3rd Captor 永遠の一瞬
マウロと出会わなかったらきっと僕は麻薬中毒か浮浪者になって、マンハッタンの42stを徘徊していたかもしれない。いや、そんなことはないか、人生を悲観するほど僕は、年をとってはいないし、絶望もしていないからな。それに、みゆきが言ったように僕は成功してもなお麻薬に溺れていくバスキアにはなれない。よくわかっている。バスキアのセンシビリティは特別だ。それでも、3年目のマンハッタンは、人生で一番辛かった。あえて言う。Sep.11より辛かった。僕は、それについて検証できない。ただ、リスクはいつも自分の隣にあるということだ。ベトナムで出会ったレイチェルは、当然のように僕を裏切り、僕はビザを更新する為にたびたび国境を超え、こっそり姉から貰っていた支援金も僕の有り金も瞬く間に尽きた。意地でなんとか2年持ちこたえたが、3年目のマンハッタンは、何度かくじけそうになった。
レイチェルは、セレブが良く行くというClubでロス在住の映画関係者と出会った。スキルを磨くよりビジネスコネクションを作ることに夢中になっていたレイチェルにとって、それは千載一遇のチャンスだった。一夜共にして、もらった名刺を頼りに僕を裏切りさっさとロスに行ってしまった。僕もレイチェルを頼りにしていたことは否めないから、人の事は言えない。レイチェルのクイーンズの部屋に転がりこんだ僕は、レイチェルがいなくなると同時に、彼女のルームメイトに追い出され、イーストビレッジに引っ越した。僕がニューヨークに来てたった1カ月後のことだ。馬鹿高い家賃を払うには、とても一人では暮らせなかったので、韓国人留学生とシェアをしていた。その彼も二年後帰国することになり、3年目を迎えた。誰かと一緒に住まないと浮浪者になるだろうな、と思っていた。そして、本来の目的を忘れそうになっていく。来る日も来る日も朝から深夜まで不法労働の弱みにつけ込まれ搾取されるバイトを掛け持ちし、創作活動どころではなかった。時給8ドルの皿洗いや日雇いの引っ越し業を不法移民達に交じりこなすだけの日々。不法移民達は、わずか数千円を故郷の家族のために送金する。つらい仕事もそれが、モチベーションになっていた。僕は、みゆきの言葉が無かったらとっくに日本に帰っていた。悔しかったのだ。僕は、他の誰でもなく、みゆきに認められたかった。
どうしてあの日、いつも通りすぎていたJazz Clubに入ってしまったのか、それは今度こそ運命としか言いようがない。なぜなら、救世主が現れたからだ。
本当はロックよりジャズの方が好きな神谷先生の影響でもなく、ただ疲れ果てていて、アルコールの欲求が止まらなくなり、家に帰る途中Village Vanguardのサインに誘惑され、ふらっと入ってしまった。僕は、音の洪水の中で相変わらずタンカレーをオーダーし、しかし、演奏中のJazzに馴染めず鞄に入れっぱなしのスケッチブックをとりだし、キャンドルライトの光を頼りに絵を描き始めた。なぜかその日は、疲れ果てていたにもかかわらず、身体の中に溶けていくジンの威力かイマジネーションが膨らみマンハッタンに来て以来、傑作を描くことができた。一心不乱に描いていて周りから奇異に映っていたかもしれない僕に、カルテットのステージが終わると声をかけてきたのが隣のテーブルに座っていたマウロだった。
「君の長い指は、しなやかでレイを思い出させるんだ」
アドレナリンがすごい勢いで放出された後の脳はとてもピュアで、今一つ意味不明な会話でも、マウロと名乗った男の相手を機嫌よくした。そして、描いたばかりのデッサンをその男に見せた。
崩れかけたコンクリートから錆びた鉄骨がむき出しの廃墟の中で、安心して眠る雌ライオンと廃墟のあたり一面に咲き誇るデージー。鉛筆で描いたその絵に色をイメージする。悪くない。僕は、ラップトップで改めて描き直し、ピスタチオグリーンを基調に色をのせようと思った。マウロは、じっとその絵をみつめると、目に涙を浮かべた。いったいどうしたんだ?僕は何もしていないのに、なぜか泣かれる才能はあるらしい。かつて姉のルームメイトだった女性にも泣かれた。
マウロはどこからどうみてもクールなイタリア系アメリカ人にみえた。ブラウンの長い髪と同色の瞳、モデルのように完璧だ。僕が女だったら間違いなく惚れていた。着ているスーツもイタリア人らしく上等で、エクゼクティブの匂いがした。ウォール街の人間ではないことはわかったが、ひとつだけ気になることがあった。言動がどこかひっかかる。
僕達は、場所を変え近くのBarで飲み直した。マウロは、やはりエクゼクティブだった。リトルイタリーに1件、トライベッカに1件イタリアンレストランを所有していて、ミッドタウンにもう1件、富裕層向けのイタリアンレストランを開店しようとしているオーナーだった。話す内にだんだん気付いていく。レイがVillage Vanguardを好きだったこと。レイが突然マウロの前から消えたことで、どんなに傷ついたかしれないこと。そして、レイとは男かもしれないこと。普通ならJazz Clubで確信してもよさそうだが、なにしろこんなにピュアになった夜はないくらい何でも受け入れられそうな気分だったので、マウロが例えゲイでも気にならなかった。
僕の事をいろいろ聞きだしたマウロは、帰ろうとする僕に「君の絵に救われたよ。僕の所ならもっと良い環境で絵が描ける。才能にもサポーターは必要さ」と言って僕を部屋に誘った。僕は、酔っていたがはっきりとそこで大真面目に言った。
「僕はストレートだよ」
今思い出しても笑える。僕は、ゲイピープルが集まるClubにもパレードを見に行ったこともなかったから、そんな場面に出くわすなんて思いもしなかった。
マウロが今度は腹を抱えて笑いだし、その笑いが止まらずせき込み、最後には涙まで流した。
「そんなことは、最初からわかっているさ」
Village Vanguardで描いた絵は、色を乗せ208×208cmとなって、今でもトライベッカのカジュアルなイタリアンレストランを見守っているはずだ。どうやら僕の絵は、リトルイタリーやミッドタウンよりトライベッカ向きらしい。伝統と格式があるリオカステリのギャラリーには間違っても展示されない絵かもしれないが、トライベッカのレストランにはぴったりとはまっていると僕は自負している。マウロはその絵に合わせ、ほんの少し店内の雰囲気を変えた。真っ白なテーブルクロスをピスタチオグリーンに変えたのだ。
有名なファション誌でディレクターをしているサムは、マウロの新しい?恋人だった。いわゆる典型的なゲイのスタイルである短髪にほどよいマッチョの肉体美をさりげなく自慢するサムは、人に世話をやくことが生きがいでかつ料理好だった。いつもタイトな無地か柄物のシルクのシャツを着ていて、左耳にオニキスのピアスと左手のピンキーリングがトレードマークだが、それがスタイルの良さと相まってかっこよくみえた。オリエンタルの血が混じっているのか、エキゾチックな顔をしていることも、それらを引き立ていた。父親の事業を引き継いだマウロと違って後に聞いたサムの生い立ちは、少々複雑だった。母親がベトナム戦争終結直前に米国に渡った。教育水準が比較的高く南ベトナムの米国企業で働いていた母親は、サイゴンが陥落する直前にアメリカが在越米国人に避難勧告が発令された際、当時恋人関係にあった米国人と一緒に渡米した。ミュージカル「ミス・サイゴン」のような悲劇的な状況ではなかったが、サムがお腹にいると気付いた時には、別れていたらしい。だが英語が喋れたため、当初他の在米ベトナム人と同様苦しい環境で辛酸は舐めたものの、サムがキンダーガーデンを卒業する頃には、新しい米国人の恋人の援助を受け比較的余裕のある暮らしができたようだ。その母親は同性愛者であるサムを理解することなく、結局その恋人とも別れ政府の方針変更で市民権を取得していたにもかかわらず、サムが高校を卒業すると帰国が可能となったベトナムに戻り結婚した。サムは、紆余曲折あったが米国に残り、もやは家族は、マウロだけだと思っていると僕に語った。
二人は一緒に暮らしていた。僕がBarで聞いたレイの話しは、遠い昔の恋人だったことがそこで判明した。マウロは、ときどき、昔を偲ぶかのようにVillage Vanguardに足を運ぶらしい。
僕は、アッパー・イーストサイドの超高級アパートメントに住んでいる二人の居候になった。なんだか「Sex and the city」みたいだ。僕はステイタスも恋愛もこの地でそれほど執着していたわけではないけど、鼠がはいずりまわるイーストビレッジの狭いアパートメントなんかよりリネンのシーツに包まれたベッドは格段に快適だった。これから向かえる凍える冬をイーストビレッジの粗末な部屋で越す気力は一瞬で消え、節操のない僕はマウロの好意に甘えた。調子の良さはどこに行っても変わらない。ただし、あくまでストレートの男として。そこは、なんとしても死守していかなければいけない。
カッシーナで統一している洗練されたインテリアの2ベットルームとテラスから見下ろせるセントラルパークは、本当にゴージャスでニューヨーカーは憧れ、それは成功した者が手に入れることができる。僕には、ゲストルームを与えられ、最初こそ戸惑いはしたが、あっという間に彼らの仲の良さも喧嘩も慣れ、誘惑されることもなく、甘やかされた環境でようやく落ち着いて創作活動を始めることができた。と言っても僕の事だから、これまでの2年半を取り戻すかのようにだらだらしていた。だって、こんなラグジュアリーな生活ができるなんてそれこそ、数か月前までは信じられなかったのだ。
ワーカホリックとは、もはや日本人に対してではなく、ニューヨーカーに対して当てはまる言葉で二人の帰宅は深夜になることもあったが、週末にはサムがはまっていたオーガニックのタイ料理を招待した友人達の為にふるまい(ゲイだけではなく、女性もいた)、時の大統領と共和党の悪口をスタンダップコメディのようにジョークにし、ラテン音楽が流れ、中でもラテンバージョンの「マイウエイ」がかかると皆で歌いだし、サビからの盛り上がりは、本物のオペラのように荘厳になり意外と感動したりする。天気の良い暖かい日には、セントラルパークでサムのランチを堪能し、昼寝をする。凍える週末は、部屋でそれぞれ本を読んだり、借りてきた映画を見たりした。僕は、その時始めて「La Strada」というタイトルのイタリア映画をみた。悲しい物語だった。そして、すっかり怠けていた筋トレをサムのダンベルを借りて再開したりした。
楽しむことを惜しまない週末に僕は、「世界は僕の見方だ!」とテラスで何度叫んだかしれない。そんな僕に、寛容なマウロは何も言わなかったが、サムはさすがに呆れ、「あんたが、可哀相な浮浪者になり下がるか男娼になり下がるしかなかったところを私達が拾ってあげたんだからね、そこのところを忘れないでよ、アキ」とスラングだらけの英語で厳しい説教をされた。僕は、ペット扱いでも一向にかまわなかった。しかし、マウロに言われて例の絵をシルクスクリーンにしようと決めた。トライベッカの店に飾るからと。少しずつ僕はバスキアに近づいていく。
高二の初夏、僕はバスキアと出会った。みゆきが夏風邪をこじらせ、学校を1週間休んだことがあった。期末テストがせまっていたこともあり、僕はみゆきにノートを貸した。まじめな生徒ではなかったから、僕のノートはたいして役に立たなかったと思う。その数Ⅱのノートは、公式の解説より仲の良い友人達や数学の教師をモデルに幼稚園児が描いたようなへたくそな落書きで空白を埋めていた。ノートは、期末テストの直前に戻ってきた。テスト勉強をほとんどしない僕は、ノートを開かず試験を終えた。赤点ぎりぎりのテスト結果だったが、教師が授業中復讐を要求した為、しかたなくノートを開いた。僕の落書きの隙間に黒いフェルトベンで「バスキアみたい。この絵大好き!」とみゆきの字で書いてあった。僕は、何がなんだかわらず、後日みゆきにその意味を訪ねた。
「ジャン・ミッシェル・バスキアよ。名前の響きが素敵でしょ?彼の絵が大好きなの」みゆきはそう答えた。僕はその時始めてバスキアを知り、彼の映画が公開されること聞いた。思えば、みゆきにほめられたのは、あの落書きだけだった。それはそれで嬉しいが、みゆきは知っていたのだろうか。バスキアの絵は、純粋な子供の描くような絵ではなく、そこにどうしようもない怒りと反抗、つまり根強い人種差別そのものを描いていたことを。
脱ぎっぱなしの服とデッサンを何度か見直し、プリントアウトした紙で散らかり放題の僕の部屋を覗いたサムが「あんたの部屋は宇宙一きたないわね。だからストレートって嫌いよ」と嘆いたことがあった。潔癖なサムにとって僕の部屋は理解を超えていた。それでも、完成した作品を見せるとこれ以上ない喜びようで、大げさなほめ言葉を並べたてたリアクションのすごさといったらなかった。
その作品の完成までが難航した。シルクスクリーンの実作業は、まずそれができる場所探しから始まった。見つけたウエストビレッジのグラッフィックセンターのワークショップに参加し、そこで作業を開始することが出来たが、慣れないものだからやり直しも含め、納得行く完成までにほぼ半年もかかった。
AIRのせつなさ漂う「Starlet」のような楽曲を聞いてもめったにセンチメンタルにならない僕は、アッパー・イーストサイドからグラフィックセンターがあるウエストビレッジまでの地下鉄で、ずっとAIRの音をヘッドホンで楽しみながら、枯れ葉が散り、雪がちらつく冬からセントラルパークが色づき始めた春までの間、シルクスクリーンと格闘した。ただ一度だけ、イーストビレッジに住んでいた頃、深夜自宅に向かう地下鉄に乗っていた時だった。向かいに座っていた黒人女性が、赤ん坊を抱きあやす姿を見ていたら、ヘッドホンから流れる楽曲が「Good to see you」に切り替わり、その曲の途中からなぜかふいに涙がこぼれた。闇の中をさまよって抜け出す方法を探っていたころだった。
「廃墟の中のライオンとデージー」が完成した後は、燃え尽きるかと思ったが、そんなことはなく、僕は身近な刺激から週末のパーティー模様やニューヨークのメキシコ、インドやパキスタン、アラブ圏の街や人々をデッサンしていた。描いてみて気付いた。僕は、マイノリティーに特別な想いがあるらしい。かつて、この都市はメルティング・ポットと呼ばれていた。しかし今ではスーパーリッチとスーパープアの差はますます開き、今ではサラダボウルと呼ぶ。溶け合うことはないからだ。スーパープアのほとんどがマイノリティーであり、僕もその一人だった。狂った金融市場主義とグローバル経済がもたらした残念な現実。マウロは、リッチの部類に入るが上には上がいる。リッチな人々は自己資金を運用し、更にリッチになろうとする。マウロは、そんな人々を軽蔑していた。リーマンショックで多額の損失を出した人々もいたが、マウロは全く同情しなかった。投資が生みだすものは良くも悪くも金でしかなく、そこにクリエイティビィティは存在しない。マウロが金持ちになっても投資をしないのは、彼の美学である。料理もファッションもその範疇であり、僕のような半端なアーティストを拾ってくれた。
僕は、マウロの店を手伝いながら、デッサンをし、上手く描けた絵をシルクスクリーンにしていった。ホームパーティーのシルクスクリーンは、二人のリビングに飾られた。
「だんだんアーティストらしくなってきたわね」とサムに言われたのは、僕が居候を始めて3年が過ぎようとしていた頃だった。マイノリティーの新人を扱うギャラリーから僕のシルクスクリーンを展示しないかと打診されたからだ。マウロかサムの口利きに違いないと思ったが、そこにこだわりはなかった。恩人の好意は、気持ちよく受けるのが信条の僕は、ようやくスタートラインに立てた気がした。そして、気がつけばバスキアがこの世を去った年に僕はなっていた。
その翌年の夏、みゆきが姉のいる香港を訪ねた事を聞いた。みゆきはどこか沈んでいたようだと姉は気にしていたが、僕はそれほど心配しなかった。僕の送ったグリーティングの返信はなかったが、アドレスは生きていた。Sep.11の年末から僕は生きている証としてみゆきにグリーティングを送っていた。みゆきは、僕がどこにいても生きてさえいれば、きっと彼女自身の戦いを止めないだろうと思っていた。
日本に帰ると決めた日、「そういう日がいつか来ると思っていた」とマウロにしみじみ言われ、サムには、「あなたのアートは、日本でもためさなきゃね」と涙ぐまれた。僕は、送別会を盛大にやるというサムに、いつも通りに過ごしてほしいと説得した。別れの朝、僕は情けない位に号泣した。
「私達は家族なんだから、いつでも戻って来ていいのよ」サムが言った。僕は、「サムのトムヤムクンスープの味は、一生忘れないだろう」と伝えた。そして僕を強くハグし、キスまでした。そこですでに泣いていた僕だが、マウロとは言葉にならず、ただやさしく長くハグをされ、僕は号泣したのだ。
僕は、AIRが活動を終了した年に日本に帰って来た。
そして今、僕は瀬戸内に住んでいる。
AIRの最後のシングル「Pansy」を機上で聴きながらみゆきに会いたいと強く思った。どうしてもみゆきに見せたい。僕達の原点を。成田に到着すると、僕はみゆきに8年ぶりに電話をかけた。
春とはいえ、海風はまだ冷たい。僕は、フリースのポケットに手を突っ込み、見慣れた海を8年ぶりに眺めた。ニューヨークに住んでいる間、何度か帰国したが海に来ることはなかった。サーファーが数人波に乗っていた。水平線を貨物船がのんびり通りすぎる。変わらないPearceなVibes。春の陽光をたっぷり浴びきらきらした地元の海のVibesは、変わっていなかった。
今日のアジェンダの議論は続いていたが、結論がでないまま時間が来てしまい会議は終了し、次回に持ち越された。企業の価値と社会貢献を融合させることは簡単ではない。
環境植物として注目されているヘンプは、その茎からはさまざまなエコ製品が製造される。私は、ヘンプ製品を環境対策の一環として取り上げた。だが、そこにどうしてもコストがかかるため、社員証ケースやネックストラップ2万人分をヘンプに変更するという私のアイデアを実現させるには厳しそうだった。
U2のBONOの記事を読んだのは何時のことだっただろうか。BONOは、エチオピアでの体験から本気で貧困国、特にアフリカを支援する事を決め、ビル&メリンダゲイツや要人に直々に会い支援の協力を求めた。国際支援団体の呼び掛けは、基本的に私が子供の頃から何十年と変わっていない。『あなたの援助で発展途上国の赤ちゃんを救うことができる』次から次へと起こる深刻で根深い複雑な問題に追われているからかもしれないが、そこに搾取の匂いがどうしても拭えず、懐疑的になる。BONOの記事は、それでも目の前で起こっている過酷な状況に直面し、目をそむける事ができなくなることもあると思わせた。
香港から戻った後、すっかり情熱を失ったマーケティングの仕事をこれ以上続ける気持ちになれず、会社を辞めようかと悩んでいた。しかし、それは逃げるようで癪だった。その頃からどこかで読んだBONOの記事が脳裏を掠め、私に出来ることはないか模索した。そんな時、社内サイトに普段見逃していたCSRの活動が掲載された。社内のカフェテリアで対象となる食事をすると、その一部の料金が発展途上国の子供達のために寄付されるというプログラムだった。私はCSR部門に異動願いをだした。CSRは、企業の社会的責任を実現し、企業のブランド価値を高め、株主達に貢献する方法として欠かせない。しかしその解釈は広く、環境問題への取り組みや貧困国への支援など社会的貢献も含まれていた。
私が入社した頃1000人足らずだった会社は、関連事業と大型買収を繰り返した結果、今やグループ会社全体で従業員2万人を超える大企業に成長していた。グループ会社は、持ち株会社をもちそこにCSR部門を設置していた。企業だからこそ出来る社会貢献があると私は、信じたい。例えそれが企業のブランド価値を高めるだけの手段だとしても、大した問題ではない。
秋幸から携帯に電話がかかってきたのは、ちょうど会議が終了した夕方だった。私は会議室に残り、電話に出た。公衆電話からで、秋幸の声を8年ぶりに聞いた。懐かしさと愛しさで思わず胸がいっぱいになるが、次の瞬間いつもそこにいたように感じられ私は、以前と変わらない声で答えていた。
「明日の夕方、フォレストで待ってるから、きてよ」
「明日は、仕事なんですけど」
「休めない?」
「あたりまえでしょ。そんな急に言われてもアキと違って、私は上場企業で働いてるの」
「相変わらずだねえ、そういうとこ」
笑い声が聞こえた。私は、再び胸がいっぱいになるのを感じていた。
「その言葉、そっくりお返しします。いつも勝手なのはそっちでしょ」
通話がまもなく切れるというアラートがなった。
「待っているから、来てよ」
ほとんど会話らしい会話をしないまま、秋幸の電話はきれた。
22Fの会議室の窓から見える東京湾に夕日が差していた。私はしばらくの間、窓の外の東京湾をみつめていた。
カフェフォレストの外観は、潮風にさらされブリックの壁が黒ずんでいる。それはそれで、レトロな趣があり悪くなかった。クロム化した重い扉に、closeのプレートがかかっている。扉のノブを引くと鍵はかかっていなかった。薄暗い店内に秋幸の姿はなく、カウンターの奥にあるofficeからガタガタと音がした。ノックをすると「みゆ?」と秋幸の声がした。ドアを開け中に入ると、電気がついていて色あせたStussyのTシャツを着ている秋幸が、デスクを動かしていた。壁際に向かって配置していたデスクを東の窓側へ移している。窓の外は、日が沈みかけていた。
「何してるの?」
秋幸が振り向き、私をみて一瞬フリーズする。
「誰かと思ったよ。ピンストのスーツ着てるからさ」
「まるまる1日は、休めなかったのよ」
「じゃあ、仕事してきたわけ?」
「そうよ、午前中はね」
「そうか、悪いことしたね」
「今更いいわよ。それより何してるの?」
「何って、レイアウトチェンジ」
「意味がわからないんですけど。勝手にそんなことしていいの?」
「いいの、いいの。ほら、そこの椅子を持ってきてよ」
秋幸は、壁際に避けていたデスクと対になる椅子を指した。そして、床に置いていたモニターとデスクトップPCをデスクに戻し、ケーブルをつないだ。私は、もっていたトートバックをソファーの上に置いた。ソファーのアームには、黒いフリースがかかっていた。
椅子を秋幸に渡すと、「よし、これでOKかな」と言って周りを見渡し、秋幸は改めて私を見た。
「久しぶり」
「久しぶりな気がしないんですけど」
「だね」
「何がだね、よ。」
「だって、ホント学生以来とは思えなくて、ついこの前だった気がするんだ」
私は、午後の予定をすべてキャンセルしここにきた。その日の午後は、2本打ち合わせが入っていた。社内の定例ミーティングと手話講師との打ち合わせだった。定例ミーティングはどうにかなるが、問題は社外の手話講師との打ち合わせだった。メディアで活躍している忙しい講師のスケジュール変更に不安を抱きながら私は、電話を入れ、打ち合わせ日程の変更を依頼した。講師は、めずらしく翌週の日程に余裕があり、なんとか打ち合わせをずらすことができた。
プライオリティは、秋幸との再会になっていた。私は、午後の新幹線に飛び乗った。再会した秋幸は、焦りのようなものが削ぎ落とされたようにみえた。目元に少し年月を感じさせたが、どこか余裕が見てとれる。
「で、ここで何をしようとしてるわけ?レイアウトチェンジと関係があるの?」
「いや、特に。こっち側の方が、景色が良いと思ったから。先生も気にいるでしょ」
「朝日は浴びれるかも。どうせ先生は、朝までここで仕事してるんだし」
「そういうこと。それで、みゆには、ちょっと振り向いて入口の壁を見てみてほしいんだけど」
部屋に入って左側の壁にアクリル画がかかっていた。入る時はまるで気がつかなかった。
その絵は、暗闇の中で背後からスポットライトがステージ上の3人にあたり、人物の輪郭だけが浮かび上がっていた。そのステージをオーディエンスのシルエットが囲む。左側の人物はベースを弾き、真ん中の人物はドラムス、そして、右側の人物はAIRに違いなく、椅子にすわりギターを弾いていた。私は、振り向き思わず秋幸をみた。
「これって、あの日のライブね」
「そう。俺達のStarting Point」
「原点?」
「もしくは、ソウルメイトになった日」
私は、もう一度その絵を見つめた。
「すごい。すごいよ、アキ」鮮やかによみがえり、鼓動が高鳴る。
「ありがとう。ほめられついでに、あの日みたいにここでみゆにキスしてSexしたいとこなんだけど、もういかなきゃいけないんだ」
「どこに?」
秋幸は、リーバイスのヒップポケットから車のKeyをだして言った。
「夜通し走って、高松まで」
私は、また置き去りにされたが、孤独ではなかった。どういうわけか、とても嬉しくてしかたなかった。私は、ソファーに座り目を閉じた。鮮やかによみがえったあの日の熱狂の記憶。二人だけの為の絵のタイトルは、「永遠の一瞬」がふさわしいと思った。そして私は、先生に起こされるまでいつの間にかソファで眠ってしまったようだった。
高松から高速船で35分ほどの瀬戸内の小さな島は、この地方の方言の特徴である柔らかさがそのまま息づいていて、秋幸の口癖を借りれば地元の海と違うPeaseなVibesがある。
漁港近くの古い民家を利用したギャラリー兼カフェは、ひっそりと看板を掲げていた。私は、その開けっ放しの玄関にそっと入り、しばらく中の様子をうかがった。誰もいないようで、声をかけたがどこからも返事がなかった。玄関が開いてはいるがカフェは、定休日のようだ。民家であるため、玄関のたたきを上がると畳の部屋が2間続になっていて、その気持ちの良い空間にさまざまなサイズのテーブルが配置されていた。畳に上がり、テーブルをみるとイラストが彫られていた。私は、テーブルの彫刻を指でなぞりながら、それは秋幸の手によるものに違いないと思った。無秩序に積み上げられた粗大ごみが、まるで生きているかのようにデフォルメされシュールだが、喜怒哀楽の表情に愛嬌がある。しかしそれは痛烈な皮肉なようで、バスキアのエッセンスに近い。高校生の頃、秋幸から借りたノートに描かれていた落書きを思い出し、思わず微笑んだ。
「みゆ?」
玄関に秋幸がバケツを持って立っていた。バケツの中には、小さな魚が数匹入っていた。
「来ちゃったよ。悔しくてたまらないけど、アキに会いに来ちゃった」