ようこそ
東洋の島国、日本。
この国には、遥か昔から人間と共に歴史を歩んできた者たちがいる。
その者たちのことを人々は畏れ敬ってきた。
そうしてこう呼んだ。――“妖怪”と。
妖怪とは一括りに何であるのか表すことは出来ないが、始まりは憑物神とされる。
諸説あるが、それについてここで論じるのは止めておく。
さて、もしこの明るくなりすぎた近代日本に所謂“妖怪”が存在しているとしたらどうだろう。
それも人々と交わり、人と何の変わりのない姿 で生活を送っているとしたらさぞ、面白いことではないだろうか。
――――― ― ―
とある山中の奥深く。
ひび割れた地面の隙間から話し声が聞こえてきた。谷底には大きな岩が転がっており、どこからか流れてきた水が小川となっていた。頭上から降り注ぐ柔らかな木漏れ日が隙間を通ることで、中を薄暗く照らしていた。
ここに、人はいない。人は。
更に奥、薄暗闇を行けば、小川に古めかしい木製の橋が架けられていた。
橋を越えると――
古都を思わせる大きな天蓋、優雅にに香るお香、数個の灯篭に灯る紅い炎。
異世界。その言葉が相応しい景色が広がっていた。
「雅則。もう少し眠らせろ」
天蓋の中心、不釣合いな西洋の寝椅子に気怠げに横になる女性がいた。
「常葉、何時だと思っている?直にあいつらが来るぞ」
女性から斜め右に、またも不釣合いな西洋の座布団所謂クッションを当てて座る男性が咎める。
常葉と呼ばれた女性は、忌々しげに柳眉を寄せつつも欠伸をすると椅子に座り直した。
陶器のような青白い肌に、長い睫毛に囲われた闇色の瞳は炎が揺れるたび黄金に煌き、不思議に吸い込まれてしまうように感じる。腰ほどまでの癖のない漆黒の髪は素直に落ち、彼女が動くとさらさらと揺れる。かと言って、日本人形のような雰囲気はなく、その間逆の甘さのない突き刺さるような秀麗な顔貌からは感情を読み取ることは難しい。
彼女が身に纏っているのは、裾の長い振袖の着物。薄黄色の布地に、紅い糸で価値を考えるのも恐ろしくなるほど繊細な鳳凰の刺繍が入っている。帯は赤。
――美しい。その一言に尽きる。それが万人の常葉に対する印象だ。
「会議など先延ばしにすれば良いものを。週末は私にとっての唯一の休みだというのに――誰かとは違って」
常葉の棘を含んだ言葉に雅則は苦笑した。
「あのな、俺だって忙しいんだよ。責任を負わされる仕事も多いし。それに俺は――」
雅則は傍らに置いてあったお盆に手を伸ばす。その上には近代の象徴とも言える未開封のペットボトルにミネラルウォーターが入っていた。それを開け、一口含むと、また元に戻す。
「――こうして水が手放せない」
雅則。
どこか西洋風の顔立ちに、色素の薄い炎に照らされ銀に輝く灰色の瞳。髪は地毛なのか染めたのか分からないが、茶の短髪。
彼には上等な布地の紺の着流しが、これ以上ないほど似合っていた。
「それは仕方ないことだろう。苦労する気持ちが分からなくてすまんな」
四足の丸机に置いてあった綺麗に形作られた砂糖菓子の中から、菱形のものを掴み上げると、口に放り込む。
「常葉はいいよな。俺のように制約がある訳じゃない」
その様子を胡坐をかいて座る雅則は羨ましげに見上げた。
「何を言うか。あるぞ、私にも制約」
「あったか…?」
憮然と言い放つ常葉に、雅則は首を傾げる。
「“姫宮”の継承」
「……あっそう。それ、側近に言うかよ」
雅則は溜め息をついた。
“姫宮”の地位を欲している者も多いというのに、その名誉を制約だと考えるのは常葉ぐらいだろう。
「うるさい。そもそもお前と私は関係性が面倒なんだ」
常葉は盛大に溜め息をついて、憎憎しげに呟く。
「そんなの俺に言われても困るね。俺が常葉より5歳年上なのは揺ぎ無い事実だ」
またか、と雅則は煩わしげに答える。
「それはいい。…お前が私の上司であることは?」
全く良くないが、という心の声を飲み込んで、手にしていた獣の尾のような根付のついた鮮やかな紅い扇子を勢い良く広げた。
常葉は雅則が年上であることを意識したくないのだ。理由はただ一つ、雅則ごときが年上であることが気に食わないからである。
「俺の父に言ってくれ」
「雅則が部長なんて…あの人事を知ったときは社長室に乗り込むことを考えたぞ」
「乗り込んだら手厚い歓迎を受けていただろうな。常葉のお祖母さまの大ファンだから」
「…良かった。乗り込まなくて」
常葉は顔を引きつらせた。
実行に移さなくて良かったと心底感じた。