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「では僭越ながらわたくしが地理についてお話いたしましょう」
かわいらしくこほん、と一つ咳をおいて、ウリベルさんの地理授業が始まった。
私とウリベルさんの間にある机にはマグニさんが取り出してきた一枚の地図が広げられている。私が両腕をめいいっぱい広げたぐらいの横幅で、縦は机に収まるほどの大きな地図だ。ちなみにマグニさんは私の隣で微笑ましそうに私たちを見つめている。私は勉強を教えられて一月もたっているから慣れたが、ウリベルさんは慣れていないのかちょっと気恥ずかしそうに頬を赤らめていた。
「リリティアさんはまだ地理について何もご存じないということなので、まずは国の名称からまいりましょう。わたくしたちの暮らすアラムにはいくつかの国がございますが、この家はその列強が一角、サント大陸の門番と称される王国オーレシュビアが辺境、シクム地方の片隅に建っております」
「…………」
「ウリベル、口調砕いて砕いて」
「え? ……あ、申し訳ありません。つい昔の癖が」
―――はっ。い、いま催眠術でもかけられたのだろうか、思考が完全に停止していた。
内容は上手くくみ取れなかったが、今の口調の感じは伯爵家にいたころ、訪問していた何人かのきらきらしい人たちがしていた話の口調とよく似ている。内容はウリベルさんとはかけ離れた真っ黒い内緒話だったようだが、そこは置いておいて。ウリベルさんはやはりやんごとなき家の出身なんだろうか。
「さて、気を取り直しましてわたくしたちの現在地を確認いたしましょう」
地図に描かれた大陸は三つ。一つは左上の隅を埋めるように大きく、二つ目は左下から中央にかけて小さく。そして三つ目は右上から右下にかけて、どっしりと存在していた。形は絵本で見た顔のついた三日月のような形で、紙の右端を背にして弓形になった内側の中腹から、下の方にかけてぎざぎざの曲線を描いていた。それ以外にも大小さまざまな島々が描かれていて、特に二つ目の左下の大陸の周辺を中心にして、三つ目の下の方までたくさんの島が点在している。
紙は青や緑が塗りこまれ、大陸や海の所々には何かの範囲を決めるように線が書き込まれていた。この線で区切られた一つ一つが国というものなのだろうか。
ウリベルさんは三日月形の大陸の真ん中の方にある区間を指さした。
「ここがオーレシュビア。我が国は西の方に広がる海岸線から、大陸の東端にある山脈付近までの少々細長く広大な土地を領土としています。わたくしたちがいるのはここ、王国の西にある辺境シクム地方にある森のなかですわ」
ウリベルさんは近くにあったチェスの駒を一つとって、国内の左の方にある緑色の範囲の上に置いた。
「森、広いですね」
「ええ、この家がある森はとても広く、そして深いものですわ。王国内の六分の一はこの森ですがそれはたった一部分。北の国境の先には我が国の保有する敷地の五倍ほど存在すると云われています」
「ごばい?」
「……ええと、五つ分、ですね」
おお、そんなにあるのか。そう言われてみれば、線で区切られた上の方には緑色の範囲がいっぱいに広がっている。これが森の全範囲で、この家はその片隅にあるのだろう。
ウリベルさんはくすりと笑って、チェスの駒を今度は国内の真ん中から少し右に寄ったところに置いた。国を五つ縦に割って左から数えるとしたら、三つ目と四つ目の境のところで、小さな赤い丸ぽっちが書き込まれていた。
「そしてここがオーレシュビアが王都シルソーです。王都とは国の中心地のこと。国でもっとも発達した都市でありあらゆる流行の最先端、最新技術が結集している、政府の中核都市です」
「???」
「はい、その辺のことについてはまた今度教えるからリリィ、とりあえずとても大きな町と覚えておこう」
「まち……」
「あーっと、たくさん家とか店があってそこにたくさんの人が生活しているところだよ」
「……みせ?」
「え、えっとね」
「……マグニ? ちょおおっと貴方とはこの後お話しなければならないようですね……」
「いやあの待ってウリベル待ってその笑顔やめて拳降ろして力こめないで!」
何やらマグニさんとウリベルさんがどたばたし始めたけど、おそらくこれも『いちゃいちゃ』とやらの一種なのだろう。うん、私リリティアは学べば考えることをこのひと月で学んだのだ。これぐらいは察することが出来る。―――おや? データさんから溜息をつくような念が飛んできたけど……これ以上答える様子はない。データさんには何か思うところがあるようだが、私にはよくわからない。ここは要勉強、というところなのだろう。
(しかし……世界はこんなにも広いんだ)
私はじっと地図を見つめる。
この地図がどれぐらい大きな大地を表しているかわからないけれど、おそらく、いや確実に私の想像を超えた広さを誇っているのだろう。マグニさんの家がある森、人がたくさんいる町。たぶん王都は、町よりももっとすごいのだろうな。それから、大陸や島の間にある水色のとこ―――データさんによると、海、という場所であるらしい。海は大陸よりももっと大きい。地図を見る感じ、海が大陸を包んでいるようにも思える。いつか見に行ってみたい。
ウリベルさんの言葉の中には私の知らない言葉がたくさんあった。
西、東端。領土、辺境。北、敷地、都市。技術、政府。
こういった言葉についてデータさんが自発的に教えてくれることはないし、私も聞こうと思わないようにしている。データさんが提供してくれる情報は、データさんがデータさんの持つ情報と私の住む世界の常識とが共通であり、かつこの世界で常識としてしられているもの。つまり教えられなくても物心つくころから知っていて当然の知識と判断した場合のみだ。そこはデータさんの判断次第だから、たまにそうじゃないときもあるけども。
それに私はこのひと月で物事を学ぶ楽しさを知った。仕事と疲労で飽和していた伯爵家にいたころとは違って、今はマグニさんに保護されながらゆっくりとした時間の中で過ごすことが出来ている。だから、学ぶことの楽しさを知れたのだと思う。伯爵家にいたときの生活のなかじゃ、学ぶことなんてなんの意味もなかっただろうし理解もできなかっただろうから。あの狭い世界に必要なのは、働くための体と体力、仕事を遂行するためのほんのちょっとの精神力だけでよかった。それだけで事足りたのだ。
けれどこれから生きていくためにはそれだけでは全く足りない。もっと体力を付けなければいけないし、もっと成長しなくてはいけない。自分で考えて行動して切り拓いていくためにもっと精神力を強く、心を強くしていかなければいけない。それから物事を考える知識と知恵、自分の身を守るための力、独りでも身を立てていくための術も必要なのだ。私が生きていくためにはこんなに色んなものを身に着けていく必要がある。考え方を変えれば、私は伯爵家に養われそんなに努力しなくても生きていくことはできたということになる。それはあの悲惨な人生エンドを迎えてしまうフラグの成立につながるから御免なんだけれども。
地図を見る。伯爵家は、この中のどこにあるのだろう。地図で表すと、どれほど小さく見えるのだろう。うん、きっと小さいのだ。
そうだ、世界はこんなにも広い。
(わくわく、するな)
私はこのひと月の間で、ゆっくりと自分の感情が戻ってきているのを感じていた。その兆候はきっと、マグニさんと初めて会ったあの日から始まっていたのだけれど。
喜びを覚える瞬間が増えた。怒りはない。楽しさは本を読むときと勉強のとき。悲しみは、夜寝る前にかあさまのことを思いだした、ちょっとだけ。寂しさは―――マグニさんが出かけていった日のおやつの時間にほんの一瞬。
(マグニさんは、私を保護してくれた人。育てようとしてくれている人。けど、家族ではない)
そう、家族じゃない。血のつながりなんてない赤の他人。しかし私を拾い育ててくれている、一生かけても返しきれそうにない恩を貰った、いい人。
たぶん大事な人。うん、たぶんじゃない。大事な人だ。
(けど私にとってのマグニさんはどんな人か、明確な言葉が思いつかないんだよな)
かあさまがいなくなった悲しみはこのひと月でだいぶ薄らいできていた。忘れるわけではない。忘れたいわけでもない。ただ、日々の中で思い出しても『悲しい』と思わなくなってきただけ。
最初こそ愕然として、私はかあさまを忘れてしまうのかと嘆き悲しんだことがあった。眠ったらかあさまを忘れてしまうのではないか。朝起きたら、かあさまの存在が心から消えてしまうのではないかと。
そのとき、データさんが言葉をくれた。
『君が君の母を忘れたくないと思うなら君の母は君の中にずっといる。人の死を悲しむことはその人を偲ぶこと。その悲しみが薄れることは、決して君が薄情だからじゃない。心が前を向いて進もうとしているだけ。君の母の死に対する悲しみがなくなることは悪いことじゃないよ』
始めは理解が追いつかなかったし、納得もできなかった。今はデータさんの言葉を理解できているし受け入れているけれど、そのときは本当にかあさまを忘れていく自分が怖かったのだ。かあさまが死んだのに私だけがのうのうと生きていることがとても悪いことのように感じた。そんなこと考えたってかあさまの死をあのときの自分が避けられたかと考えると答えは否、どうしたって無理な話なのに、私はそう感じずにはいられなかった。
やっぱり感情というものは難しい。その思いを受け止めきれた今でもそう思う。確かに自分の感情なのに、勝手に動いて勝手に消えていってまたそこに連鎖して別の感情も湧いてくる。ままならないものだ。
もうしばらくしたら、マグニさんに私の話―――かあさまのことも含めて話ができるようになると思う。気持ちの整理はついたが、今はまだ記憶にある出来事をうまく言葉にできないでいるけど、いつか話せる。そう思えるようになってきた。それと同時に、マグニさんの存在がだんだん大きくなってきたことを感じたのだ。
それは私の心を占めるかあさまの場所にとってかわるような感覚で、そのことに初めて気が付いたときは「なんて自分勝手なんだ」と自分のことが嫌になった。まるでマグニさんをかあさまの代わりにしているようだと。けれど今はそんなことは思っていない。かあさまのことは忘れなければかあさまの場所がとって変わられることもない。だからマグニさんのことを好きになってきているのも悪いことじゃないのだ。
そう、私はマグニさんのことを好きに―――親しみを抱いてきている。この感情の色は、かあさまへのものと少し似ていた。
(だからちょっと怖い。無くしたらと思うと、怖くなる)
このひと月、私はマグニさんと生活を共にした。朝起きたらおはようの挨拶をして、ご飯を一緒に食べて、勉強を教えてもらって、たまにご飯も一緒に作って、そして一日の終りにおやすみなさいの挨拶をする。きっとマグニさんにとってこの生活はなんてことないのだろう。疲れている様子もないし、嫌そうな顔もしていない。けれど私にとってこのひと月の生活はとても大きくて刺激的で、温かかった。かあさま以外から初めてもらったぬくもりだった。
だから怖い。このぬくもりを失う日が来ることを恐ろしく、そして寂しく感じるのだ。
(きっと、かあさまへの悲しみと同じように、この感覚はゆっくりと薄らいでいくんだろう。その方がいい。私はいつかこの家を出ていくんだから)
そしてマグニさんに恩を返す。一生かかってでも、返していく。それが私の目標なのだから。
けれどどうか、と思うのは。
(どうか別れの日が遠いことを。私が悲しくてつぶれないくらい強くなって、それぐらいの頃に訪れることを)