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ごとごと。ぱかぱか。普段聞きなれない音で目が覚めたが、視界は薄ら闇に包まれていた。いつのまにか腕に抱えていた猫はまだ眠っている。図太いことだ。
視線だけを動かすと、板間からうっすらと光がこぼれていた。夜は既に明けているようである。隙間をのぞいてみると、別の木箱や布で梱包された荷物、麻袋などが見えた。
どうやら木箱で寝ている間に、無事伯爵家を脱出できたらしい。思わず、ほっと息が漏れた。
しかし一安心している暇はない。伯爵家から脱出はできたものの、私は外で生活するすべを何も得ていないのだ。母から母の故郷の話などは聞いているが、それは夢物語としてのお話でリアリティは大方が削られていた。外での暮らし方を何も知らないのである。そもそも私のいる木箱を運んでいる人たちが、善良であるかどうかすらもわからない。
(とりあえず、外の様子を探ろう)
耳を澄ますと、荷台が揺れる音と一緒にぱかぱかという音が聞こえた。これは馬の蹄の音だろう。伯爵家では外出に馬車を使っていて、その時にこの音を聴いた。続いて人の声。かすかにしか聞こえないから話の内容はわからないが、声の性質は2つだから2人いる。声の遠さからして荷台の中じゃなくて、馬を操作するところ―――データさんの情報によると、御者台、というところにいるようである。
それから御者台とは反対の方向、たぶん荷台の後ろの方でも馬の蹄の音が聞こえるから、荷台の数は一つではないらしい。いくつあるかはわからないが、私はいくつかある内の馬車の一つに乗っている、ということになる。まあ無賃乗車なんですけど。
(どうしよう。どうやって脱出しよう)
今の私に御者台にいる人に助けを求めるという考えはなかった。今まで悪意に晒されてきたからだろうか、母以外の人間が私を助けてくれるとは到底思えなかったのである。使用人たちは私たち母娘をいじめるか、なじるか、遠目で嘲笑するかの三択。正直御者台の人が私を助けてくれる展望が見えない。それに私は今風邪とはいえ病気持ち。しかも子供。保護を面倒臭がって捨て置かれても不思議じゃない。
一眠りして体力を回復したとはいえ、私の熱はまだ下がっていなかった。手足は辛うじて動くがひどくだるいし、頭が重くてくらくらする。走ることはできるだろうが、そんなに長くは走れないだろう。
(……データさん、データさんなら、どうする?)
データさんはこんな問いかけにも答えてくれるだろうか。情報でも推論でもなく提案を求めているんだけれど―――あ、答えてくれた。データさん凄い。
(『馬だって生き物だし、御者も人間。なら休憩するときが来て荷台が止まるから、周りが静かになるか人の気配がなくなったら外に出てみる』……よし、これでいこう)
私に体力はない。もし人に追いかけられたら絶対につかまってしまう。……失敗は許されない。
と、思っていたら。
「にゃあ」
「!」
腕の中で丸まっていた白猫が目覚め、元気に鳴き声を上げた。結構な音量で。
「あ、ちょ、」
「うなあーん」
「まって、声、見つかっちゃう……!」
そのまま白猫は私が慌てるのもお構いなしに伸びをして元気に鳴く。それはもう、「ああ今日もいい朝だなあ」とかそんな感じで。いや、実際に言っているのかもしれない。猫語で。この猫と話すことが出来たらこれからの私に生活に役立つようなことが聞けるかもしれないのに。
「……だ、…こ?」
「い………に……いりこ…だ………」
(ひいいいい)
見つかるかもしれない恐怖で現実逃避をしていたら本当に見つかりそうになっていて内心悲鳴を上げる。いかん、固まっている場合じゃない、まずこの猫をどうにかしなければ……!
「にゃあん」
「ひ」
「なごお」
「ひいいいい」
だというのにこの猫は鳴くことをやめない。それどころか私の様子を見て楽しんでいる様子すらある! 意地の悪い!
すると猫はするりと器用に木箱の蓋から外に出て、荷台から飛び出していくではないか! 脳裏でデータさんが「なにしとんじゃ馬鹿猫おおおおタイミングの悪いいいい」と悲鳴を上げているような気がした。
ああ嘘だろ!
「ま、待って!」
いかん。このまま私だけが荷台に残っていたらそれこそ危ない賭けに出る羽目になる。
御者台にいる人がいい人か、そうでないか。たったそれだけで私の運命は幸か不幸かの両極に傾くのだ。そんなギャンブルをするよりは、あの猫と一緒にいて「飼い猫がなんだの」と嘘八百を並べ立てたほうが何倍もましである。
猫を追って木箱を飛び出し猫の飛び出した方向を見やると、荷台の垂れ幕の隙間から白い尻尾がひらりと揺れるのが見えた。もう飛び出したのか早いよちくしょう!
負けてたまるかと妙な意地を張って全力で垂れ幕から飛び出す。着地したときにぐらりと視界が歪んで、その瞬間に私は熱があることを思いだした。危機感に煽られて意識が高ぶり、体の感覚がマヒしているのだろうか。普段こんなにひどい熱を出すような風邪をひかないからよくわからない。
私が着地したのは雑草交じりの地面だった。獣道とでもいえばいいだろうか、茂みを踏み鳴らしたような狭い道だ。
(白猫は)
視界の端を白い影がちらつく。猫は道の脇の茂みに入っていったようだ。私は着地したときの勢いをそのまま生かして足を踏み出し、猫の向かった茂みに飛び込んだ。
背後で男の人の声がした気がした。びっくりしたような声だった。……私のいた荷台に続いていた馬車の御者だろうか、だとしたらさぞ驚いたことだろう。猫と子供がいきなり目の前に飛び出して茂みに飛び込んだのだから。ちょっと、申し訳ない気分になった。
彼らの素性が良いか悪いかはわからない。もしかしたら助けてくれるかもしれないけど、私は彼らの人柄に賭ける気はなかった。今までの経験から信用できないのもあったし、リスクが高かったのもある。だが私はなにより。
(伯爵の家と商売している商人に、関わりたくない)
彼らを感情論で拒絶した。たとえ末端だろうとなんだろうと、伯爵家を関わっていることは事実。私は、伯爵とのつながりを徹底的に絶ちたかったのである。―――思ったよりも彼の存在はトラウマ化しているのかもしれない。―――狂気を孕んだような、あの笑みを思い出して背筋に悪寒が走った。
途端、視界が急転した。
「あっ」
茂みの緑から、地面の茶色へ。私は転んだようだった。それもそうだ、熱に浮かされた頭で考え事をしながら走っていたら転びもする。それに子供である私の足に茂みが覆い茂る地面はでこぼこしすぎて辛い。
動かなきゃ。
そう思ったが、足は動いてくれなかった。勢いをつけて起きようとしても足元がもたついてまたすぐに転んだ。頭ががんがん鳴って、視界がぐらぐら揺れていた。
何度も何度も転んでから上半身だけ起き上って足元を見ると、両ひざとも擦り剥けていた。痛い。樹の根につまづいたり茂みの枝で引っかいたりしていたから当然と云えば当然だが。というか今気が付いたが、私いま裸足だ。寝込んでいた部屋から夢中で脱出してきたから、靴を履いていなかったのだ。脱走の事ばかり意識がいっていて靴を履くという意識にすら向いていなかった。
「……馬鹿だなあ、私」
服は寝間着にカーディガンだけ、靴もない状態で、どう生きていこうというのだろうか。ましてや町で生きる知識も、森の中でサバイバルする知識もない。データさんに聞けばなにか教えてくれるだろうが、データさんも万能ではないだろう。データさんも元々は一人の人の記憶でできているのだから。
頭に冷水をぶっかけられた気分だった。途端に冷静になってきて、今までの私の行動に穴が見えてきて情けなくなる。急に自分がちっぽけに見えてきてしまった。
「馬鹿だなあ」
背後に人の気配はない。私が乗ってきた荷台の人たちはもう先に行ったのだろう。私と猫のことなど、気にも留めていないのだ。その猫すら、もう私の目の届く場所には居ないようだった。葉擦れの音すら聞こえてこない。聞こえてくるのは自分の荒い呼吸と、ひどい耳鳴り。
これで、私は一人。
意地の悪い使用人たちや傍観を決め込み遠くから冷たい視線を向ける使用人たち、私に底知れない視線を向けて妖しく笑う伯爵、突然現れたえばりんぼのお嬢様。みんないない。あの屋敷に、みんないる。私はそこから抜け出した―――逃げ出したのだ。
後悔はない。今生きるすべをなにも持っていないけど、あの屋敷で暮らしていくことの方がぞっとした。自分の知らないところで自分のなにか大切なものが誰かの手に握られている状況が恐ろしかった。
一人でいることは恐ろしくない。これから先、生きていけないかもしれないけれど、悪意のある人と一緒に生きるほうが生きた心地がしないだろう。自分を嫌う人とどうして共に居れるだろうか。屋敷で母と離されて働かされたときも、そう思った。だってその一日働き終えて部屋に戻ったら、母がいるのだから。
―――けれど、母は、もう。
「……かあさま」
一人でも平気だったのはかあさまがいたから。悪意にさらされても平気だったのは、かあさまが愛してくれたから。私のすべてはかあさまでできていた。かあさまがすべてをくれた。私に、生をあたえてくれた。だから私は生きていきたい。かあさまがくれたものを、無駄にしたくはない。
でもかあさま。私は今、独りなのですよ。
「か、あさま」
いつの間にか視界が歪み、涙があふれる。かあさまが倒れたとき、遺言を残したとき、かあさまが冷たくなったその瞬間さえ、涙はでなかったのに。泣きたいと思っていても出なかった涙が今、どうしてこんなに溢れてくる。忘れていた胸の苦しみが、慣れてしまった心の痛みが、今更になって蘇ってくる。
ああ、どうしてこんなに苦しい。
『リリティア』
かあさまはいつも私を呼び寄せて、ぎゅっと抱きしめてくれる。仕事に出る前と、寝る前に必ずそうしてくれた。
私が何か新しいことができたら、自分のことのように喜んで笑ってくれた。洗濯、皿洗い、掃除、草むしり、何だってその日一日に行ったことを報告すると、大きな目を細めて微笑みながら聞いてくれる。そして「よく頑張ったね」と頭を撫でてくれる。かあさまの掌はごつごつしていて傷だらけだったけど、「これは働き者の手なの」だとかあさまは自慢げに笑っていた。
使用人から嫌がらせを受けたとき、かあさまはすぐに飛んできて私を庇った。厭らしく笑う使用人をかあさまはじっと見ていた。かあさまはとてもかっこよかった。世界で一番きりりとしていた。私を抱き寄せていた体には不思議なほどぬくもりがあった。
『リリィ』
「かあさま……っ」
かあさまの声が今にも聞こえてきそうだけど、それは私の頭のなかだけ。ちょっと手を伸ばせば届いたぬくもりは、思い出でしかない。明確にリフレインするかあさまは、もうこの世にいない。
目に見えない。
耳で聞けない。
手で触れられない。
胸が張り裂けそうに痛くて涙が止まらない。溢れだしてくる大きな悲しみをどうすることもできなくて、もう一歩も動けそうになかった。ただただ泣いたまま、意識が遠のいていくのを感じた。