最終話 「Wonder Last」
理想にすらない現実との乖離。
でもあなたは女を神聖視したでしょ? だから人形じゃないと抱けない 綺麗な陰部じゃないと耐えられない 誰かの精子が入っているのを想像するだけで耐えられなくなる 快楽のために尽くした性を許せなくなる それは所詮自分も同じなのに どうして綺麗であることを求めるの? どうして本当のことに気付こうとしないの? どうして本当の体温も知らないまま嫌悪感を示すの?
どうか気付いて・・・、あなたが大人になる前に。
最終話 「Wonder Last」
ゆっくりと目が覚める、僕は生きているのだろうか・・・? 未だ不透明な意識の中ではそれすらもよくわからない。しかし、自分の部屋を見渡しても“なにもないようにしか思えなかった”、誰もここが僕の部屋だとわかる人はいない・・・。誰も踏み行ったこともない、だから誰にも認識されていない。
それは、その事実は僕の孤独そのもので、僕自身に思えた。
「そうか・・・、確かに僕は、ハーティーのおかげで生きていることが実感できたのかもしれない・・・、僕の話になんて、今まで誰も耳を傾ける人はいなかった・・・」
なぜ、こんなにも生きることは辛いのだろう・・・、なぜ、僕はまだ生きているんだろう・・・、生きていたら今日もきっと夜が遅くなれば仕事に行かなければならないのに・・・。仕事が終わっても家に戻ってくるだけ、きっと疲れて寝てしまう、そうして毎日を繰り返していくんだ、誰々より幸せで、誰々より不幸だとか、そんなことは関係なくて、またトラウマのように眠れない夜が来て、僕は無理矢理にハルシオンの錠剤を飲んで、眠るんだ。
時計を見ると気付けばお昼を過ぎて、もうすぐ陽が沈み始める時刻になっていた。
僕の前には意識が無くなる前と同じように、片腕をもぎ取られたダッチワイフの人形が首を傾けて壁にもたれ掛かっている。
何だろう、僕は何を考えているのだろう、僕は人形に感情が宿ったときにその人間性を感じ取った、言葉に出来ないほどの罪悪感を感じた。それは一体何なのだろう?どうしてなのだろう?
でも、そう堂々巡りに迷いの言葉を重ねても、僕は頭の中では気付いてしまっている。
ハーティーが自ら至った残酷な答えを僕に突きつけようとしていること。人間が生きる日常生活にはあまりに打算的人間関係が溢れているのに、なのに、それなのに・・・、ハーティーは最も残酷なナイフを持ってアンドロイドは人間を救うものにはならないと突きつけるのだ。
そう、“僕がアンドロイドに心の宿らせたのは、僕がこれ以上傷つかないための防衛本能だと”ハーティーは最初から僕がアンドロイドに心を宿らせることを予測していたのだ。
「あなたはまだ人間が好きなのよ」
パソコンのスピーカーから聞こえる母の声だった。
「どうして今更そんな事を言うんだよ!! 今までだって、これまでだって、僕は自分の生活に不自由を感じてなんていないのに」
「それじゃあいつまでも“なにもない部屋”に籠もっているの?あなたはまだ、人間になりきれていないのよ」
「他人に依存することでしか生きられないような人間に、何を期待しろって言うんだよ!」
「人間はね、まだ、あなたが思っているよりもずっと弱いわ、それは誰であっても例外ではないのよ、だから依存し、共存し、認めてもらわないと、人間を全うできないのよ」
―――理想ばかり描いてきたの、あなたも、国も、秩序も、倫理も、言葉も、社会も、でもね、それに裏切られたからといって、逃げてはいけないのよ。人間の自我は失ってはならないから、信じてあげなきゃならないのよ。
「もう、あなた自身が恐れなくてもいい、強い自分になりなさい」
「今更僕を許すのか・・・?」
「いつまでも子どもの世話をしてられないのよ」
僕は一度、瞳を閉じて深く深呼吸をした。僕という連続性は何一つ変わることはない、でも、僕の心の中には今までにない感情が灯って光を放っていた。
「あなたに“この幻想”が壊せる?」
優しくもか細い人形の声、僕は気付けば人形の中に心を生み出していた。それは僕が幻想を失いたくないという想いそのものだった。傷だらけの人形は僕に問いかける。そして僕は答えた。
「僕にはアンドロイドは似合わないみたいだ・・・、いや違うな・・・、君はまだ、人間の代わりになんてなれやしないんだ、人間の代わりなんてどこにもないんだ・・・・・・っ」
僕の瞳からもう、止めどなく涙が流れていた。人間の求めた理想が崩れていくように、僕が現実に目覚めていくように、涙はポタポタと自然にフローリングを濡らしていく。
「それじゃあ、一緒に歌おう? この歌が終わるまで・・・、歌い終わる頃には私の意識は消えるわ、そうすればあなたは幻想なしに生きていけるから、私のことを消したいのでしょう? 醜いと思うのでしょう? 人なんかじゃないと理解しているのでしょう?」
それが人形の願いだった。そして僕自身の願いだった。純粋なまでに僕を想うアンドロイドの愛、僕の心は揺らいだ。
「さぁ、心と身体を切り離して、その入れ物を捨てればいい、最初からそうするつもりだったのでしょう?」
ボーカロイドとなった彼女は僕の心の中で歌う、それは彼女が消えるための歌、僕と心を切り離すための歌、“終わらないための歌”。
“オワラナイウタヲウタオウ、僕ガ終ワッテシマウマエニ”
人間は弱い・・、僕も例外ではないと・・・、それじゃあどうすれば気付ける? どうすれば僕はその弱い心に触れられる? あれ・・・? どうして僕は人のためになろうとしてるんだ? それが生きるための相互作用? それが人間だというの?
“オワラナイウタヲウタオウ、僕ガ終ワッテシマウマエニ”
僕は気づき始めてる、思考することで自分がタナトスから抜け出そうしていること、タナトスは死へと向かう衝動・破壊衝動。タナトスの濃度が上がることは自滅へと向かうことであり、ネガティヴな感情を取り込み、社会環境の変化に乗じても大きくなると言われている。そして僕はその反対の意味、「生に対する欲求」に希望を委ねようとしている。表裏一体となる二つは生きる意志が増えれば総じて好転することもある、僕の心には“終わらない歌”が響き渡っている。
“オワラナイウタヲウタオウ、僕ガ終ワッテシマウマエニ”
人間が求めた欲望の象徴、アンドロイドという偽りの肖像、そして目の前にあるのはアンドロイドの理想ですらないダッチワイフの人形、そこに向けられる僕の感情はネガティヴなものでしかない、僕が求めたのは人間の心そのものだった。
それは文明がどれだけ進歩しても人間にしか求めることが出来ない、今はとても遠いものであっても、僕はこの優しいメロディーの終わりと共に覚悟を決め進もうとしている。
“オワラナイウタヲウタオウ、僕ガ終ワッテシマウマエニ”
人形に向かって一歩一歩近づく毎に続く無感情な気持ち、感情のないものが相手なのだから、感情なんていらない、迷わずにやるだけ。
僕は振りかぶり、一瞬瞳を閉じて、感情を押し殺して勢いよく振り下ろし、その首を落として、ただ自分のエゴのために人形を振り払った。
“オワラナイウタヲウタオウ、僕ガ終ワッテシ――――”
砂嵐のような残響が残る中、僕は言われるがままに、僕自身の意志ですべてを切り離し、捨て去った。声も音も存在も、部屋の中から消える、玄関から唐突に吹く冷たい風。
人形を捨て去った最後には何もない僕自身が残った。
「それがあなたの求めていた正体です。あなたは現実に還りなさい、最初からそれしか道は残されていないのです」
すべてをやり終えた感傷が部屋を佇みながら僕を襲う。
僕たちが求めたのは都合のいい愛でしかなかった。
だから僕らの足下には何もないんだ。
僕たちは確かに無価値な快楽を追いかけてきた、今僕たちを襲っている虚無感はその罪の証なのだ。
でもやっぱり気づけないんだ、届かないんだ。ただ妄想と著作の中で消化した想像力では、だから、殴り合わなきゃ、向き合わなきゃいかなるどうしようもない事情があろうと気づくことなんて出来ないんだ。それがやっぱり人間であって、動物であって、人間の弱さなんだ。
僕は静かにベランダの網戸を開き、裸足のままベランダに出る。今まで感じたことのないような肌に直接触れるような風が吹いている、それは汗ばんだ服をも気持ちよく揺れ動かした。僕は無意識のまま、すでに空を流れる夕焼け空を眺めた。それは僕が今まで観てきた夕焼け空よりも、ずっと鮮やかで、美しい空に見えた。
たった一日にも満たない時間、一体何があったのか、僕の中で何が起こったのか。
世界の誰も知ることのない物語。
僕一人の自意識を巡る物語。
誰にも聞かせることのない歌。
気付けば昨日と変わらない室内、でも僕の中で何かが変わり始めた気がした。
およそ4時間もすれば僕はまた仕事に向かう、それはずっと変わらないのかもしれないし、明日には変わってしまうかもしれない。でも僕が自分の意志で生きていくという自意識はこれからもずっと連続して続いていくことだろう。それが僕が生きていくことに対する責任であり、義務なのだ。
僕はやがて涙も枯れて、夕焼け空を眺めるのを止めて自分の部屋に戻る。
再び静けさの戻った部屋、僕の中には誰にも聞かせたことのない“なまえのないうた”だけが胸の奥に残った。