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武術を習い始めて一月が経った。季節は夏になろうとしている。私がマグニさんに拾われてからもう二月半ほどたったということだ。今更になって私は季節の感覚を覚え始めていた。
マグニさんの家がある森や、レピトン村の様子もだんだん変わり始め、早い農家さんでは既に収穫が始まっていた。春の食べ物、とのことだ。淡い色の実が多く、体の調子を整える効果がある野菜がいっぱいある、というのはテナの言葉。彼女の家は農家さんだった。
以前、テナの家に遊びに行ったことがある。青空教室の帰りだった。おっかなびっくりの私を引っ張って、他の三人も連れてテナはいつもの顔で玄関に突撃、「ただいまー!!」という元気な声に驚いてしまった覚えがある。いつにもない彼女の大きな声は帰宅の知らせなのかもしれない。
出迎えてくれたのはテナのお母さん。みんなはレミおばさんと呼んでいるその人は、テナと同じ薄金の髪をゆるく結って肩に流した、若草色の綺麗な目をした女性だった。活発なケイとは違ってゆったりした人のようで、ふんわりした態度と表情で私たちを迎えてくれた。
戸惑う私にも構わず、というか引っ張っていつものように遊び、レミおばさんに見守られながらきゃいきゃい騒いでいたら、いつのまにかレミおばさんの隣に男の人が一人増えていた。びっくりして見つめたその人はテナのお父さんのローレンスおじさんとのこと。こげ茶色の短髪で、ケイと同じ橙の目をしていた。彼は私たちが帰るとき、「マグニさんのとこの子だね」と私に声を掛け、野菜を抱えるくらいの駕籠に詰めて渡した。彼にはいつも世話になっているからと、人懐っこい笑みを浮かべていた。
それ以降、私の反応が楽しかったのか面白かったのか、アイクたちはこぞって自分たちの家に私を招きたがった。じゃんけん、かけっこ、木登りなどでその日の遊び場――それぞれの家――を競い合う様子は「私そんなに様子おかしかったのか」と不安になるほど激しかった。何回か繰りかえして、みんな疲れたのか遊び場は順繰りに回っていくことが自然と決まったが。
そして、今日の遊び場はアイクの家である。
「今度ね、あたしんちにしんせきのおにーさんがくるんだって!」
「しんせき?」
「お父さんのお兄さんのぎりのお姉さんの息子さんなんだって!」
それはもはや他人というのではあるまいか。どこかわくわくした表情を浮かべるケイの後ろで私はそう思った。
レピトン村の家と家の間隔は農地や牧場があることもあって、結構な距離がある。データさんのいたところは二歩歩いたら隣の家なんてざらな環境だったようで、日々私が歩く道のりに対してげんなりしているようだ。
『毎日歩けと言われたら枯れ果てる自信がある』
それほどに、データさんのところにはたくさんの人が密集して住んでいたようだ。
「ケイちゃん、たのしそおー」
「うん! 楽しみよ! だっておにーさん、王都に住んでるんだって! いろんなお話聞けたらいいなあ」
王都。王都に住んでいるケイの親戚のお兄さんが今度この村にくるらしい。
(いっぱい人が集まってくるんだろうなあ)
というのも、レピトン村では外から来た人に関する噂の広がり方が尋常じゃなく早い。毎週村を訪れる行商人さんが、見習いらしい男の人を三人ほど連れてきただけで人だかりができていたし、西の方から海を渡ってきたという吟遊詩人さんが村に泊まったときは歌を披露してもらい、村中大盛り上がり。私が村に訪れていないときには二人組の旅人さんや領土を巡回している騎士さんたちがきたことがあったそうだ。もちろん村総出で出迎えもてなしたという。
レピトン村は辺境中の辺境。ほとんど人が訪れることがないため、村人以外の人が珍しいのだ、とはマグニさんの言葉。マグニさんも初めてこの村に来たときは熱烈歓迎を受けたそうだ。
はたして今回、ケイの親戚のお兄さんはどれほどの歓迎を受けるのだろう。
「でもなんでケイのお兄さんこの村に来るの?」
「んーん? 知らない」
「……この村なんにもないのになあ」
「セリオひっでえ!」
「だって本当になんにもないんだもん! 僕前にお父さんについていって町に出たことあるけど、あそこは本屋とかご飯屋さんとか、いっぱいものがあったよ」
「あー、確かにレピトンにはー、そういうのはないねえー」
「そう言われると……、王都って、町よりおおきいんだよな? ケイのにーちゃんそこにすんでるんだよな?」
「……なにしにくるんだろ、おにーさん」
「ねー」
「なー」
「物好き?」
「変な人?」
「変だよねえ」
「変だなあ」
いつのまにか四人の中で、ケイの親戚のお兄さんは変人であるという定義が生まれてしまった。
見知らぬケイの親戚のお兄さん、どんまい。
「でも王都って行ってみたい! たのしいところなんだって」
「ものがいっぱいあるのよねえ。歌のお兄さんが言ってた」
歌のお兄さんとは少し前に村で宿泊していった吟遊詩人のことである。深緑のマントを纏いいくつかの楽器を演奏する男の人で、子供たちの間では「歌のお兄さん」で通っている。
「歌のお兄さんみたいな人もいっぱいいるのかなあ」
「そうじゃない? お兄さんの歌また聞きたいな! 今度はリリィちゃんも一緒に聞こ、とってもきれいなんだよ」
「ん」
ちょうど吟遊詩人さんが訪れたのは私がマグニさんに連れられて森の帰る途中だった。そのため、大盛り上がりした村の様子は見れたが彼の歌を聴くことはできなかったのである。どうやらその吟遊詩人さんは定期的にこの村を訪れるらしいので、そのときにはぜひ聞いてみたい。
話をして思い出してきたのか、ケイは歌のお兄さんに教わったという歌を口ずさみ始めた。
「森の子風の子 道でて拍手 手ぇを叩けばほらたのし
泣く子も寝る子もみなおきて さあさ拍手 ほら拍手
火の子水の子 踊って拍手 足音叩いてやれたのし
みかくれみかくしみないでて さあさ拍手 やれ拍手」
ケイは歌の調子に合わせて手を叩き、また歌詞に合わせてステップを踏む。その調子がなんとも心地よくて、自然と私も手を叩き体を揺らしていた。
楽しくなってきたのかテナもケイに合わせて歌いだした。
「「空にすまう子 降りいて拍手 手ぇをつなげばほらうれし
かげにすまう子こっちおいで さあさ拍手 ほら拍手
わっかになって みんなで拍手 足音かさねてほらたのし
おどってさわいで笑いましょ さあさ拍手 さあ拍手」」
体をゆらし、さあ手を叩こうとしたら両手がふさがっていることに気が付いた。見れば、左にアイク、右にセリオがいて私の手を握っている。前方にいるケイとテナも手を繋いで楽しそうに歌を歌っていた。その声はもう口ずさむなんてささやかなものじゃない、村に響く歌声である。
前の二人の歌に合わせて、両隣の二人が交互に歌う。
「手ぇがないなら 足踏みとんとん 足がないなら体をゆらそ」
「みんなたのしく ひとつになって さあさおどろ みなおどろ」
「……」
「……」
「よーしもう一回! こんどはリリィちゃんもごいっしょに!」
「えっ」
「いちにいさんはいっ!」
それからは五人で歌の大合唱。手をつないで、体をゆらして、ときには手を離してみんなでステップを踏みながら。私は皆の一挙一動を必死に真似して歌い踊った。
アイクの家までもう少し。教会からアイクの家までのびるちょっと大きな道は、このときだけは少し輝いて見えて、一歩一歩にどきどきした。
影法師はゆっくりと背を伸ばして、私たちの後ろからついてきた。
*
「今日はうちなのね! いらっしゃい!」
「いらっしゃー」
アイクの家について、出迎えてくれたのはアイクのお母さんであるリエカおばさんとアイクの妹ベルちゃん。二人とも綺麗な緑青の髪を一つ結びにしており、真ん丸な緑の目はそっくりで母娘そのものである。一方のアイクの短い髪は氷のような水色、目の色は同じだが木の実のような釣り目であまり似ていないのは、アイクが父親譲りだからだそうだ。彼のお父さんは猟師さんであまり家にいないらしいので私は会ったことがない。ただアイクはいつもお父さんのことを自慢していて、誇りに思っているようだ。
「ただいま! 今日もベルつれてっていい?」
「ええ、最近は調子がいいからね。混ぜてやってちょうだい」
そういうとリエカおばさんはベルちゃんの背中をそっと押す。ベルちゃんは嬉しそうにこちらに駆け寄ってきた。
ベルちゃんは三歳の女の子で体が弱い。あまり激しい運動をしすぎると呼吸が上手くいかなくなるらしく、外に出ることはめったにない。大人になれば、と前にリエカおばさんが零しているのを聞いた。村に来てからわかったのだが、子供というものは好奇心の赴くままに駆け回るので己の体力調整が出来ず、疲れたら電池切れの玩具みたいにピタッと動きを止めてそのまま寝入ってしまうものだ――私はどうかって、それはお察しだよデータさん――。もしベルちゃんが同じ行動をすれば呼吸が出来なくてぶったおれてしまうだろう。
なのでベルちゃんは一人で外に出ることが出来ない。リエカおばさんやアイクと一緒なら外には出られるが、外で遊ぶことは止められている。そのためか、アイクは自分の家で遊ぶときいつもベルちゃんを遊びの輪に入れたがっていた。
「こんにちはベルちゃん!」
「こんにちはー」
ケイが声を掛けるとベルちゃんはにぱっと笑った。可愛い。
ベルちゃんは「にーた」とアイクを呼んだ。
「にーた、今日なにすう?」
「おう、ベルは何したい?」
「べりゅ? べりゅね、おそと! おそとでお花見たい!」
「じゃあ外行くか! かあちゃん!」
「ああいいよ、みんな一緒ならいっといで」
飛び出していく私たちを見送るリエカおばさんはからっとした笑顔を浮かべていた。
私たちはアイクの家から少し森の方に近いところにある花畑に向かった。ベルちゃんに合わせて歩いて十分ほどの距離のところにあるこの花畑には以前春の花が咲いていたが、今はもうまばらで新緑の海にぽつんぽつんと白や黄色の花が浮かんでいる。花が好きなテナは「ここはねえ、年中色んなお花さんが咲くのよお」と言っていたから、夏を迎えればまた春とは違う花を見れるのだろう。そのときはみんなで、ベルちゃんも連れて来られたらと思う。
ここにきてまず私たちがしたことは、ベルちゃんの前にたくさんのお花を摘んでくることだった。花の咲いているところがもうまばらで、あまりベルちゃんを動かせては体に障るからだ。この辺はもうみんな暗黙の了解で、「ほーらこんなにお花がー」なんて、アイクはおどけて見せていた。それをみてきゃっきゃとはしゃぐベルちゃんはとても無邪気だった。この二人の兄妹の雰囲気から、私は親の愛情を感じ取っていた。
(大事に育てられてきてるんだろうな)
いつもはやんちゃで、ケイに言わせると「空気読めないやつ」であるアイクが妹のベルちゃんを気遣い、ベルちゃんはアイクを頼って一生懸命ついていく。それを見守るリエカさんの、あの優しげな目。あの家族の輪の中にはきっとお父さんもいて。
それは外から見ると綺麗な家族の形。温かい家族の日常。
「リリねーちゃ」
考え事をしていたらいつのまにか傍らにベルちゃんがいて話しかけられていた。慌てて顔をあわせると、ベルちゃんは花の冠を手に持って、きょとんとした顔をこちらに向けている。ふと見渡すと少し遠くにケイとセリオ、アイクとテナがいた。みんな花畑にしゃがんでいるから、きっと花を摘んだり編んだりしているのだろう。
以前作ったアイクのド下手くそな花の冠は改善されるだろうか。そんなことを考えながら、ベルちゃんに返事をする。
「なに、ベルちゃん」
「リリねーちゃのかーちゃ、どんなひと?」
かーちゃ。お母さん。心臓あたりがぴくりと跳ねた。
「―――優しくて、強い人、だよ」
「つおい? つおいの、すごい! とーちゃよりつおいかなあ」
とーちゃ。お父さん。胸の奥がぎしりと軋んだ。
「力は、強くないよ。心が、強いんだ」
「こころ?」
「……ずっと私を守って、くれた。育ててくれた。悪口言われても、冷たくされても、一人でぴんと立ってて、私を、愛してくれた」
「ふうん? すごいひと?」
首を傾げたベルちゃんを見てふと思う。そういえば、かあさまのことを誰かにこうやって話すのは初めてのことではないか?
「うん。すごい人。かっこいいの」
「リリねーちゃのかーちゃ、すごい!」
ぱっと花咲くように笑ったベルちゃんを見ながら、心のどこかが満たされていくような気持ちを覚えた。初めてかあさまのことを褒められて誇らしいのと、半分よくわからない感情が溢れてくる。
「へえ、リリィのお母さんそんな人なんだ」
「セリオ」
会話に入ってきたのはセリオだった。いつのまにか私とベルちゃんの間に座っていて、手には白い花に小さな青い花がちりばめられた花の冠を持っていた。
セリオは作ってきた花の冠をベルちゃんにかぶせて、少し眉を下げて私を見る。
「実はね、僕ら知ってるの。リリィがマグニせんせいに拾われたって。ごめんね」
「え」
「僕らが初めて遊んだ日にね、せんせいに教えてもらった」
「マグニさん、そんなことを……?」
いつのまにそんなことをしていたのだろうか。というか、何故そんなことを?
「それと、その、リリィのおとうさんとおかあさんのことは、聞かないでほしいって」
「―――――」
そうだ。ベルちゃんに聞かれて初めて気が付いた。私はマグニさんの拾われてからみんなにはおろか、マグニさんにすらかあさまのことを話していなかったのだ。
どうして気が付かなかったのだろう。家族がいることは、みんなにとっては当たり前のことなのに。
私はずっとみんなに、マグニさんに気遣われていたのだ。
「リリィには事情があるからって言ってた。時間をかけてなおしていかなきゃいけないことがあるって。それは教えてくれなかった。でも、アイクも、ケイとテナも、僕も、絶対リリィに聞かないって約束した。リリィが話してくれるまで」
ちょっと気まずそうに私を上目づかいに見て、けれど少しほっとしたように顔をほころばせた。
「でも今、リリィがリリィのおかあさんについて話してるのが聞こえてきて。それでもう大丈夫なんだなって」
それでずっと嘘をついているのも苦しいから話しに来たんだと、セリオは言った。
胸の奥底がきゅうっと苦しい。全身をぬるま湯に包まれるかのような温かさが喉元の方まで押し寄せてくる。わけもわからず私は胸元を押さえて俯いた。
なぜ、マグニさんは、アイクは、ケイは、セリオは、テナは、そうまで私を気遣ってくれるのか。
彼らが優しいのはお世話になっている間にわかった。私が生まれたころから見てきた人とはかけ離れた優しさ。アイクたちは時々無遠慮なほど踏み込んでくるけれど、それすらも心地よかった。そこに悪意とか、他意がなかったから。むしろ困惑していた私を強引に引っ張って新しい世界を見せてくれて感謝しているくらいだ。
けれど、今まで触れてこなかった優しさを両手いっぱいにもらって、それでもまだまだと降り注ぐ優しさに息が詰まって溺れてしまいそうになる。ついつい戸惑ってしまう。
心のどこかで、受け取る資格はないと考えていた。どうしてそう考えたのかもわからないほど自然に生まれてきた考えは、きっと私が今まで歩んできた道から築かれてきたものなのだろう。
伯爵家の中で私はとてもちっぽけな存在。かあさまが守ってくれなければ踏みつけられる。そういうものだった。
私が生まれた世界にはかあさましかいなかった。周囲を黒で縁取られた、二人だけの狭い世界。黒に踏み出せば凍えた世界が待っている。その境遇や対応に疑問が湧く余地は、そのときの私にはなかった。
かあさまがいなくなってから、狭い世界は少しずつ広がり始めた。外の黒が薄らいで、色んな人が私の世界と外の世界の境界線に立っている。時に踏み込み、時に遠のき、でも付かず離れず私を見守っている。無機質でない優しいあたたかなまなざしで。
そして誰も、いなくなったかあさまの場所に踏み込もうとしなかった。
ほろり、と勝手に涙がこぼれて服に丸い染みを作る。滲んだ世界は滲んだままで、胸の奥から次から次へと湧き上がってくる。
不意にウリベルさんの言葉が脳裏を過った。
『人を知ることは、何事を通しても大切なことなのです』
『遠慮などしなくていいのです』
『貴方は子供なのですからもうちょっとわがままでいいのですよ。深いことはなにも考えなくていいのです。やりたいことをやっていいのです。それが子供なのですから』
人を知るとは。遠慮とは。わがままとは。やりたいこととは。今もわからない、いや、まだわからないことが多い。
けれど、私はごはんのおいしさ、感謝と恩の気持ち、勉強の楽しさと遊ぶ楽しさを教えてもらった。
ちっぽけな私にくれたものはとても大きかった。そして私は、それらをくれた人たちを大切に思い始めている。
私なんかがそう思ってもいいのだろうかと思わないでもない。でももう抑えようがないほどそれは大きな気もちになっていて、押し殺すことなどできない。むしろもてあましてしまうくらいのもので、もはや制御のできようもなかった。
そんな気持ちも相まって涙が止まらない。ごめんセリオ、君が泣かしたんじゃないんだ。だからそんなにおろおろしないで。他のみんなもセリオをど突いたりしないで。ああベルちゃんがもらい泣きしてる、泣かないで。
どうしたらいいのだろう。声も嗚咽しか漏れず、泣いているからか手足に力が入らない。
でもこの状況、なぜか嫌とは思えなかった。