第三話 「ナラティブ・セラピー」
第三話 「ナラティブ・セラピー」
僕の中にある劣等感ともいうべきスティグマの記憶。こうしてここにいる社会的ジレンマの原因となるあの事件。僕はその事件一つで社会的に軽蔑される存在となった。
諦めたいとは思わないが日本とはそういう国なのだ。
湿気の多く、蒸し暑い夏に近い日、今の僕にとっては随分昔の話し、高等部に入って幾ばくか過ぎた頃だった。
部屋の窓から見える色が茜色から黒に染まって来た頃、クーラーの涼しい風音が部屋を包む中、清水泉美はベッドの上に座り僕と長い二人の時を過ごしていた。部屋に掛けられた壁掛け時計の過ぎる時間は感覚よりも遙かに早く、時間を確認する度にその過ぎる時間の早さに驚き、大切な時間が失われていくのを嫌でも感じざる負えなかった。
泉美とは何年もの付き合いになるけど、こうして名目付きとはいえ一緒の部屋にいられることは貴重な機会だった。待ち望んだ二人きりの時間、僕には迷いはなかった。
どれくらい好きで
どれくらい待ち望んできて
どれくらいこの時間が大切で楽しいか
この気持ちを泉美と共有したくて、僕は泉美を見つめた
気付けば漫画を閉じ、僕の視線に気付いてこちらを覗き見る泉美がいた、その視線が揺るぎなく合わさっていくのを感じた。自然と身体は動いた、その身体を支えるように泉美の腕の先を掴み、もたれ掛かる姿勢で泉美に近づいていく。
バタン! と泉美の身体が仰向けのままベッドに倒れかかる、押し倒した姿勢のまま僕は泉美を見つめた。静まり返った時間は審判が時が始まっているかのようであった。
僕の気持ちに揺るぎはなかった、最初からそのつもりだった、機会さえあれば泉美を抱くつもりでいた。それだけ愛して止まなかったから。
泉美は何を考えているのだろう・・・、この時になって二人でいることの意味を考えているのだろうか・・・、そんなことはないと信じたい・・・、でも泉美はあまり思ったことを表情に出さないタイプだ、揺れる事のない瞳からは、その気持ちを測るのは難しい。
それでも僕は泉美を信じたくてその身体に近づいていった。
「・・・・・・やめて、二度と近寄らないで」
次の瞬間、ガラっと世界が移り変わったように、鋭く歪んだ視線で泉美は僕の心を切り刻んだ。泉美は聞いたことのないような声色で別れを告げると、一瞬にして荷物を持って逃げるように部屋を出て行った。
“蜃気楼のように、泉美との思い出が記憶の中から溢れ、瞳を熱くさせた・・・”
これまでのことは、これまで過ごしてきた時間は何だったのか、何が間違っていたのかなんて僕には分かりようがなかった。
*
約一週間後の放課後、僕の姿は教室にあった。寝不足の毎日が続き、気付けば放課後の教室で眠っていた。横から聞こえる声で分かったが教室にはまだ数人の女生徒がいるらしい、耳に響く高周波の笑い声や棘のある言葉は僕に嫌悪感を与えたが、僕はその女生徒に目も向けなかったので誰がそこにいるのかわからず、興味も沸かなかった。
それでも、時折、女生徒たちの影が触れているのは横目に見えた。
どうして泉美が僕を拒絶したのか、なぜあんな豹変を起こしたのか、一晩考え、今日まで考えてもそれでも答えは出なかった。
心から通じ合っていると思っていた。付き合っているものだと思っていた。泉美が他の男と仲がいいという話しは聞いたことがない、何が間違っていたのか・・・、確かめようにも変質してしまった泉美とはすでに会話が出来る状態ではなかった。
数年間共にしてきて、泉美があんな嫌がり方をするのは初めてだった。それまで見たことのない表情と声色だった。、学校での泉美の姿を見ることがなかったら未だに信じられなかっただろう。泉美は明らかに僕のことを無視し、視界にも留めようとしない。あれほど僕を頼りにしてくれた泉美はどこに行ってしまったのか、僕には皆目見当が付かなかった。
僕は重たい寝不足のままの身体を持ち上げて、席を立った。
少し気が立っていたのかもしれない、不安定なまま立ち上がったことでイスが横倒しになった。女子の視線を感じたが僕は尾首もせず苛立ちを少し隠しきれずに音を立ててイスを戻す、教室の中央に近い机から教卓の方に向かい教卓の前で右に曲がり二つ設置された出入り口の内の一つに向かう、しかし俯き加減で歩いていた僕の前に教室に入ってきたばかりの生徒が一人立ち塞がった。それは偶然のことだったけど、帰り道の障害となった。
「(・・・・・・なんだよ)」
言葉にならない呟きが溢れた、僕は視線を上に上げた、そこにいたのは予想もしていなかった泉美の姿であった。
その瞬間に僕は自分の持ち得てきた言語を全て失ったような心地だった、心臓が押しつぶされそうなほどに突然襲いかかる緊張感、嫌でも高鳴る鼓動、どうすることも出来ない感情、苛立ち、焦り・・・、もはやそれは隠しきれないほどに僕を支配していた。
「・・・・・・泉美」
僕は乾いた声で呟いた。泉美が今の言葉で何を思ったかを考えるとあまりにも自分が醜く、同時に泉美のことが許し難かった。僕の中を渦巻いている感情は明らかに後悔だった。やり直しができるものならやり直ししたい・・・、僕は誰よりも泉美のことを思っている自信がある、でも今の泉美は僕が知っている泉美ではなかった。
「・・・ごめん、俺・・・」
“ずっと揺るぎないものであったはずなのに、どうしてか、こうして泉美に会うたびに、泉美のことを好きである自分の感情がわからなくなった”
“本当に好きで、本当に恋しくてやまないのか、それは欲情によるものなのか、一時の感情なのか・・・、整理がつかなかった”
そして空気が歪むように泉美の表情が歪んだ。
その瞬間揺れていた感情が、無惨に崩壊し、あるはずのない感情を浮上させた。
「“・・・・・・クフフフフフフッッッ”」
短く、しかし僕の耳にはあまりに鮮明に、鼻で笑うように泉美は唇歪ませ微笑した。
何を嗤っているのか、何故嗤ったのか、皆目意味が分からない。でもそれが僕に向けられているものだということが嫌でも分かったとき、グツグツの沸き上がるマグマのような感情が一気に臨界点を超えて、僕の意識を支配した。
自分の理解を超えた感情の起状により気付けば先に身体が動いていた。
泉美には僕の動きは見えなかったかもしれない、それほど僕の中でも無意識的にそれはなされた。護身用のバターナイフを制服の内ポケットから音もなく取り出し、わずか二歩の距離を飛びかかるように一気に詰めて泉美の身体目掛けてナイフを突き刺した。
ナイフが突き刺さると同時に泉美は悲痛な呻き声を上げた。僕には感情が起状する間はなかった、すでに自分が引き返すことのできないところまで来ているという自意識が芽生えた頃には、泉美の手でナイフが振り払われていた。
ナイフが地面に転がり音を立てると同時、泉美の腹部から真っ赤な血が流れ始めるのを僕は見た。
「・・・・・・・・・稀生っ」
泉美は表情を歪ませ敵意を露わにして傷口に触れた。傷口は僕が予想していたよりもずっと浅く、泉美が倒れることもなかった。
「・・・・・・ほんとに、しねばいいのに・・・」
最後に彼女は呟いた。それ以上の声は僕には聞こえなかった、言葉を発するのを許さなかった。左手を高く上げ、その手で泉美の顔を左から耳全体を覆うように掴みかかり、渾身の力を持って横に投げ飛ばした。
バタン!ガタン!と泉美が机に頭をぶつけ崩れていく音が教室中を響いた、想定はしていなかったが、自分でも信じられない腕力を発揮し泉美は空気と一体化したように僕とそれほど変わらない体格の身体を地面に落とした。
「ちょっと泉美!!」
「どうしたの、泉美!!」
「どうなってんの、これ」
教室に残っていた女子生徒が泉美の傍に駆け寄り声を掛ける。
僕はその時になってようやく我に還り、自分のしたことを再認識した。僕にはそれを呆然と見送るしかなかった、泉美は倒れたまま動かない・・・、顔を後ろにうつ伏せに倒れているため表情を伺うことは出来ない・・・。
もう事態は取り返しの付かないことになっていた。
急に感情が冷めてきて、自分が怖くなる、本当に自分がやったのか? しようと思ってしたわけじゃない、確実に思考が追いついていなかった、僕はよくわからない悪魔に取り憑かれたような感覚で、今更になって罪悪感を植え付けられた。
「泉美!!泉美!!大丈夫?!今保健室に連れてくから」
「あんたがやったんでしょ?!あんた自分のやったことがどういうことかわかってんの!!?」
「泉美は、泉美は何も悪いことしてないじゃないの!!何でこんな目に遭わなきゃならないの!あんたに泉美の気持ちの何が分かるっていうのよ!!」
「男ってみんなそう、自分の都合のいいように置き換えて、支配した気になって、そのくせ無関心で、どれだけ傷つければわかるのよ!!」
「なんでも知った気になって、犯そうとして、謝ろうともしないで、なんでこんな酷いことができるのよ!!あんたは何様なのよ!!」
女子生徒達の言葉がナイフを突き刺すように、釘を打ち付けるように浴びせられる、尽きることのない非難は泉美が保健室に連れて行かれた後も永遠と続いた。
それからの事は放心状態でよく覚えていない・・・、何も考えたくなかった・・・、でも、僕を非難し、差別的に扱う言葉だけは延々と頭の中に響いた。
*
それは幼さゆえの事件だった、それから間もなく、非難や冷たい視線を何度となく浴びながら僕は少年鑑別所へと送られた。しかし泉美が無事であったことが幸いして罪を償う時間は長くはなかった。
他の生徒よりも遅れて高校を卒業した僕は、もうこの街にいることに限界を感じていた。
誰も犯罪者である僕と一緒にいたくなどない、それは親も例外ではなかった、幼さゆえの過ち、それは今の稀生にとっては強く自覚され、泉美のような仮面の内側を持つ人を恐れるように変わり、犯罪者としての対処のため、親の説得もあり一人引っ越すこととなった。
東京の街の対面接触の少ない非干渉的な生活環境はすぐに馴染んだ、用意されたアパートに住み、最小単位の生活を過ごし、与えられた仕事をこなすのはそれほど難しいことではなかった。
それゆえ、人との向き合いかたは変わらず、対面的コミュニケーション能力は欠如し、しかしそれを正す努力もそれほど意味があると感じなかった。
孤独感も慣れてしまえば、生きているということに変わりはなかった。特に大きな目標などなくても人は生きていける。時間だけを消化し、出来るだけ余分な情報を取り入れないように努めながら生きていく以外にすべは思いつかなかった。
そうして僕はここにいる、自分を構成するものなどそれほど変わっていない、ただ余計な干渉をしないように、同じ過ちを犯さないように、日々を消化するだけの日常を繰り返してきた。
*
「・・・・・・ううううあうっ・・・」
目覚めて早々酷い頭痛がした。深く眠っていたわけではなかった、意識が朦朧として閉じていただけ、深く眠っていたなら身体の痛みも幾分はマシになっていたことだろう、僕はなんとか身体を起こした。
「昔の事を思いだしたよ」
「今のタツミには必要ない、早く忘れてしまえばいい」
ハーティーは僕の言葉に返事した。寝起きの僕にはその声ははっきりと聞こえた。
「ハーティーは、僕はもう十分罪を償ったと思うかい? それとも罪は一生消えるものではないと思うかい?」
「人間は他人に依存することでしか生きる力を得ることは出来ないよ」
「ハーティー?それはどういうことだ?」
僕はハーティーの言葉の示す意味がわからず疑問を投げかけた。
「人は一人では生きていけない、人は消費し続ける限り迷惑をかけ続ける、それを享受せずに一人で生きようなど最初から不可能で、それこそフィクションの世界でしかないんだよ。
「僕はリセットすることで社会の一部として構成されるものになったはずだ、それが必ずしも迷惑を掛けているということではないだろう」
「なら真実を知ったとしても二度と非行を繰り返さないと誓えるか?」
ハーティーにしてはここまで僕の言葉をさしおいて自分を主張することは珍しかった、一体何を知っているというのか・・・、一体何を語ろうと言うのか・・・、それを聞けば僕が後悔でもするということなのか? 僕にはハーティーの意図するところが分からなかった。
「まどろっこしい・・・真実っていうのは何だよ、ハーティー?」
唐突に強いノイズがスピーカーから響いた。僕は鳥肌が立つと共に視線をPCに寄越した。バリバリバリ!!とスピーカーが壊れんばかりに部屋中を暴音が響き渡った。
“どうして今まで気付かなかったの? 稀生”
その声には変声器がついておらず、透き通るような、内なる意志のようなものが籠もった声であった。電子化された声では伝わらないさまざまな感情的部分が頭の中に入り込んでくる。
「・・・・・・なんであんたが・・・」
「・・・これが真実だよ」
”もうあまりによく知った人物、“ハーティーの正体は母であった”
「どうして一度もおかしいと思わなかったんだ? 一つも努力しないでここまできたのに、そんな都合のいい仲間でもできると思ったのか?」
それはまさしく最小単位の監視された社会であった。僕は僕の知らないところで生活の全てを握られていた。僕は自分の思うことをすべてハーティーに話してきたように思う、それは僕にプライバシーと呼べるものがないことを意味する。
僕は最初から騙されていたのだ、踊らされていたのだ、自由を得たように見えて僕は極めて限定的な世界観の中で自分の日々を消化していた。
再び絶望感が僕を襲う、何一つ変わらない、何一つ世界は許してはくれない、遠ざかったようですぐそばにいる、僕は生かされているに過ぎないのだ。
一人の少女が飛びました
10人の少女は何故飛んだのかと考えました
そのうちの一人の少女はどうして飛べたのかと考えました
僕はこの言葉を反芻し、この時に至って“どうして飛べたのか”と考えた。
紛れもなく僕は十分の一の絶望感の中にいる。もうどうすることもできない、すべてをなかったことにすれば、全員が幸せになれる、僕さえいなければ誰も気に病むことはない。
“泉美もそれを望んでいるはずだ・・・”
自分で命を絶つことを考えると無性に手が震えた。身体の底から冷たくなるような感覚が生じて、生きていることも空虚なものへと変わっていく。自分の弱さを嫌というほど痛感した。
死を選ぶことなんて簡単なはずなのに、自分が今思考していることも、今ここにあるという事実も、僕という肉体物質も、何もかも一生認識することができなくなるということが異常なまでに怖く感じる。死を意識する度に生きていることを実感する、そんな言葉を思い出して、今生じている自意識がそれそのものだということを再認識して、どうしようもなく身体が震えてくる。
一時の感情なんかじゃない、誰も急かすものなどいない、誰も見ている人などいない、でも、どうしようもなく死にたくてたまらなかった。生きているということが空虚で仕方なかった。
包丁を持つ手がどうしようもなく震える、それでも僕は右手に必要とは思えないほどの渾身の力で包丁を握り、その刃を左手の手首に定めた。
一瞬で終わる・・・、そう思った。
静止する声はなかった、僕は刃を手首に向かって振り下ろした。
ビシャっ!!っと血飛沫が舞って、視界までをも真っ赤に染め、一気に意識が遠のいて、透明な灰が降り積もるように、真っ白に意識が遠のいていく。
ポタ・・・ポタ・・・ポタ・・・、といつまでも手首から血が垂れているような感覚がした。もう包丁を握る手も力をなくして、ガタン!という音と共に包丁は地面に落ちた。そして僕の身体も次第に力をなくし、床の上に沈んでいく。あまりにあっけなく、僕の意識が奪われていく、痛い以上に透明になっていく意識が儚くも無常に近い、枯れ果てた感情を僕は静かに沈めて、ギリギリ開いていた目蓋を閉じて、ゆっくりと意識を閉じた。