5
目が覚めたら知らない天井だった。浮上した意識ははっきりしなくて、ふわふわと水の上に浮かんでいるような気分だった。あてどなく視線を漂わせる。
焦点の合わない視界が捉えたのは茶色の木目と窓際から零れる陽の光。私が今まで見てきたどの部屋よりも温かな雰囲気があった。7年そこら生きたぐらいで何をと思うかもしれないが、少なくとも私はこの部屋に人のぬくもりを感じたのである。
さて、ここはどこだろうか。
「目が覚めたかな」
気が付いたら傍らに男の人が立っていた。ぼんやりしすぎて周囲の状況を全く理解できていないらしい。男の人に視線を向けると、男の人は柔らかい微笑を湛えた。その割に顔のつくりは鋭利で冷たい印象で、ちょっとしたギャップに驚いた。
男の人は私の額に何かを乗せた。ひんやりした感触が伝わってきて少しびっくりする。
「なに……」
「まだ熱は下がっていないからね。じっとしていなさい。魔力の発露による発熱だから、もう数日もしたら下がるだろう」
「まりょく……」
「―――なーんていっても、まだわからないかな」
男の人はそう言っていたずらっ子のように笑った。私は彼をぼんやりと見つめたままだった。まだ頭がはっきりしないが、変な男の人だなと思った。今まで私の周囲にいた男の人はもっと冷たい目をしていたから―――あの男以外は―――。
背筋が粟立ったのは、熱のせいかあの男のせいか。よく考えないまま、私は彼に問いかけた。
「あなたは、いい人?」
「ん? いい人かって……さてなあ」
男の人は苦笑して肩を竦めた。
「じゃあ、悪い人?」
「ううん? とりあえず君にひどいことをしようとは思ってないよ」
よくわからない人だ。嘘をついているようには見えない……と思いたい。
世の中には悪い人がたくさんいる。けれど同じくらい、いい人がいると思う。あの屋敷ではかあさましかいい人がいなかったけれど、かあさまは自分の故郷をすごく楽しそうに語ってくれたから、世の中にはかあさま以外にもいい人がいるのだと思う。今の私には、人がどうかわからないけれどデータさんもいるのだし。
だけど―――今の私は。
「悪い人につかまりたくはない」
「そうだね」男の人はただ相槌を打った。私の口はすべるように動く。
「ひどいめに合うならまだしも、死ぬような目にはあいたくない」
「うん。……随分シビアな考え方をするね。すれ違う人すべてが悪い人とは限らないと思うけど?」
「信じられない。信じたくない」
「……」
男の人は微笑んだままだ。どこか困っているような印象を受けた。
そう、今の私にとって誰かを信じることは、自分の命を天秤にかけることに等しかった。
「つかまりたくない。死にたくない」
頭が完全に覚醒していないせいか、思ったことすべてが口に出た。久しぶりに声を出したからか、それとも熱を出していたからか、口の中は粘つき喉もからからに乾いているけれど、声は引っかかることなく口から吐き出されていく。
「ころされたくない」
今の私の言葉は、私の心そのものだった。
「生きたい、生きたいの。私の足で、手で、心で生きていきたい。ころされたくない。操られたくない。人形になんて―――なりたくない!」
堰を切ったように出てくる言葉は私の願い。純粋な、私の―――カエラの娘、ただのリリティアの想い。
「かあさまにもらったこの命を、残してもらった体で、私は精いっぱい生きていきたい、私の意志で!」
「――――」
息を呑んだような音が聞こえた。気が付くと、私の目は涙で濡れていた。いつのまにか泣いていたらしい。あの茂みの奥で枯れるほど流したはずなのに、不思議だった。
するりと頭を撫でられ、髪を梳かれる。かあさまの掌とも伯爵の掌とも違う、しっとりと暖かいごつごつした掌だ。見上げると、男の人と視線があう。視線は柔らかくてかあさまの目のような温かさがあるけれど、どこか冷たくて、でも包んで抱え込まれるような安心感がある。
この人は、どうして私をそんな目で見ているのだろう。
「強い子だ。私にはとても眩しく見えるよ」
男の人はしみじみと言った。私の頭を撫でる手はちょっと乱雑だが嫌ではなかった。
「だから私は君に力を貸そう。生きて行くすべ、力、知識、私の知るすべてを君に与えよう。手に入れられるかどうかは君の努力次第だが、手に入れることが出来れば君は何でもできるようになるだろう。君は君の道を、君の力で生きていくことが出来る」
私の頭から手を離して、私の顔の前に差し出す。さしずめ、紳士が淑女のエスコートをするような丁重さで。
「どうだ、私の手を取るかね?」
表情は微笑んだままだった。だが、男の人の瞳に嘘偽りを見出すことはできなかった。私はそのスカイブルーの瞳をじっと見つめる。いくら見ても飽きない、どこまでも突き抜けるような蒼だと思った。
「―――……ま、今は熱が出ているからつらいだろう。答えは体調が戻ってからでいい」
男の人は差し出した掌で再び私の頭をなで繰り回した。
「今は眠りなさい」
そのときりーんと鈴の音のような音が脳裏に響き、途端強烈な睡魔に襲われる。私はそのまま夢の国に誘われ、瞼を閉じた。
*
視界が光り輝いていた。
赤。青。緑。橙。白。黒。金。銀。
数多の光が明暗様々に輝き、点灯し、上も下もない世界を縦横無尽に飛びまわる。光と光が瞬き合い、溶け、煌めいていくその様を見て、まるで万華鏡の中に閉じ込められているようだと思った。
しばらくして、不規則に動き回っていた気ままな光たちが急に動きを変えた。隊列でも組んでいるかのように空中に並んで旋回、ゆっくりとこちらに降りてくる。私の場所を軸にでもしているかのようだ。
そうだ。私は、今どこにいる?
疑問に思ったとき、私は光たちに囲まれていた。いつの間にか光たちは立体的な球体をなぞるように並んで旋回しており、私は光にたちに閉じ込められていた。
不思議に思って首を傾げようとするが、首がないことに気が付いた。思わず手を見ようとして、手がないことに気が付いた。私の体が見当たらない。
そのとき光たちの内の一つが強く煌めき、跳ね返るようにして私に飛び込んできた。するとほかの光たちもまた後を追い次々と私に飛び込んでくる。
私を包む光の球体が解けていく毛糸玉のように小さくなるにしたがって、私の体がだんだんと形を成していく。光が私の中に溶けて、『私』になっていく。光は私で、私は光を持っていた。
すべての光が私に入ったとき、私は初めて『私』を感じた。視界に見える掌は虹色で、色と色とが交互に見え隠れする。私の奥にある『私』は熱くて、冷たくて、涼やかで、堅くて、眩しくて、暗くて、柔らかくて、どこにもなく、いつでもあった。
*
目が覚めたら極彩色だった。
「うおっまぶしっ!」
思わず目を手で覆ったがそれでも視界がちかちかするものだから枕に顔をうずめる。
なにかのどっきりだろうか。それにしてはたちが悪い視界テロなのだけれど。
「……」
うっすら瞼を開けるが、視界はまったく晴れない。物の輪郭がネオン発光しているような感じで、それが視界に映るすべての物にあるものだから大変目によろしくない。7歳児で視力低下って、遺伝でなかったら悲惨な状況なのだが。
病気? 病気なの? なんなのこれ。
「うぐう」
どうしようもできなくて、呻くしかなかった。
「気分はどうだい?」
部屋に入ってきたあの男の人の、それはもうネオン発光どころじゃない虹色のまばゆい後光を背負った姿が視界に入ったときは、ベッドの上で外聞もくそもなくもんどりうった。目に悪いどころの騒ぎじゃない。あれは暴力だ。虹彩へのダイレクトアタックである。……で、データさん、虹彩って? ……なるほど、目に入る光を調節する目の器官、ね。それ今働いています?
視界クラッシュから何とか落ち着いた私は目を閉じたまま、瞼を通してもその存在感を主張する光の塊のほうを向く。
「おはようございます……」
「えっと、大丈夫かい?」
「だいじょうぶじゃないです」
「うーんと、どうしたの? 顔を覆って、……泣いてる?」
「泣いてないです。いや、生理的な涙はでそうなんですけど」
「なんで?」
「眩しすぎて目が痛いんですよ」
「目が……?」
「そうです。眩しすぎてなんにもできません。今はもうあの痛さがこわくて目も開けられません」
「ううん……?」
私の記憶が正しければ、私はこの男の人に命を救われた。今は熱が下がって手足を暴れさせられるほど体が軽いし、ベッドも貸してもらって現在進行形で大変お世話になっている。正直この命の恩人である彼に対してこんな態度は礼儀に欠けると思うのだが、どうしたって目を開けられない。というか瞼越しでもざくざく目を刺激してくるあの光はなんなの。なんで物とか人が光り輝いてるの。むしろ男の人の光りかたが尋常じゃなくてこの人人間なのか疑わしくなるんですが。
すると、じっとこちらを見ていたらしい男の人が懐から何かを取り出し、それを私に掛けようとした。突然手を伸ばされたので思わず驚いたら、くすりと笑われる。
「大丈夫だよ」
そう言って男の人が私の目元に何かを掛けた途端、視界が元の世界を取り戻した。あんまり強い光にさらされたものだからまだちかちかした残像が瞬いているけれども、瞼の裏にはぼんやりした闇が広がっていた。
「ほら、目を開けてみて」
恐る恐る開けてみると、いつもの世界がそこにあった。周りに光り輝いているものはどこにもなく、目の前の男の人だって光を背負っていない。少しほっとしたのか、肩の力が抜けて小さくため息をつく。
男の人が私に掛けたのは眼鏡だった。私には大きいもので、少し動くと鼻の頭からずり落ちてくる。
私は掛けてもらった眼鏡を支えつつ男の人を見上げた。
「あの、これ」
「その眼鏡は余剰に溢れ働く魔力を抑える効果があるんだ。君は今、手に入れた魔力をもてあましている状態だからね。さっき君は眩しいと言ったけれど、それはどんなものだった?」
「……いろんな光が、物凄い強く輝いていました。私の見える、すべての物が光ってました。あなたも光ってました、それはもう」
「それは魔力の光――魔力光だよ。魔力をコントロールできないと、世界に溢れる魔力光を無制限で見ちゃうから眩しくて仕方がないんだ。物にも人――私にだって魔力が宿っているから光って見えたんだね。体内魔力をコントロールできるようになると視界に制限をかけて、見える魔力光を抑えることができるんだけど今の君はできないからね。こうして話すこともできなさそうだったからその眼鏡をかけてあげたってわけ」
お世話かけました。
目元にかかった眼鏡を両手で支えながら、男の人を見つめる。
「? どうかした?」
首を傾げるその人に邪気はない、ように見える。私に触れる手も優しいものだった。
赤の他人である私をこうして助けてくれた。ちょっと前に出会ったばかりの私に力を貸してくれると言ってくれた。問いを受けてまだ返事をしていない私に知識をちょっとだけ教えてくれた。
―――信じてもいいのだろうか。
「……あの、私は何も知りません。何もありません。家事とか、は、何とかがんばれます。体力はあるほうだと、思います」
かあさまだけが味方だった。そのかあさまが亡くなってから初めて、私に優しく接してくれた恩人。撫でてくれた掌はかあさまの手の暖かさに少し似ていた。
そのぬくもりをくれたことが嬉しかった。もらったものを返したい、そう思った。
「命を助けてくれたあなたに、恩を返したいです。けれどその恩を返すための力を、私は持っていない。だから、私に力を、貸してください。将来あなたに恩を返す、そのための力を―――」
―――信じたい。この人を信じたい。
見つめる先の男の人はきょとんと呆けていた。次第に頬が緩んでいって、「綺麗に笑うんだなあ」と思ったら勢いよく頭をかき回されていた。
「いいよ、私についてきなさい!」
その声はなんだかとても嬉しそうだった。