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「あら、では今は割り算のお勉強を?」
「はい、まだあんまり、よくわかって、ないから」
「まあまあ苦手を直そうとしているのですね、偉いわ」
「……」
リビングについてからのウリベルさんのお話は常に私の事だった。勉強の事や、魔力の訓練など最近のことを話している。人と話す機会が少なかったためか拙い喋り方しかできない私の話に耳を傾けるウリベルさんは、なぜか私のことを話の節々で褒めてくれた。マグニさんにはまだまだという雰囲気があるし、私自身未熟だと思っているのだが……。
今もウリベルさんは私の頭を撫でながらにこにこしている。私はそれに、無言で返すしかなかった。
「リリティアさんはとても頑張り屋さんですね。では足し算や引き算、掛け算は慣れてきたのかしら?」
ウリベルさんは聞き上手だ。決して上手くない、むしろ下手くそな喋りしかできない私の話の端っこから切り出して次へとつなげてくれている。私はそのつなぎに答えていっているだけだ。ウリベルさんはそれで楽しいのだろうか?
……こちらから質問をするべきなのだろうか。でも一体何を聞けばいいんだろう?
『リリィにはまだハードル高いんじゃない?』
いや、それもそうかもしれないけどデータさん。ハードルって超えるものだよね? ならちょっとでも頑張ってみるべきだと思うんだ。
「……リリティアさん?」
時と場合を考えるべきだとけどね! しまったウリベルさんに返事してなかったよ失礼この上ない!
「ご、ごめんなさい。えと、足し算とか、は、慣れてきまし、た。次は、そろばん、とか……」
「まあ! そろばんにも触っていらっしゃるの? あれは商いの人々に重宝されているものですけれど、とても計算が早くなると聞いていますわ」
「そう、なんです、か?」
「ええ。熟練した商人は暗算を簡単になさるのですがそれはそろばんのおかげと聞きます。きっとリリティアさんも暗算ができるようになるのでしょうね」
「……が、がんばります」
「がんばってくださいませ」
柔らかく笑ったウリベルさんは優しく私の頭を撫でた。マグニさんのちょっと荒っぽい雑な撫で方とは違う包み込むような感触のそれは、まるで―――。
(……―――)
「ウリベルさん、は、マグニさんとは、どういう関係、ですか?」
「わたくしとマグニの関係、ですか」
途切れ途切れに問いかけた私の言葉を噛み締めるように繰り返したウリベルさんは、顎にその華奢な白い指を当てて考えこむ様子だった。顎に添えられたその指をまさに白魚のようと云うんだろうなー、とふと今全く関係のないことを思う。指先に乗る爪は綺麗に整えられた薄紅色。データさんからもらった知識を使うなら、桜色。データさんに見せてもらったそれは大きな木に咲いた花で、とても綺麗だった。一方でウリベルさんの口は深紅で、白い肌と銀色の髪と相まって唇の印象が際立っている。それでもこの人は苛烈でなく、鋭く美しい大輪の花のような存在感だった。
ウリベルさんはその赤い口を開いて、こういった。
「恋人、ですね」
「こ……」
恋人。
「こい、びと」
こいびと。恋する人と書いて、恋人。恋人。こいびと。
「…………」
絶句である。
「あらまあ驚かせてしまったかしら。別に隠すつもりはありませんでしたのよ? ただ聞かれなかったものですから」
「え、あ、いや、その」
驚きで言葉が何も出てこない。というか今日は驚きすぎて心臓が大忙しだ。一年分ぐらいの驚きを今日味わったのではないだろうか、いや、確実に味わっている。少なくとも伯爵家にいたころこんなに怒涛の勢いで驚きを覚えた記憶はない。
というか私、驚きすぎではないか? 感情の起伏が薄いという自己分析結果はどこいった?
『メメタァ』
データさんも意味不明なことを呟いているから混乱しているのだろうか。常より殊更言葉の意味が理解できない。
「……っ、……っ、」
「まあ、そんなにあわあわなさらないで」
この美人さんが「あわあわ」なんて言うととても可愛らしく聞こえる。現状、私が両手を宙に浮かべ混乱のままに動かしているというだけなのだが。
「ほーら、深呼吸なさって。はい、すってー、はいてー」
「すー、はー」
「はーいその調子」
……落ち着いてきて、だんだん正常な理性が戻ってきた。
考えても見れば、予想できることではなかっただろうか? 年若い男のところに一人訪ねてくる若い女性。それを人は逢引きと呼ぶだろう。それにマグニさんは美人さんで、ウリベルさんも美人さん。つまりお似合いな恋人同士ということだ。
ウリベルさんがマグニさんの恋人であることに衝撃を覚えたのは、たぶんマグニさんが人と関わっているような様子がなかったからだ。買い出し以外でこの家を出ることはなかったし、ほとんどの時間を私と共に過ごしている。なんというか、マグニさんも私と同じように天涯孤独なのだろうか? と思っていたところだったのだ。たとえそうでなくても私だけと一緒にいるのはちょっと寂しいのではと思って私に何かできるだろうかと考えるのだが、結局結論も出ず、だからといって本人に聞くのもどうかと思って、何もできずにいた。
けれどそのマグニさんに恋人がいるというのは良いことである。しかもこんなに綺麗な人で、私みたいな舌足らずの話に耳を傾けてくれるいい人だ。うん、ちょっとほっとした。きっとマグニさんは買い出しの時間にこの人と会っていたのだろう。
……あれっ。でもこれ、私邪魔者じゃないか?
「リリティアさんを邪魔だなんて思いませんから安心してくださいな」
「!」
「それにわたくし嬉しいのですのよ? マグニの傍に、貴女がいてくれて」
「……どう、いう」
首を傾げた私に、ウリベルさんは優しく微笑んだ。
「マグニは、独りでいる性質ですわ。それはもう彼の生まれ持ったもので仕方のないことと、随分前に諦めていたことでした。わたくしたちや彼の少ない友人たちが彼の傍にずっといることも叶いません。仕方のないことと思っていた……それが、今は貴女がマグニの傍にいる。そのことがとても嬉しいのです」
ウリベルさんの微笑みは慈愛に満ちたものだった。それは私にではなく、私を通り越した向こう側に向けられている。ウリベルさんの目には鮮烈で熱い赤が宿っていた。
(マグニさんは、この人に愛されているんだ)
そのことを羨ましいとは感じなかった。だってその感情の色は、私がかあさまから貰ったそれとは大きく色が異なっていたから。きっと愛情とかそういう感情には、色々な種類があるのだろう。
ただ、人が人を愛する姿はこんなにも美しいものなのかと、また小さくない驚きを覚えたのである。
ウリベルさんは言い終わってからはっとして、
「あら、語ってしまいましたわ。ごめんなさい、恥ずかしいところをお見せしてしまって」
と頬をうっすら赤らめて口元を隠した。わあなんて清楚。私はぷるぷると首を振って否定の意を示す。
ウリベルさんはこほん、と一つ咳払いをした。
「と、いう訳でというのもなんなのですが。人の姿というものは聞かなければわからないことがたくさんあります。それはその人を知ろうとすること、決して失礼なことではありません。リリティアさんもわたくしとマグニのことを聞かなければわからなかったことがありましたし、わたくしもリリティアさんに質問をしていなければリリティアさんのことを知ることが出来ませんわ。人を知ることは、何事を通しても大切なことなのです」
「人を、知る?」
「リリティアさんは遠慮しているのではないですか? あまり多く聞いてはいけない、マグニの迷惑になってしまうから、と」
ぱちり、と瞬く。どうしてわかったのだろうかと不思議に思いつつ見上げると、ウリベルさんは「先程のお話で、そうではないかと」と苦笑しながら言った。先程の話というのは私の勉強についての話だろう。その話だけで、私の考えを見抜いたということか?
「遠慮などしなくていいのです。多少の迷惑をかけたってマグニが貴女を追い出すことはありません。付き合いの長いわたくしが断言いたします」
「そう、言われても」
すいっと視線を下げると、白い手が顔の両側を覆ってむぎゅっと顔を上向きにされた。おちょぼ口になった私の顔が、ウリベルさんの赤い目に写っている。
「貴方は子供なのですからもうちょっとわがままでいいのですよ。深いことはなにも考えなくていいのです。やりたいことをやっていいのです。それが子供なのですから」
『リリィ、明日は貴女のお誕生日よ! 叶うものなら買ってあげるから何でも言いなさい!』
頭の中に響いたのはかつてのかあさまの声。鮮明なそれは、いつかの誕生日の前日、かあさまが胸を張って私に言った言葉だった。
伯爵家で働いていた私とかあさまの生活はとても苦しいものだったのに、かあさまは私の望むものをできる限り叶えようとしてくれた。私も生活のことは考えたけど、かあさまに頼まないということは考えていなかった。
けれどそれは私とかあさまが家族だったからだ。現在の私とマグニさんの関係は居候と家主。教わるものと、教えるもの。そんな関係でわがままなんて言っていいわけがないのに。
どうしてだろう。私の心は揺れていた。
「!」
そのとき、レーダーに一つの反応が引っかかった。反応は森の小道から、ということはマグニさんが帰ってきた?
壁に立てかけてある時計を見ると、長針は五と六の間、短針は二と三の間を指している。つまり二時半ぐらい。マグニさんが帰ってくるのは夕方前だから、少し早いはずなのだが……。
「ただいま、リリィ?」
考えているうちに帰ってきちゃったよ!
「ま、マグニさん?」
呼ばれたのでとりあえず玄関に向かうと、マグニさんと部屋の入り口で出くわした。手荷物は出がけに持っていった鞄一つで、何か大きな買い物をした様子はない。
一体どうしたのだろうか?
「お邪魔しております、マグニ」
問いかけようか、否かと躊躇していたらウリベルさんが声を掛けていた。すると、見上げた先でマグニさんの眉が顰められている。
「まったく……町で森に人影を見たって話を聞いたから、まさかと思って戻ってみれば君か」
「あら随分な物言いですこと。はるばる恋人が訪ねて参りましたというのに、冷たいではありませんか」
お、おや? なにやら雰囲気が……。
「君にそんな配慮をする必要はないだろう? どこに行くにしても、君にとっては一歩か二歩の差でしかないというのに」
「ですが労わってくれてもよろしいのではなくて?」
「リリィのお茶飲んどいてどの口が言うのさ。……リリィ、この人の変なこと言われなかったかい? もしくは変なことされなかった?」
「へ?」
「まあ失礼ですわね。わたくしリリティアさんとお話していただけでしてよ」
「あやっしいな、ったく。いいかい、この子は疑り深いが純真なんだよ、君みたいな口上手が近づいたらころんと転がされてしまうんだよ」
「まあまあまあまあわたくしがまるで詐欺師のような言い方ではありませんか! それをいうならマグニこそ、こんな可愛らしくもいじらしい少女を森の奥に隠すようなことをして、幼女趣味と疑られてもしかたありませんことよ?」
なんだこれは。喧嘩か? 喧嘩なのか?
「ほおう、そういうかいウリベル。君は知らないだろうがリリティアは複雑な事情があるようなんだよ。家の中に水の魔力を満たして心を落ち着かせる魔法を掛けていても未だに心を完全に開くことが出来ないくらいには大変な経験をしてきたようなんだ。そんな子を突然市井の中に放り込むことが出来るかい? それに魔力の発露による発熱がひどくて体力が衰えていたから、しばらくは静かな森の中で自由に暮らさせた方がいいという私の考えだったのだけどね。流石に幼女趣味と言われる筋合いはないよ?」
「確かにあなたはリリティアさんと打ち解ける努力を惜しまず心を砕いていらっしゃるようだけど、この年頃の子に必要なのは遊びですわ。それにリリティアさんから友達という言葉を一つも聞いていませんのよ? 貴方、この子に友達作りをさせるくらいの努力ぐらいしたらどうなのですか、そのあたりの配慮が全くなされていませんことよ」
怒涛だ。言葉の嵐だ。色々驚愕の事実が鼓膜を過ぎていったけど、ハイスピード過ぎてついていけない。コミュニケーションが欠乏しすぎた七歳児にはハイレベルすぎる。
「今日初めてリリィに会った君がそこまでいうのかい?」
「一月も一緒に暮らしておいて百歩中五歩ぐらいの進歩しかしていない貴方に言われたくありませんわ」
これが、恋人の会話? かあさまと伯爵がこんな会話をしていたとは考えられないのだけど。いやもうだめだ、話題が次に移っている。ついていけない。
(―――そうだ、お茶を入れよう)
ウリベルさんに最初にお茶をお出ししてから随分時間がたっているから、ポットの中のも量が少ないし冷めてしまっているだろう。マグニさんも帰ってきたことだし、三人の分まとめて準備をしよう。
半ば現実逃避をしながらその場を離れ、テーブルのポットを持ちキッチンに向かった。