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「じゃあ、マグニって人はリリねーちゃのあたらしーとーちゃ?」
それはベルちゃんの素朴な疑問。思わぬ問いかけに一瞬その場の空気が固まった。
やっと私の涙も収まり、ベルちゃんを宥めたところで話題に出たのはマグニさんのことだった。
父も母もいないからという訳でもないが、身寄りがないところをマグニさんに拾ってもらったという話をしたら――この話をマグニさんはしていなかったらしい――、ベルちゃんの彼女にとってそれはもう単純な疑問が飛んだのである。
まあ、みんなはともかく私にとってそれは単純でもなんでもないのだけれど。
「いや……ちがう、かな?」
当事者の私も疑問形で返してしまう。首を傾げたら、ベルちゃんも一緒になって首を傾げた。そのきょとんとした顔はまるで小動物である。
「よくわかんねーのか?」
「馬鹿アイク。簡単な問題じゃないのよ。……多分」
「ケイもわかんねーんじゃねーか」
「あんたわかるの?」
「わかんねーよ」
アイクとケイもいつもの言葉の応酬だが覇気がない。なんともいえない表情をしていて、戸惑っているのだろう。もしかしたらアイクの方はたまにベルちゃんから素朴な疑問を問いかけられて困惑したことがあるかもしれない。
「むずかしいことは、よくわかんないなあ」
テナは困ったようにへらりと笑った。するとおずおずと、セリオが口を開く。
「こういうことって本人が考えるのがいちばんだって、お父さんが言ってたよ。リリィ、考えてみて」
「かんが、える」
ふと、考えるということがとてつもなく難しいことのように感じた。
それからは、日が傾いてきたこともあってこの話を区切りにお開きとなりその日は解散。私は半ば呆けながら帰路についたからか、帰り道の記憶がほとんどなかった。
*
疑問がわいたとき、どうすればいいか。
私なら―――、
『これはリリィの問題。聞くんじゃありません』
……データさん以外なら、本で調べる。
かあさまのことを初めて人に話し、ベルちゃんからマグニさんのことについての問いかけを貰ったその翌日。私はマグニさんの家の書斎にいた。今日は青空教室の日ではないので一日中家にいる。ちなみにマグニさんはお昼前に出かけて行った。昨日随分ぼんやりしていたからか、すごく心配そうにこちらを見つめて出ていった。
魚の香草焼きと山菜サラダを食べた体で梯子を上る。ちょっとお腹が重くて、すこし休んでから動いたほうがよかったかと後悔しつつも、私は目当ての本を手に取った。
『ビーストさんとエルフさん』。その四巻目である。内容は三巻まで冒険活劇だったのに対し、四巻は身内話。ビーストさんとエルフさんそれぞれの故郷に立ち寄る話である。
物語の序盤のページを開く。ビーストさんの家族が登場する場面だ。
『玄関にはビーストさんのお母さんがおりました。「おふくろ」とビーストさんが声を上げると、その声を聞いてか、奥からぞろぞろと、ビーストさんの耳とよく似た耳を持つ人たちがいっぱい出てきました。ビーストさんはびっくりしたようすで振り返り、「おやじと、あねきと、おとうとたちだ」とエルフさんに紹介しました。』
次に物語の中盤のページを開く。今度はエルフさんの故郷に行ったシーンだ。
『森の奥、エルフの村の扉の前で、ノックをしようとしたビーストさんに向けて「ぼくには母がいない」とエルフさんが言いました。「ぼくを男手ひとつで育ててくれた父と、家事を手伝いに来てくれた近所のおばさん、そしてぼくを強くしてくれた師匠。これがぼくの家族」エルフさんはすこし俯いていましたが、すぐにぱっと顔をあげて、ビーストさんを強い目で見つめました。「誰かがぼくの家族のことをとやかくいうかもしれないが、怒らないでくれ。ぼくは全然気にしちゃいないんだから」怒りっぽいビーストさんを心配しての言葉でした。』
「おふくろ、おやじ、あねき、おとうと、ちち、おばさん、ししょう……、」
ビーストさんとエルフさんの家族の名前を口に乗せる。本が身近な私にとって、本の中のビーストさんとエルフさんの『家族』が、一番身近に思える家族の形だった。だからこの中から、私にとってのマグニさんはどういう人なのか知ろうと思ったのである。
もちろんマグニさんを私の家族だなんて、おこがましすぎて口が裂けても言えない。しかし私にとってのマグニさんはと聞かれるとどうにも答えが出そうにないのである。データさんの知識からも「一つ屋根の下で暮らす=家族」の式が一般的であるようだし、ならば家族という言葉を切り口に答えを探そうと思った。……のだが。
「そもそも家族ってなんだろう」
『なんか哲学に辿りついちゃったね』
随分難しいことにぶつかってしまったようだ。思わずうなる。
今までの私にとって家族とは、血のつながったかあさまだけだった。勿論あんな男を家族ましてや父親なんて思いたくない。同じ屋根の下、というか敷地内で暮らした使用人たちを家族とも思わない。よくてちょっと迷惑な隣人程度の物だろう。
ではマグニさんはどうか。マグニさんはとてもいい人で、恩人でもある。「家族になりたいか」と問われれば「いいえ」なんて答えはでない。しかし、「はい」ともいえないのが現状の私だ。
本にあるおばさんの反対、おじさんでもない。「マグニさん=おじさん」の図式はどうあがいても違和感しかない。言葉の方が釣り合わないレベルで若々しい人である。
なら、
「ししょう……?」
私は『ビーストさんとエルフさん』を元の場所に戻して、本棚の傍らにある机に向かう。そこはマグニさんがいないとき用の私の勉強机で、辞書が数冊置いてあった。
そのうちの一つを手に取る。
「し、し、ししょ、ししょう、……<学問または武術・芸術の師。先生>、」
こ、これは。
*
マグニは森の小道で小さくため息をついた。夕暮れの森の中で憂う彼の姿はより一層儚く美しい。思うのは、先程聞いた子供たちの言葉である。
『せんせー!』
声をかけてきたのはエメラルドを光に透かしたような薄緑色の髪に空色の目を持つ小さな少女、ケイだった。マグニが村の道をのんびり歩いているところに、家から走ってきたのか息を弾ませながら駆け寄ってきた。確かリリィと友達だった子だと思いだし、彼女の息が整うのを待ってからマグニはどうしたのかと問いかける。
『えっとね! 昨日ね、リリィちゃんとおかあさんのことおはなししたの! それで、そのときにリリィちゃん泣いちゃって……リリィちゃんは気にしてなさそう、だったけど、その、大丈夫だったかなって』
マグニは思わず目を丸くする。昨日の夜も、今日の朝だってそんな話はしていないし、変わった様子もなかったからだ。
マグニはリリティアと接するうちに彼女にとって家族というものがタブーに近いことはなんとなく察していた。いつか落ち着いたら話してくれるだろうと思っていたら、まさか自分ではなく外にできた子供たちに話しているとは。少なからず懐かれている自信のあったマグニは若干気落ちしていた。
(そうか、もう、大丈夫なのか)
その状況を一番始めに知れたのが自分でなかったことはいささか不満ではあったが。
ウリベルの言は間違っていなかった、と実感を覚える。彼女の言うように、子供たちはリリティアの抱えていた『壁』を大きく飛び越えて、彼女の傍に寄り添ってくれていたようだった。多少自身が言葉を添えたからということもない。彼女たちの行動は真に彼女たち自身の心によるものだった。
しかしそれにしたって、一番リリティアの傍にいたはずなのにその決定的瞬間に寄り添えなかったのは腑に落ちないし不満だ。そうマグニが考えているときだった。小道の脇に覆い茂る草むらの一角から丸いものが飛び出してきた。
「んっ?」
勢いよく転がってきたそれはマグニのつま先にあたり、ポテンと柔らかく跳ねて動きを止める。マグニは拾い上げたそれが森に生る桃だと気が付くと同時に、桃の転がってきた方向から走り寄る小さな気配を感じ取った。
だが小さな気配は茂みを抜ける寸前で動きを止め、じっとこちらのようすを伺っているようだった。マグニは首を傾げつつ歩み寄る。
「リリィ? そんなところでなにしてるの」
茂みの中を覗き込むと月色の目がちらりと輝く。無表情だが、その目に若干の不安を乗せた黒髪の少女はリリティア。マグニがつい最近保護した少女である。最初はざんばらで栄養不足のためかぼさぼさにほつれていた黒髪は、肩口で綺麗に整えられており、その面影はない。やせぎすだった体もだんだんふくふくとした健康的な子供の体になってきており、今はその体を小さくして果物の入った籠を抱えながらしゃがみ込んでいる。家で黒猫シリーズの食器を使っていることもあって、リリティアを見ている彼の脳裏にはよく小さな黒猫の姿が過っていた。
リリティアは小さく口を開けるも、声を発さない。彼女はこうして、何かを言い留まることが多かった。元々喋る機会が少なかったのか言葉も舌足らずで覚束ない。普段の勉強の様子から賢いことは確かなのだが、自分から言葉を構築して喋るということ自体慣れていないようだった。
もちろん礼儀はあるし、悪い子ではない。しかしマグニは、結局なにも言えずにしおれるとするリリティアを大変もどかしく感じていた。
「リリィ、ほら、これは君が持ってきた桃だろう」
「う、はい」
マグニが手渡した桃を受け取り、リリティアは俯いた。落ち込んでいるというよりは、なにか迷っている様子。しきりに口元を動かしているところをみて、マグニはリリティアがなにかを伝えようとしていることを察する。
「ゆっくりでいいよ」
「……、」
マグニはリリティアと視線を合わせてその場にしゃがみ込む。
リリティアがなにかを伝えようとしていること自体は何度もあった。しかしそれはお手伝いがしたいとか、勉強のわからないところがあったとか、お風呂が沸いただとか、日常的なことでしかない。彼女は率先してマグニを手伝おうと、役に立とうと頑張る傾向にあり、またその行動がマグニをもどかしく感じさせていた。
(もっと頼ってくれていいんだけどなあ)
あまりに子供らしくない、一人で立とうとする少女はあまりにもいじらしかった。マグニと一定の距離を保って接してこようとする少女を見ていると無性に構い倒したくなるのである。その結果が勉強や魔術・武術の指導というのは、このマグニという人物がどれほどずれているかという証拠にもなるのだが。先日彼のズレっぷりを叱ったウリベルは残念ながらここにはいない。
ともかく、マグニはリリティアに対して『待つ』姿勢をとっていた。それは彼女の『目』からあんまり近づきすぎると拒絶されるということをわかっていたからでもあるし、ウリベルの忠告を受け「子供は子供で」という意識があったからでもある。だが、なにより彼はリリティアが『前』へ進もうとしていることを感じ取っていた。小さいながらに一歩を踏み出そうとするその気持ちと覚悟を、マグニは尊重したかったのである。
リリティアはマグニの見守る中で、確実に一歩一歩を刻んでいる。
(昨日の一歩をそばで見られなかったのは残念だけど、でも嬉しいことだ)
そう思いながら、ゆったりした気持ちで待っていると、リリティアが籠を勢いよくマグニに差し出した。
「あの! これ! ……その、書斎で、本を見つけて。フルーツタルト。……桃、おいしいかなって。今度、私が、作ってみようかなって」
「うん、いいんじゃないかな」
「そ、それで……」
「ん?」
まだなにかあるのだろうか。リリティアが立て続けに何かを伝えようとするのは珍しくて、マグニは思わず目を丸くする。口をはくはくと動かすリリティアの視線は下に落ち、水にぬれていた。
「……―――ま、マグニ、ししょう……に、食べて、もらいたい、と……」
真っ赤な顔のリリティアから紡がれた言葉はあまりに小さく、森の音にまぎれて消えそうなほどか細いものだったが。
確かに聞いたマグニは己の耳を疑うと同時に、雷をも凌駕しかねない衝撃に襲われていた。
固まったまま反応のないマグニを見て、リリティアは赤かった顔を真っ白にし、ぷるぷると震えだす。
「あ、いや、その、い、いやだったら、いいんです。ごめんなさい。いつも、みたいに、マグニさんて―――」
「いいや大歓迎だっ!!」
「ほあっ」
マグニはリリティアを籠ごと抱え上げて立ち上がり、その勢いのままにくるりと一回転した。そしてそのままぎゅうっと抱きしめるのだが、リリティアにしてみればいきなり視点が高くなって空中を旋回ししたため目が回ってしまい、なにがなんだかわからなくなっているようである。しかしマグニは彼女のことにはまったく気が回っていなかった。
マグニは世の老若男女すらも目を眩ませるであろう満面の笑みを浮かべていた。要は、感極まってしまったのである。
(今まで私を頼ってこなかったリリィが、私を『ししょう』と呼んだ。歩み寄ってくれた!)
ああこんなに嬉しいことがあるだろうか! マグニの心は歓喜に満ちていた。―――あまりの感動で、リリティアが彼の腕の中で苦しそうにもがいていることに気が付かないくらいには。
―――マグニは随分前から、この腕の中の小さな存在に一喜一憂する自分に気が付いていた。それはきっといつもの『勘』をきっかけとしたものだったが、今はもうこの小さな存在に対して並々ならぬ思いを抱いている。五十年も生きた自分がなにを、と思わないでもなかったが、むしろ五十年も生きたからかもしれないと思っていた。
(子を持たない私が、しかもこの私が! まさか父性に目覚めるとは。世の中とはなにが起こるかわからんものだ)
彼女のような存在は過去たくさん見てきたというのに、なぜリリティアなのか。それは彼のあずかり知らぬことだが、そんなことはどうでもよかった。ただ小さな少女リリティアと過ごす毎日が鮮やかに色づいていく様が楽しくて仕方がなかった。この先大変なこと、悲しいことがあろうとも、この子の見方であろうと、そう思う気持ちが日々増えていくのを感じていた。
きっとかの友人はこんな気持ちで、自分の子供たちを見つめているのだろう。
(父ではなく、師匠か。いや、悪くない。うん)
ただ腕の中を温めるこの小さな存在が、健やかであれと、マグニは願うのである。
結局リリティアはマグニの腕の中で気を失い、慌てたマグニに謝り倒され居たたまれない気持ちになるのは、もう少し後のお話。
「師匠」の意味はgoo辞書より引用いたしました。