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次に目を覚ました時、私はもう一度絶望を覚えた。
ああ、夢じゃない。嘘だろ。
どうあがいても絶望。私の状況は、まさにそれだ。だって私は今もなお熱にうなされ、母と暮らした部屋よりももっと豪華な部屋に寝かされているのだから。十中八九―――というか、私をここに運んだのは間違いなく伯爵だ。あれが実の父親とか信じたくない。縁を切りたい。
ごろり、と天蓋ベットの上で寝返りを打つ。今まで感じたことのないふかふかは、ふかふかすぎて頼りなく、ひどく落ち着かない。
私はあのとき脳内を駆け巡った、鮮烈な映像を思い出した。
詳しくは覚えていない。理解が追いつく前に映像が次々と入れ替わったから。しかし映像の中の世界は、確実に今私が生きている世界とは違っていた。
見たことのない世界だった。空を切り取るように石柱と黒い線が天を突き、地上は黒や灰色の石で塗り固められていた。その上を人や動物が歩き、変な箱型のものが走っている。夜でも目が眩むぐらいの光に満ちていた。
そこに、彼女は生きていた。映像は彼女の視点のものだったから、彼女の姿は普段見えなかった。
彼女の周囲にはいつも人がいた。老若男女取り揃えるように彼女を囲んで、みんな笑っていた。たぶん、彼女も。
(あの人たちは一体、誰だろう)
不思議だった。多分、家族なんだろうけど。
―――すると頭の中で単語が一つ一つ浮かんできた。
(……父、母、祖父、祖母、姉、弟、妹……、……?)
ぽんぽんと浮かんできたそれは、私が今まで知るはずのなかったもの――家族の概念。放っておいたら次々と単語が浮かんでくる。
(叔父、叔母、従兄弟、はとこ、姪、甥、……ああもういい!)
いきなりのことで驚いて拒絶したら、情報の奔流はぴたりと止んだ。
(なんだこれは)
よくわからない。まるで私の頭の中にデータベースが出来たような……データベース? でーたべーす?
(データベースって、なんだ)
今まで聞いたことのない言葉が浮かんできて、さらに混乱する。おい。なんだこれ。どういうこっちゃ。
そもそもだ。私は―――リリティアはこんなにも論理的に思考できる子供だっただろうか。というか、こんな疑問を持つ時点で色々とどうかしているんじゃないだろうか。
振り返ってみれば母の死後、熱を出してからおかしかった。頭が茹っていたのは確かだが、あんなにも状況を整理したり、回想したりなんてできる子供じゃなかった。あんな俯瞰視点が出来るほど私は頭が出来ていなかったし、感情が死んでいるから自我が全体的に薄かった。それが今はどうだ、自我が薄いと自覚できる自我は薄くないだろうどうかんがえても! アイデンティティ確立してるだろう! ……アイデンティティってなんだよ! え? 自我の別名? 知らんがな!
なんだこれ。なんがこれ。なんぞこれ。どうかしてるぞ、なんなんだ! わけがわからん!
混乱が混乱を呼び、体が自由に動いたなら全力で暴れているだろう心境の中、ただ一つ、わかっていることがある。
―――何もかもきっかけは、あのくそったれ変態伯爵の気色悪い笑いを見たからだ!
*
あれから2日。私は未だベッドの住人である。いろいろ考えた結果、だんだんと私の頭の中で何が起っていたか整理がついてきた。
まず一つ。あの映像の奔流は私とは別人の誰かの記憶であること。その人物は女性で、私が今生きるこの世界とは別の世界で生活し、天寿を全うしたこと。しかし彼女の名前や周囲の人間の名前を知ることはできない。名前の『音』を得ることはできても明確な言葉としての情報は得られなかった。別に知らなくても困らないからいいのだけれど、なんだか妙なところがしっかりしているなと思った。
続いて、女性の記憶はある程度、私の任意によって引き出すことが可能であること。私が知りたいと思ったこと、疑問に思ったことを記憶の彼女が知るかぎりの範囲で知ることが出来る。だがどうやら私ではまだ知ることのできないことがあるようで、その知識を知ろうとすると人の手でやんわり止めるように拒絶される。記憶の方に意志があるかのようだった。
さらに、この記憶が目覚めてから私の人格が変わったこと。根本は変わっていないのだろうが、いきなり年をとってしまったような違和感がぬぐえない。いくら考えてもわからなくて、ダメもとで頭の記憶の知識で答えを引き出そうとしたら、「記憶が目覚めたことで記憶の持ち主であった彼女の人格、人生経験、価値観などがリリティアの精神に影響しているのではないか」という推論で返ってきた。どうやら「データベース」という言葉も、記憶の彼女の知識が影響して私の常識が多少彼女寄りになっており、無意識に言葉を選んだ結果であったらしい。最初に目覚めたときに人生詰んだと思ったのもそれが要因であるようだ。
……返答が返ってくるとか、まるで人と会話しているかのようである。
頭の中の記憶は、明確な言葉を返さない。ぼんやりとした意志や知識―――つまりは伝えたいことをダイレクトに私の頭に持ってくる。言葉と言葉の会話ではなく、意志と意志の会話だが、頭の中の記憶と色々やりとりをしているうちに親近感がわいてきた。
これからは頭の中の記憶を「データベース」という言葉からとってデータさんと呼ぶことにする。
データさんは色々なことを知っていた。私の何十倍も生きた人の記憶なんだから当然だが、それでもデータさんとの対話は楽しく、知ることの楽しさを学んでいった。やりとりの中でデータさんに「お願いだから頭の中に別の人の記憶があるとかいうんじゃないよ? 確実に頭おかしい子認定されて電波少女になっちゃうから」と言われたが、つまりデータさんの存在は普通じゃありえないことらしく、吹聴し回ったら私が孤立してしまうということらしい。
それは今とそんなに変わらないことなのに。そう思ったらデータさんからしょんぼりした感情が伝わってきた。……データさんにも感情があるようだ。なんだが不思議だけど素敵だ。
最後に、私の住む世界はデータさんの中でゲームの知識として記録されていたこと。そして、その記録の中で私は最後の敵として登場し、遂に倒されてしまうこと。その私の隣には―――伯爵、私の父がいたこと。
そう、私は記憶の中の父を見て絶望したのである。あれはろくな人間じゃない。本能がそう告げていた。その直感を裏付けするように、データさんは情報を提供してくれた。
データさんの中の私は、とあるゲーム――ゲームというものがよく理解できずにいたら、データさんに概念ごと叩き込まれた。理解して思う、これは口で説明するのがすごく面倒だ――の中に登場するラスボスである。名はリリティア=フォン・クリーク。クリークは伯爵家の姓で、年齢は17歳、未婚で婚約者はいない。幼少の頃母を亡くしたリリティアは伯爵に引き取られ養育されるが、彼女は伯爵の人形になるべく教育され、心を完全に無くしてしまう。母を亡くし呆然自失としていたところを付け込まれた結果であった。それからリリティアは伯爵の傀儡人形として伯爵の為に尽くす。そこに感情はなく、ただ伯爵に対する従僕意識と義務のみ。自身の境遇に対する感情は、もうとっくの昔に伯爵の手によって捨て去られてしまった。
人形となったリリティアは伯爵の思うままに動く。生まれついて恵まれた容姿と魔力で周囲を魅了し、陥落し、蹴落とし、伯爵の望みを叶えるカラクリ人形。彼女の犯した罪など、もはや数えきれない。そんな中、リリティアと伯爵の前に立ちふさがったのが、ゲームの主人公である少女とその仲間だった。
ゲームの名前は『エデン ~心象~』。プレイヤーは主人公の女の子を通し、目当ての攻略対象とめぐるめく恋愛模様を繰り広げていく恋愛ゲーム、いわゆる乙女ゲームである。
舞台は魔法の存在する架空世界のとある学校。主人公は稀有な魔術の才能を見込まれ、学校に入学するところから物語は始まる。対象の攻略はストーリー選択、パラメーター操作、ミニゲームの成績等が左右していき、3つのエンディングに分かれていく。様々な要素が関わってくるこのゲームは普通のファンタジーRPGとそう差し支えないほどのクオリティを誇り、当時の乙女ゲー業界で脚光を浴びたそうだ。
私こと、リリティア―――ゲームではリリティア=フォン・クリークが登場するのは物語の中盤。学校で開催された夜会において、その美貌を見せつける。始めは休学から復帰したミステリアスな女生徒として描かれるが、主人公と攻略対象がひょんなことから事件に巻き込まれ、事件解決に奔走し始めてからリリティアおよび、彼女の生家が容疑者候補として挙がってくる。事件を追っていく過程では主人公の純粋が故の煩悶、攻略対象とのすれ違いや交流が描かれているが、全体として重厚なミステリーを有しており、それがまたリリティア=フォン・クリークの怪しさを際立たせていった。
追い詰めたようで、追い詰めていない。そんなもどかしい追いかけっこの末、はたして主人公たちはクリーク伯爵家を追い詰め、リリティアとその傍らに佇む男―――リリティアの実父・ラグニフと対峙する―――。
さて、ここからが本題だ。
リリティアはこの場面において主人公たちと魔術合戦を繰り広げるが、彼女の膨大な魔力でもって構成される魔術は歪なものであると指摘される。それは、彼女の魔術が彼女の意志ではなく、背後に佇むラグニフの意志によって行使されるからであった。
魔術とは、人の心を形にするもの。だから魔術は十人十色、千差万別。属性はあれど形に括りはない。それが『エデン ~心象~』における魔術定義であった。だから魔術が魔力所有者本人ではなく他人の手によって引き出され構築されるとき、その魔術は歪なものとなる。
この場面で主人公たちはリリティアがラグニフの手によって操られていることを知る。人形というのは抽象的な表現ではなく、まさにラグニフの魔術によって踊らされるカラクリ人形であるということだった。さらにリリティアの心は完全に殺されてしまって久しいため、リリティアをラグニフの呪縛から解き放つには彼女を殺すしか手がないことをラグニフ自らが語る。動揺を隠しきれない主人公たちは良心との葛藤もあり追い詰められていくが、辛くもリリティアとの死闘に勝利し、哀れな少女リリティアはとどめを刺されその生涯を閉じた。最期までその瞳に感情を写すことなく―――。
これ、人が送っていい一生じゃない。それが私の第一印象である。さらにこの展開、全攻略対象に共通するストーリーなもんだからもっとたちが悪い。主人公がどのルートに進んでも私は殺されてしまうのである。
さらにリリティアのラストシーン、彼女が命を落とす要因となったのは彼女の自滅行為であった。歪な魔術の行使は少なくないリスクを生む。伯爵はそのリスクを逆手に取り、主人公たちの至近距離でリリティアに自滅行為を行わせた。間一髪主人公たちは助かるが、リリティアはそのまま倒れ伏してしまう。
伯爵はそのとき、笑っていた。そう、あのとき涙を流しながら向けられた、あの壮絶な笑みを浮かべていたのだ。つまりあの笑みがトリガーとなって私はデータさんを思い出したのである。データさん曰く、伯爵のあの笑みは「リリティアの死亡フラグ」であるそうだ。
そしてゲームの私は幼少期に伯爵の手で心を殺されたという設定。それも母が亡くなったあとに、ということはつまり、
(―――ちんたらしてたら私の明日はない)
そう。明日か、あさってか、来週か―――私の心が殺されてしまうのはそう遠くないということだ。
冗談ではない! 感情が多少死んでいる自覚はあるが、心まで無くすつもりはない! それでは亡くなった母を想うこともできなくなるじゃないか!
データさんの情報がすべて正しいとは思っていない。データさんも、「これは別の世界での話だから、この世界で同じことがおきるとは限らない」という推論と一緒に情報を渡してくれた。
ここは私の現実。私の人生。データさんの影響だろうか、すべては私の行動次第なのだ、という思いが湧き上がってくる。
伯爵が私の心を殺したのは、母が亡くなった後の話。ならば、伯爵が私の心を殺す前にここから逃げ出せばいい。彼の掌の上に私がいなければ、少なくともゲームのように伯爵の人形になることはなくなるはずだ。
(…………だけど、どうやって逃げよう)
現在私は世間知らずの平民娘。母から言葉と家事は教わったが、外の常識や地理などは全く知らない。この辺の領域はデータさんも知らない。情報ゼロ。データさんに「ごめーんね☆」と言われた。……わかってるよデータさん、私を和ませようとしてくれているんだね。何故か冷や汗かきまくって引きつった笑いを浮かべる女性の顔が脳裏をよぎったよ。でもねデータさん、
(つんでる。なにこれ無理ゲー)
今は絶望しかないわ。