宮下ホールディングス
「おはようございます」
宮下ホールディングス。
この国に住んでいれば一度は耳にしたことのある社名である。様々な業種に手を広げ、日本経済の動向、更には世界経済さえも左右する大グループ企業のことだ。
2代目社長の革新的な経営手腕により、起こす新事業がことごとく成功している。また、実力本位方針のためか新卒者からの人気が高い。そして高卒者であっても成績優秀であれば入社可能なのだ。
数多い宮下ホールディングス本社事業部の中で最も競争率が高い部署は、営業部である。実際のところ、女性社員だけで競争率を鑑みれば、総務部秘書課が最も高い…がしかし近年、その女性たちの競争率も営業部へ傾いて来る現象が起こっていた。
なぜか?それはひとえに営業部部長のせいである。
「ああ、おはよう」
宮下雅則。
若干29歳にして営業部部長の地位につき、創業者一族の一員である。
極めつけはこの美貌だ。心地よいテノールに、純日本人であるにもかかわらず西洋を思わせる顔立ち。他より頭一つ分大きい背の高さ。健康的な肌の色。瞳は色素が薄いのか、灰色。派手さのない茶色の髪が良く似合う。
服のセンスも申し分ない。どこぞの俳優やモデルに負けない魅力を持っているのだ。
無論、その若さにして出世コースの営業部部長である。仕事に対して真っ向から向かっていき、けして手を抜くことはしない。技術と才能を余すことなく振るい、積み重ねてきた成果は素晴らしいものである。
そんな彼を才色兼備の女性たちがほって置くはずがない。男としても魅力的で金持ちとあれば、玉の輿を狙うのは当然だろう。
「おはよう。今日のネイルは桜色ですか。良くお似合いです」
だが、全ての女性たちが彼を狙うはずもなく。この下手な男性顔負けの褒め言葉を口にした、川口常葉もその一人である。
「あっ、ありがとうございます。常葉さんが最初に気づいて下さいました」
「そうでしたか?受付嬢の方は誰でも目に入るはずなのに。駄目ですね、美しい方は美しいと褒めなければ」
「…ありがとうございます。常葉さんもお綺麗ですよ」
「ありがとう。ですが、美和子さんの美しさに私が敵うはずありませんよ」
川口常葉。
24歳。営業部会計。特技はパソコンと、女性を無意識に口説くこと。本人は理解していないが、青白い化粧っ気のない肌に濡れ羽色の髪のコントラストは一際目を引く。そして、芯の通った闇色の瞳。
女性にしては長身の常葉は受付嬢の言う通り、文句のつけようのない美人だった。これで男装でもしてしまえば、美青年にしか見えないであろう。
常葉は年にいるかいないかの高卒入社の1人であり、OL5年目となる。この5年間、高卒というハンデを克服するために様々な資格を取った。ようやく1年前に大卒資格を無事取得することもできた。
「おはよう、川口」
「おはようございます。宮下部長」
エレベーター待ちで一緒になった雅則と常葉は挨拶を交わす。
「相変わらずの華麗な口説きっぷりを見せてもらったよ。それだけは入社してから変わらないよな。寧ろ、磨き抜かれた?」
「…部長の嫌味な性格も変わりませんね。直したほうが良いかと」
「どこが嫌味だ、君の目は節穴なのかな?」
「ああ思い出しました。それが部長でしたね」
「…不本意な納得のされ方だよ」
常葉と雅則の会話は、とても上司と部下とは思えない。それも仕方がない、2人は同期入社なのだ。入社したての頃からのお互いを知っている仲である。以前はタメで話をしていたぐらいだ。おまけに当時から2人の仲は険悪で、互いの失態を同期の誰よりも知っているのだ。
―――――
「常葉」
終業後、常葉が1人オフィスで片付けをしていると、聞きなれた声が聞こえた。
「……会社で名前を呼ぶな!」
常葉は周囲に誰もいないことを確認すると、声を荒げて奴を睨み付けた。
「いいだろう、別に。ここに人はいないんだ」
その様子とは打って変わり、一際存在感のある机に腰掛け呑気に雅則は言い放つばかりだ。
「あのな…公私の区切りがつかなくなるだろう」
こめかみを押さえ、常葉は背もたれに寄りかかった。会社の上司であり姫宮の側近。そんな、ただでさえも煩わしい関係を更に混乱させてどうする。
「俺とお前なら大丈夫だろ」
「それはそうだがな…!…もういい」
常葉が何を気にしているか理解した上で、尚も軽い調子で話す雅則に常葉は説得を諦めた。
何を言ってもこうやって返すんだろう。
そんな常葉の思考を理解したのか、雅則は苦笑してたまにでいいからさ、と付け加えた。
「俺の身にもなってくれよ。常葉に敬語を使われているってだけで、あいつらから嫌がらせを受けてるんだぜ?」
「嫌がらせ?」
常葉は素直に首を傾げた。雅則の言う、“あいつら”とは翠や日和のことだろう。
「しかも地味なやつな。全く…あいつらの“おねーさま命”は、どうにかならないのかよ」
「それは初耳だ。でもな…仕方ないだろう、お前は上司なんだ」
「やつらも分かってるからこそ、俺に八つ当たりするしかないんだろうよ」
「なるほどね…」
常葉は溜め息をついた。
今度会ったらあの子たちに“そういう設定”だと言うことを言い聞かさねば。