違っているというところも似ていて、この性質は異世界で発達した『科学』という技術を駆使することで別の性質に変換することもできるようだ。この世界でも、そういう技術は発達しているのだろうか。
(あちらでは『科学』、こちらではたぶん『魔術』、なんだろうな)
そう問いかけると、データさんから同意の念が返ってくる。世界が違えば理も違う、なにもかもが違ってくるということだろう。違う環境下ではそれぞれ違う法則や決まりが生まれてくるのだ。
(私はこの世界で生きていけるだろうか)
データさんとの会話の中で知った、異世界の話。世界中の国々の治安は、悪いところもあるけれど良いところが大半で、人身売買は世界的に禁止されている非人道的行為と周知されている。私の世界とは大違いだ。全くの逆で、この世界ではこんな世間知らずが聞いたことがあるくらい、人さらいは怖いものだと知られている。それぐらいに彼らはこの世界の裏を、時折表に顔を出しながら横行しているのだ。
また、勉強や仕事の話。異世界ではある一定の年齢まで学校に通うことが義務付けられていて、それから仕事に就き始める。一生を勉強漬けで終える人もいるそうだから驚きだ。昔は出稼ぎとかで子供も働いていたそうだけれどもうそんな時代はとうに過ぎて、「子供は学ぶのが仕事」とまで言われているらしい。仕事を始めてからも仕事をする人は仕事を与える『会社』というのにある程度保護されて、年老いるまで安全に仕事ができるという。国で決められているから、だそうだ。私はこの世界のことはよくわからないが、異世界の勉強環境やら仕事やらがこの世界と大きく違っていることはわかる。この世界は貴族と平民、身分の境がとても大きいのだ。あの伯爵に対して、私たち母娘に散々嫌がらせしてきた使用人たちが頭を下げている姿は何度も見てきた。データさんの知る世界と、私の知る世界はあまりにも社会の空気が違っていた。
データさんの知る世界よりも厳しい私の世界。こんな小さな子供、常識知らずで知識無き子が、この先独り立ちして生きていけるのだろうか。
(―――いや、生きなきゃいけないんだ。生きて、いきたいんだ)
私はかあさまの子。強く生き、最期まで二本の足でしっかりと大地を踏みしめ立っていた、かっこいいかあさまの血を引くわたしは、リリティア。
データさんの知識の中の私は心を失い、伯爵に人生を掌握されていたけれど、今の私は違う。伯爵家で養われるという前提を崩し、データさんとともにあり、マグニさんに助けられた私とはもうかけ離れている。私が自分で判断し行動し、つかみ取った結果が現在なのだ。私は私だ。データさんの中の『リリティア=フォン・クリーク』じゃない。
自分で決めて、動いて、結果を出すということは大変なことだ。今回は運よくいい結果を出すことが出来たけれど正直あれは圧倒的な不利に立たされたギャンブルに勝っただけであると思う。そう、運が良かっただけなのだ。これから先、今回と同じような不利な状況に立たされてうまくいくとは限らない。いや、絶対にうまくいかないだろう。それにこの世界で生きていく自信がないのだ。
ならば、私は。
(強くなろう。マグニさんに教えてもらえるすべてを吸収して、自分の物にしよう。そして恩を返して、いつか旅に出よう)
蘇るのは夜食べたカレーの味。味わったときの感動。食べ続けていくうちに満たされていく至福感。
(あんなにおいしいものがこの世の中にたくさんあるのなら、私はすべてを食べてみたい)
かあさまを亡くした私は天涯孤独の身、かあさまの縁者を探すにもどうしていいかわからない。そもそもそんなに興味もなかったし、いざ会ってどうすればいいかもわからないから、ならばいっそのこと旅に出ればいいと思った。定住して居を構えるよりも旅をしながら新しい料理に出会う方が魅力的のように感じる。もしかあさまの縁者に運よく出会えればいいと思うけど、期待しても仕方がないから考えないことにしよう。
マグニさんのところにずっといられるとは思っていない。というか、それは私が許せないのだ。赤の他人である私を拾ってくれただけでも返しきれないくらいの恩があるのだから、早いとこ独立してこの家を出て、それからマグニさんに恩を返していこう。
よし、この先の展望が大体決まってきたぞ!
(当分はマグニさんから勉強やら色々学んで、常識を身に着けていこう。私は世間知らずなんだから。あとは外での習慣とかマナー、タブー、旅をしていて困らないくらいの知識と力と、それから、……)
私がこれから歩む道。その先には何が待っているのかきっとデータさんも知らないだろう。今この現在だってデータさんの知るものとは大きく離れている。
けれど私はあまり怖くはなかった。怖くはないと言ったら嘘になるけれど、それ以上に未来に対する好奇心と希望にあふれていたからだ。楽観視と言うなかれ。この未来を実現する単に私はこれから全力で邁進していくのだから。
誰にだって文句を言わせない、邪魔をされないくらいの自分になって、自由に旅をする。
それが私の、一生抱えていく指針。ただの「リリティア」の大きな目標だ。
*
目は口ほどに物を云う。魔力の見えるマグニにとって目とは口の何倍も真実を喋ってくれる魂の鏡だ。感情の揺れはもちろん、ある程度の喜怒哀楽を目に宿る魔力から把握することが出来る。人体の水晶である目にはそれだけ、純粋な魔力が詰まっているのだから。
マグニが初めて少女に出会ったのは小さな森の中。そこそこ大きな領地の境界線、それほど商人の馬車が行きかうわけでもない、けれど行きかわないわけでもない、そこそこ人通りの少ない街道の脇にある茂みの奥。それこそ、魔獣が住まうほど広くもない森の中に、少女は倒れていた。
マグニはその日散歩をしていた。彼にとって散歩とは自由気ままに行くものであり、時間にも場所にも制約されない自由な気晴らし。始めは暇つぶしで、しばらくして趣味に昇華した彼の散歩においては三日家に帰らない場合もざらであり、気が向くか持ってきた食糧が底を尽きるかしないと家に帰ろうとしない。時間管理がどんぶり勘定にもほどがあるマグニがその森の近くを訪れたのは散歩二日目のことであった。
あてどなく歩くことを楽しむマグニは、その体に膨大な魔力を宿していた。もちろんそれ相応に溢れる魔力保有量も莫迦にならず、マグニはその魔力保有量の影響を受け、体の性質が他とは大きく異なっていた。
まずは容姿。マグニの容姿は黒髪にアイスブルーの瞳、成人男性の平均より少し高めの身長で、筋肉はついているが着やせするタイプで傍から見ると少々細く見える。なまじ顔の形も整っており体のバランスも悪くないため大変美青年に見え、吟遊詩吟に唄わせれば『常闇を写し取った髪は月色の輪が煌めき、冬の湖畔に佇むかのような冷やかさと静けさを宿す薄氷の瞳は蒼月のごとき鋭さを湛え、こちらを流し見る様はまさに気高き孤高の狼』と讃えられることだろう。つまりは随分冷たい印象を与える容姿で年は二十代から三十代ぐらいと若干の年齢不詳に見える顔つきをしているのだが、彼は今年五十になる。体の魔力が活性して衰えることを知らず、彼の容姿はある一定のところで老いることを止めたのだ。それが彼にとって良かったか悪かったかは彼の深層心理のみぞ知るところであるが、趣味である散歩を難なくこなせる体力を維持できていることに関しては感謝しているようである。
続いて身体能力。満ち満ちた魔力は源泉枯れることなくあふれ出て、それこそ指の先の細胞に至るまで濃く宿った彼の肉体は一般的なビーストの身体能力を遥かに超えるほどで、半世紀生き抜いているにも関わらずその体に衰えはない。容姿だけでなく、その中身もまた全盛期の能力と実力を保ったままだ。なお、マグニ自身は散歩を気兼ねなくできてよいぐらいにしか思っていない模様。
最後に、能力。世間では『スキル』と云われているもので、対象の魔力の限界量が体と魔力保有の器からあふれ出るほどであるとき、その余剰分が何らかの作用を起こして対象の人体または精神に現れる特殊能力のことである。スキルは余剰となった魔力の質で大きく変化しみな一律でなく、威力も規模も大きく異なってくる。この能力を持つ人のことを『スキル持ち』というが、スキル持ちに共通していることは魔力光を見ることができるということだけだ。
マグニのスキルは『超直感』。なんとなくで選んだものが正解だったり、特に何も考えていないのに間が良かったり、選んだ道とは違う道で事故が起きて助かったりだとか、『偶然』をなんとなくの感覚で察知することができるスキルである。彼のスキルは彼が何をと思わずとも常に発動しており、今回もマグニは「またか」と思ったのだ。散歩を始めた瞬間、『超直感』が働いた感覚がしたのである。
『超直感』が働いたとき、マグニはある一定の方向に意識が逸れる。正確には自分の意志とは別な意志が唐突に働いて、マグニの意識がそちらに引っ張られていくのだ。今回は足のようで、マグニがどうと思わずとも勝手に動いていく。特に引き留めようと思わなければ足は全く止まらずさっさかさっさか、草を掻き分け山を越え谷を渡り、はてどこまで行くのやら。そうしてたどり着いたのがあの小さな森だった。
初め少女を見つけたとき、マグニは小動物が死んでいるのだと思った。少女があまりにもみすぼらしく土に汚れていたというのもあったし、少女に宿る魔力が見る見るうちに減っていっているのが見えたからだ。魔力とは体の活力そのもの。体の循環器官の原動力ともいえるそれが体外に出てしまう現象はまさに命の泉が流出していると言える。死後直後の体にほんのわずか残留していた魔力が、やがて空中へ魔素となって霧散する―――その様を何度も見てきたマグニは、また一つ命が消えるのかと感慨もなく、興味なさげに思った。マグニはすれ違う他人の死を目の当たりにしても、何も感じないぐらいには世の中を渡ってきていた。
しかし『超直感』はまだ働く。足を止める気はさらさらないマグニであったが、今まで『超直感』が場所に対して働いていたことからどうせ今回も場所だろうと思ったら、まだスキル発動が収まらないことに内心驚きを見せていた。そしてうつ伏せに倒れた少女の前にぴたりと足を止めたとき、マグニは初めてそれが小さな少女であることに気が付いた。
「この子に、なにかあるのか」
マグニは確信を持って呟く。それほどに彼のスキルの性能は優れており、幾度となく彼の身を救ってきたし、救わずとも何かしら良い方向に導かれたことがあった。マグニはそっと少女を抱き起し顔を覗き込む。
ひどくやつれた顔だった。ややこけた頬にざんばらに切られた黒髪が落ち、真っ青な顔は苦しそうに歪められ、荒く息をついている。少女に触れたとき、マグニは少女が熱を出していると気が付いた。魔力が命を危うくするほど流れだし、熱を発症する病。それは風邪などではない、魔力をもつ子供すべてがかかる成長病のようなものだった。
「魔力の発露か。しかし、これはひどいな……処置はされているが粗が多い。やぶ医者にでもかかったか」
このままでは少女は息絶えるだろう。魔力の発露は魔力を多く持つ子供が生き抜くための最初の関門だ。最悪死に至るこの病をこえれば子供は丈夫な子となり、病気に対する耐性も強くなる。幸い処置を施せば命は取り留めるので、親は腕のいい魔療術士を呼んで子供を必死に看病するのだが。
「貧しい子か、それとも奴隷か。……妙な子を拾ってしまったものだ」
既にマグニの心は、少女を拾うことを決めていた。『超直感』が今まで彼に不幸をもたらしたことがなく性能に絶対の信頼をおいているということもあったが、何よりマグニはこの少女に興味を引かれていたのだ。
「……周囲の残留魔素から見て相当流れ出しているというのに、魔力が枯渇する気配がない。それに流れ出す魔力の色も……ああ、全色流れているな、これ。天才じゃないかこの子」
マグニは少女の額にそっと触れ、自分の魔力で少女を包む。少女の魔力と反発しないように魔力を調和させながら、また魔力が少女の中でパンクしないように抜け道を作りながら、少女の魔力が過剰に流れ出さないよう魔力の膜を少女の体に行きわたらせる。
「とりあえずは、これで」
足はいつのまにか歩くことを止めていた。マグニは改めて、『超直感』の指示したものがこの少女であることを知る。
「よし、帰ろ」
マグニは少女を抱え直しつつ時空魔術『転移』の術式を足元に展開、目的地を自身の家に指定して一瞬で終わる帰路につく。
マグニは己と同じように大きすぎるほどの魔力を抱えた少女、彼女がこれから見るであろう世界に興味があった。少女は果たして、自分と同じ景色を見ることができるのだろうか、と。
まだ見ぬその目に、どんな魔力の色を写すのか。
久方ぶりに抱いた人に対する興味を感じつつ、マグニは『転移』特有の浮遊感を経て、自分の家の床を踏みしめた。